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始まりの景色

ここから、龍斗の物語が始まります。


まだ何も知らなかった頃の、幼い日の記憶。


何気ない日常の中にあった、小さな出来事や思い出を、一つずつ描いていきます。


これから始まる長い物語を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。

俺が生まれた時のことは、もちろん俺自身は覚えていない。

ただ、母さんから何度か聞いた話がある。

父さんは嬉しそうに俺を抱いて、姉は少し不思議そうな顔で小さな俺を見ていたそうだ。


『本当に小さかったんだよ。』


母さんは昔、写真を見ながらそう言っていた。

今の俺からすると、その頃の自分は想像もできない。

今では巨漢だ。


何もできなくて。

誰かに支えてもらわないと生きられなくて。

そんな小さな存在だった俺が、少しずつ成長していった。


俺が生まれた町は、海が近い町だった。

歩いて少し行けば川がある。

さらにその先には海が広がっていて、天気のいい日は風が気持ちいい。海の匂いもする。

俺はそれが好きだった。

子どもの頃の俺は、その景色が当たり前だった。


だから特別なんて思ったことはない。


今思えば、あれだけ川や海を好きになったのは、この町で育ったからなのかもしれない。

小さい頃の俺にとって、家が世界の中心だった。


朝起きれば父さんと母さんがいて。

夜になれば家族が揃ってご飯を食べる。

それが当たり前だった。


部屋の広さなんて気にしたこともない。

新しい家具があるかなんて考えたこともない。

ただ、自分の帰る場所だった。


玄関を開けた時の匂い。

リビングから聞こえるテレビの音。

母さんが料理をしている音。

父さんが帰ってきた時の声。


今でも、そういう何気ないものの方が鮮明に覚えている。

子どもの頃は、それが特別なものだとは思わなかった。

毎日あるものだと思っていた。


家はマンションだった。

特別大きいわけでも、新しいわけでもない、ごく普通のマンション。


近くにはスーパーがあって、薬局があって、小さな公園がいくつもある。

少し歩けば大きな公園もあった。

駅には徒歩5分だ。

立地はそこそこ良かったかもしれない。


河川敷へ行けば、自転車に乗る人や犬の散歩をする人がいて、夕方になると小学生が野球やサッカーをしていた。


今でもあの景色は好きだ。

何も考えず、ただ座って風を感じているだけで落ち着く。


……まあ、これはもっと先の話だけど。


家族は四人。

父さん、母さん、姉、そして俺。


父さんはあまり細かいことを言わない人だった。

俺に何かを強制することも少なかった。


『やりなさい。』


『こうしなさい。』


そう言われることより、


『自分で決めろ。』


と言われることの方が多かった気がする。

好きにしろ。

やるなら最後までやれ。

そんなタイプ。


その代わり、口答えをするとちゃんと怒られる。

もちろん、何でも自由だったわけじゃない。

危ないことをした時は怒られた。

約束を破った時も怒られた。


その時の俺は、


『なんで怒るんだろう。』


と思っていた。

でも今考えると、父さんなりの考えがあったんだと思う。

何でも先回りして助けるのではなく、自分で考えることを覚えてほしかったのかもしれない。

子どもの頃の俺には、そんなこと分からなかった。

ただ、怒られたことだけを覚えていた。


でも、不思議なことに。

怒られた記憶より、一緒に過ごした時間の方が今では強く残っている。

休みの日に出掛けたこと。

自転車の練習をしたこと。

釣りへ行ったこと。

特別な場所へ行ったわけじゃない。

高級なものを買ってもらったわけでもない。


でも、父さんと過ごした時間は、今思えば俺にとって大切な思い出だった。


母さんは逆だった。

心配性で、よく俺のことを気にしていた。

転んでも心配。

帰りが少し遅いだけでも心配。

朝起きるのが遅ければ、


『早く起きなさい。』


と言われる。

服が汚れて帰れば、


『また外で遊んだの?』


と言われる。

子どもの頃の俺は、その心配を少しだけ鬱陶しく感じることもあった。


「大丈夫。」


そう言っているのに、何度も確認される。

早く寝なさい。

寒くない?

忘れ物ない?


そんな言葉を何度も聞いた。

当時は、それが普通だった。

でも今思えば、母さんは俺のことを信用していなかったわけじゃない。

全部心配してくれていたからだった。


熱を出した時には、ずっと横にいてくれた。

転んで泣いた時には、最初に駆け寄ってくれた。

当たり前すぎて気付かなかった。

母さんにとっては、俺の小さな出来事一つ一つが大事だったんだと思う。

今思えば、大変だっただろうな。


姉は……なんというか、自由だった。

姉とは、よくケンカをした。

遊んでいたおもちゃを取られたり。

ゲームの順番で揉めたり。

今思えば、本当に小さなことだった。

でも、子どもの俺にとっては真剣だった。


「もう一緒に遊ばない。」


そんなことを言った日もあった気がする。

もちろん、次の日には普通に話していた。

姉は俺より何でもできた。

俺とは考え方が全然違う。

人前でも堂々としていたし、自分の意見をはっきり言えた。

俺はどちらかというと、周りを見てしまうタイプだった。

だから、昔から姉のことを少し羨ましく思っていた。

でも、同時に安心もしていた。

分からないことがあれば聞ける。

困った時には助けてもらえる。


姉弟という存在が当たり前すぎて気付かなかったけど、俺にとって姉は最初にできた友達みたいなものだったのかもしれない。


俺はというと。

よく泣く子だったらしい。

母さんから聞いた話では、俺は本当によく泣いていたらしい。


転んだら泣く。

おもちゃを取られて泣く。

怒られて泣く。

友達とケンカして泣く。

思い通りにならなかったら泣く。


今なら「そんなことで」と思うようなことでも、当時の俺にとっては大事件だった。

でも、泣けば誰かが助けてくれた。


父さんや母さんが抱きしめてくれた。

先生が声をかけてくれた。


子どもの頃の俺は、泣くことで気持ちを伝えていたんだと思う。

今ではあまり想像できない。

いつからだろう。

泣くより我慢することを覚えたのは。

泣くくらいなら、自分の中にしまい込むようになったのは。

それでも、当時はちゃんと子どもだったんだと思う。


そんな俺が初めて家族以外の世界へ踏み出したのが、保育所だった。


もちろん、その日のことなんてほとんど覚えていない。


アルバムの中の俺は小さなリュックを背負って、少し不安そうな顔をしている。


隣では母さんが笑っていた。

写真を見ていると、不思議とその時の気持ちまで思い出せる気がする。


嬉しかったのか。

怖かったのか。

多分、どっちもだった。

人生で初めて、「知らない場所」に向かう朝だったから。

母さんに手を引かれながら歩く。

春の風は少し冷たくて、新しい靴はまだ足になじまない。

目の前には、これから何年も通うことになる保育所が見えてきた。


ここから、俺の「普通」の人生が始まる。

保育園の記憶なんて、ほとんど残っていない。

誰と何を話したとか。

どんな先生だったとか。

そういうものは、もう曖昧だ。

でも、不思議と消えない記憶もある。


毎日外で遊んでいたこと。

頭をぶつけたこと。

あと、なぜか女の子にキスされたこと。


……いや、本当に何だったんだ、あれ。


保育園では、とにかく外で遊んでいた。

鬼ごっこ。

砂場。

ブランコ。

ジャングルジム。


何をして遊んでいたかと聞かれると細かくは思い出せない。

でも、


「今日は外で遊べる。」


その一言だけで嬉しかったことは覚えている。

家に帰ってからも同じだった。

ランドセルはまだない。

宿題もない。

だから、そのまま友達と公園へ行く。

マンションの周りにはいくつも公園があった。

今日はここ。

明日はあっち。

そんな感じで毎日場所を変えながら遊んでいた。


今思えば、ゲームより外で遊んでいる時間の方がずっと長かった。

保育所の友達とは、毎日のように遊んでいた。

名前や顔は、もうはっきり覚えていない子もいる。

でも、一緒に笑った時間だけは不思議と残っている。


砂場では、みんなで大きな山を作った。


『これはお城。』


誰かが言えば、


『じゃあ俺はここ作る。』


別の誰かが言う。

完成した山は、正直お城には見えなかった。

ただ砂を積み上げただけだった。

それでも、その時の俺たちにとっては世界で一番大きなものだった。


鬼ごっこでは、本気で走った。

捕まりたくない。

逃げたい。

ただそれだけだった。

今なら数分走っただけで疲れるのに、あの頃は何時間でも走れた気がする。

子どもの頃は、何でも全力だった。


遊びも。

ケンカも。

仲直りも。

昔の俺に、


「将来、お前ゲームばっかりやるようになるぞ。」


と言っても、絶対信じないと思う。


ある日は、自転車の練習をしていた。

父が後ろを支えてくれていた気がする。


『そのまま、そのまま。』


そんな声が聞こえていた。

俺も必死だった。

転ばないように。

真っ直ぐ進めるように。

――いける。


そう思った次の瞬間。

目の前には電柱があった。

避けられなかった。


ゴンッ。


鈍い音と一緒に頭へ衝撃が走る。

痛かった。

とにかく痛かった。

泣いたのかどうかは覚えていない。

でも、その日は病院へ連れて行ってもらったらしい。

診察が終わると、


『大丈夫ですよ。』


先生はそう笑っていた。

子どもってすごい。

あれだけ痛い思いをしたのに、数日後にはまた自転車に乗っていた。

怖いより、乗りたいが勝っていたんだろう。


保育所には、お昼寝の時間があった。

お昼ご飯を食べ終わって、少し遊んだあと。

先生が、


『そろそろお昼寝の時間ですよー。』


と言うと、部屋の中に布団が並べられていく。

俺たちは自分の布団を探して、その上にごろんと横になる。

先生たちは、


『静かにしてね。』


『ちゃんと寝ようね。』


と声をかけながら、部屋の中を歩いていた。

でも。

正直に言うと、本当に寝ていた子なんて半分くらいだったと思う。

俺もその一人だった。

眠くないわけではない。

昼ご飯を食べたあとだから、少しは眠い。

でも、目を閉じたからといって、すぐ眠れるほど大人しくもなかった。

隣の布団から小さな声が聞こえる。


『もう寝た?』


『寝た。』


『嘘じゃん。』


『寝てるって。』


そんな小声のやり取りが、あちこちから聞こえてくる。

先生が近くを通ると、みんな一斉に静かになる。

そして先生が離れていくと、


『……なぁ。』


『……なに?』


また小さな声が聞こえる。

そんなことを繰り返していた。

俺も、寝たふりをしている時間の方が長かった気がする。

目を閉じているだけ。

先生が見に来たら寝ているようにする。

そして先生が離れたら、少しだけ目を開ける。

それが、いつものお昼寝だった。


その日も同じだった。

布団に入って、横になって。

天井をぼんやり見たあと、俺は目を閉じた。

しばらくすると、隣から声がした。


『ねぇ。』


小さな声だった。

俺は目を開ける。

隣を見ると、彼女が布団の端から顔を出していた。


「なに?」


俺も小さな声で返す。

彼女は周りを確認するように、ちらっと先生の方を見る。

そして、俺の方を向いた。


『こっち。』


そう言って、少しだけ布団をめくる。

俺は何をするのかよく分からないまま、彼女の方へ近づいた。

子どもの頃なんて、今よりずっと何も考えていなかった。

誰かに呼ばれたら行く。

面白そうならやってみる。

それくらいの感覚だった。

だから、その時も特に疑問には思わなかった。

布団の中で、二人で小さな声で話す。

何を話したのかは、もう覚えていない。

たぶん、たいしたことではなかった。

今日のお昼ご飯のことだったかもしれない。

遊びのことだったかもしれない。

帰ったら何をするか、なんて話だったかもしれない。

でも、その日はなぜか最後に、


『これは内緒ね。』


と彼女が言った。

俺は少し考えて、


「うん。」


と答えた。

何が内緒なのか。

どうして内緒なのか。

その頃の俺には、そこまで深く考えることなんてできなかった。

すると唇に、何か柔らかいものが触れた。


キスだった。


もちろん恋愛なんてわからない年齢だ。

俺はただ、


「……?」


となっただけだった。

恥ずかしいとも思わなかった。

嬉しいとも思わなかった。

意味すら分かってなかったかもしれない。


「これが内緒?」


『…うん。……2人だけの秘密ね。』


二人だけの秘密ができた。

それが少し嬉しかった。


すると、彼女が小指を差し出してきた。


『約束。』


俺も自分の小指を出す。

小さな指と指が絡む。


「うん。」


指切りをした。

何か会話した後に指切りをしたのを覚えている。

でも、その時何を話していたのかよく覚えていない。

その時の約束の内容は、もう覚えていない。

子どもの頃の約束なんて、そんなものだ。


『絶対ね。』


「うん。」


『誰にも言っちゃダメだよ。』


「言わない。」


そんなやり取りをしたような気がする。

その直後だった。


『そろそろ寝たかなー?』


先生の声が聞こえた。

俺たちは慌てて、それぞれの布団に戻った。

俺は急いで目を閉じる。

隣を見ることもできない。

先生が近づいてくる。

足音がする。

そして、


『ちゃんと寝てるね。』


そんな声が聞こえた。

俺は必死に寝たふりをした。

先生が離れていく。

しばらくして、隣から小さな笑い声が聞こえた。

俺も少しだけ笑った。

結局、その日も俺はほとんど眠らなかった。


でも、なぜかその日のことはずっと覚えていた。

何を話したのか。

何を約束したのか。

細かいことは、ほとんど忘れている。


それでも。

布団の中で二人だけで秘密を共有したこと。

先生に見つからないように小さな声で話したこと。

最後に指切りをしたこと。

そういう断片だけは、不思議なくらい残っている。


今思えば、あの頃の俺たちにとっては、それだけで十分特別な出来事だったのだと思う。

恋愛なんて言葉も知らなかった。

好きという気持ちがどういうものなのかも分からなかった。

ただ、一緒にいる。

秘密を作る。

約束をする。

それだけで、なんとなく嬉しかった。


そして今でも覚えている。

あの時の小さな指。

布団の中で交わした、小さな約束。

何を約束したのかは、もう思い出せない。

それでも、あの時間だけは妙に鮮明に残っている。

保育所の一日なんて、本来なら何年も経てば忘れてしまうようなものだ。


でも、全部が消えるわけじゃない。

何気ない会話だったり。

友達と笑ったことだったり。

先生に怒られたことだったり。

誰かと交わした、小さな約束だったり。

そういうものが、記憶の片隅に残っている。

そして時々、何でもない瞬間に思い出す。


「あの頃、こんなことしてたな。」


って。

俺にとって、この日のこともその一つだった。

保育所で過ごした、たくさんの日々の中のたった一日。


でも。

今でも覚えているくらいには、大切な一日だった。

……まあ、今思えば。

昼寝の時間なのに全然寝てなかったんだから、先生からしたら相当困った園児だったと思う。


家では、少しだけゲームも遊ぶようになった。

最初に夢中になったのは、赤い服のちょび髭のおじさんを操作するゲームだったと思う。

とはいえ、何時間もやるわけじゃない。

外で遊んで、帰って、ご飯を食べて、少しだけゲームをする。

そんな毎日だった。


ゲームが好きというより、遊ぶものの一つ。

その程度だった。

この頃の俺は、まだ太陽の下を走り回る方が好きだった。


……本当に、信じられない。

今では1人で部屋にこもってゲームをする方が好きだなんて。

当時の俺に言っても信用しないだろう。


ある日遠足に行く日があった。

その日は、朝からいつもと少し違った。

保育所に着くと、いつものように先生がいて、いつものように友達がいて。

見た目だけなら、普通の日とそんなに変わらない。

でも、俺の手にはいつも通園の時に使っているバッグとは違うものがあった。

お弁当。

今日は遠足の日だった。


『お弁当持ってきた?』


誰かがそう言う。


『持ってきた!』


『俺も!』


『何入ってる?』


『わかんない。お母さんにも開けるまでのお楽しみって言われた。』


朝からそんな話ばかりだった。

俺も自分のお弁当が気になって仕方なかった。

家を出る前に母さんから、


『ちゃんと全部食べてきてね』


と言われたのを思い出す。


「何入れたの?」


って聞いたけど、


『開けてみてからのお楽しみ』


と言われた。

だから俺は、まだ中身を知らない。

でも、たぶん美味しいものが入っている。

そう思っていた。

しばらくすると先生がみんなを集めた。


『今日は緑地公園まで歩いて行きます。迷子にならないように手を繋いでついてきてください。』


その言葉だけで、みんなのテンションが一気に上がった。


『歩いて行くの?』


『結構遠くない?』


『ローラー滑り台あるかな〜?』


『お弁当の時間まだ〜?お腹すいた。』


質問が次々に飛んでいく。

先生は笑いながら、


『ちゃんと先生についてきてくださいね』


と言った。

そして、みんなで並んで保育所を出た。

俺たちは何人かずつ並んで歩いた。

道路を歩くから、先生が前と後ろについている。


『走らないでね』


『道路に出ないよ』


『ちゃんと前のお友達についてきてね』


何度も注意される。

でも、子どもだから。

少し歩けば、


『ねぇ先生、あれ何?』


『あれはお地蔵さんですよ』


『あの犬かわいい!』


『どこ?』


みたいな話が始まる。

前の方にいる友達が振り返って、


『まだ?』


と聞けば、

後ろから、


『まだまだ。てか今出たばっかだろ』


と返ってくる。

俺も歩きながら友達とくだらない話をしていた。


『公園着いたら何する?』


「鬼ごっこやりたい」


『俺、鬼やりたくない』


「じゃあ最初はじゃんけんで決めよ」


『他に一緒に鬼ごっこする人〜!』


『『はーい!』』


そんな話をしているうちに、目的地が見えてきた。

緑地公園。

いつもの保育所とは全然違う。

広い。

とにかく広い。

草がいっぱいあって、走れる場所もあって、遊具もある。


『うわー!』


誰かが叫ぶ。

それにつられて、みんな一気に騒ぎ始めた。

先生が、


『まだ走らない!』


と止める。

でも、全員の顔は完全に遊ぶ気満々だった。

荷物を置いて、先生から少し説明を聞く。


『危ないところには行かないこと』


『先生から離れすぎないこと』


『お友達と仲良く遊ぶこと』


そんな話を聞いたあと、


『じゃあ、遊んでいいですよ』


その瞬間だった。

みんな一斉に走り出した。

俺も走った。

最初は遊具のところへ行った。

滑り台に行くやつ。

ブランコに行くやつ。

アスレチックみたいな遊具に行くやつ。


俺はアスレチックの方へ向かった。

階段を上って、細いところを歩いて、少し高いところを渡っていく。


『高い!怖い!』


『これくらいで怖いの?』


『落ちる!』


「落ちないから大丈夫」


そんなことを言いながら進んでいく。

一人が途中で止まる。


『もう無理!』


『はよ来いって!』


『怖いもん!』


「鬼ごっこしたいし俺先行くわ!」


俺が先に進む。

すると後ろから、


『待って!』


と声がする。

結局、みんなでゆっくり進んだ。

アスレチックを一周すると、今度は普通に走り回った。

特に目的なんてない。

ただ走る。

追いかける。

逃げる。

それだけで楽しかった。


『そろそろ鬼ごっこしよ!』


誰かが言った。


『そうだった!忘れてた!』


『やろやろ』


すぐに決まる。

じゃあ誰が鬼になるか。

最初はみんな嫌がる。


『俺いや!』


『私も!』


「じゃあじゃんけん!」


結局、負けたやつが鬼になった。


『待てー!』


鬼が走ってくる。

俺は逃げる。


『こっち!』


『いや、そっち行ったら捕まる!』


『鬼来てる!こっち来て!』


友達の声を聞きながら走る。

途中でアスレチックの周りをぐるっと回ったり、遊具の陰に隠れたり。

普通の鬼ごっこなのに、いつもの保育所より広い場所でやるだけで全然違った。


『待て待て待て!』


『無理無理!』


『速すぎる!』


『こっち来んな!』


みんな笑いながら逃げ回る。

俺も必死だった。

何回か捕まりそうになったけど、そのたびに逃げた。

そして気づけば、かなり走っていた。


『疲れた……』


誰かが座り込む。


「俺も」


『喉乾いた』


『先生、お茶飲みたい』


先生が笑いながら、


『ちょっと休憩しましょう』


と言った。

みんなで水分を取って、少し座る。

汗をかいていた。

でも、まだ遊びたい。

そんな空気だった。

しばらく休んでから、また遊んだ。

滑り台をしたり、アスレチックをしたり。

今度はみんなで競争する。


『誰が一番早いか勝負しよ!』


「いいよ!」 


『じゃあ先生!よーいどん言って!』


『分かりました。じゃあ用意はいいですね?』


『よーい、ドン!』


一斉に走る。

俺も負けたくなくて走った。

でも、途中で別の友達に抜かれた。


「うわ、速っ!


『勝った!』


「もう一回!」


『またやるの?』


何回も繰り返した。

そんなことをしているうちに、先生から声がかかった。


『そろそろお昼ご飯にしますよー!』


その言葉を聞いた瞬間。

みんな一斉に荷物のところへ戻った。


『やった!』


『お弁当!』


俺も急いで戻った。

地面に座って、お弁当を出す。

蓋を開ける。

その瞬間、嬉しくなった。

卵焼きが入っていた。

唐揚げもある。

おにぎりもある。

野菜も少し入っている。


「うまそう!」


思わず声が出た。

周りを見ると、みんなのお弁当もそれぞれ違った。


『見て!たこさんウインナー!』


『俺、卵焼き!』


『俺も!』


『これ何?』


『これチーズハンバーグ』


『すご!』


『じゃ皆でいただきますをしますよ』


『いただきます』


『『『「いただきます!」』』』


そんな話をしながら食べる。

外で食べるお弁当は、家で食べるのとは少し違った。

同じものなのに、なんだか特別に感じる。

おにぎりを食べて、唐揚げを食べて、卵焼きを食べる。

美味しい。

そして、ある友達が言った。


『おかず交換しよ』


『いいよ!』


すぐに何人かが乗ってきた。


『何と交換する?』


『これ!』


『じゃあこれあげる』


『それ一個だけ?』


『一個!』


『じゃあ俺も一個!』


気づけば、小さなおかず交換会みたいになっていた。

俺も自分の唐揚げを一つ交換することにした。


『これと交換な』


「いいよ」


もらったのは半分に切られたチーズハンバーグだった。

食べてみる。


「うま!」


『だろ?』


「もう一個ほしい」


『無理』


「ケチ!」


『自分の食べろ!』


みんなで笑う。

別の友達からは、


『これいる?』


と卵焼きを差し出された。


「いる!」


『じゃあ何くれる?』


「これ」


俺はおにぎりを少し分けた。


『それだけ?』


「いっぱいあげたら俺のなくなっちゃう!」


『まぁいいか』


「よっしゃ!」


お弁当を食べながら、ずっとそんなやり取りをしていた。

気づけば、あっという間に時間が過ぎていた。


『『『「ごちそうさまでした!」』』』


お弁当を片付ける。

先生が、


『午後も遊びますよ』


と言う。


「やった!」


まだ遊ぶらしい。

俺は少し疲れていたけど、遊べると聞いたらまた元気になった。

午後は、またアスレチックへ向かった。

午前中とは少し違う遊び方をする。


『ここ鬼ごっこのコースにしようぜ!』


誰かが言った。


「どういうこと?」


『アスレチックから出たらダメ』


「いいじゃん!楽しそう!」


普通の鬼ごっことは違う。

遊具の上を渡って、階段を下りて、別の場所へ移動する。

鬼はそれを追いかける。


『待て!』


「無理!」


『そっち行った!』


『逃げろ!』


アスレチックの中を走り回る。

ただの鬼ごっこなのに、障害物があるだけで難しい。


『残念!そこは行き止まりだ!』


『うそ!』


『捕まえた!』


『うわー!』


みんな大笑いだった。

俺も逃げる。

でも、途中で道を間違えた。


「やば!」


目の前に鬼がいる。


『見つけた!』


「うわあ!」


俺は急いで方向を変えた。

でも別の友達とぶつかりそうになって、


「ごめん!」


『大丈夫!』


そのまま二人で逃げる。


『こっち!』


「どっち!?」


『知らん!』


「おい!」


結局、二人とも捕まった。


「最悪!」


『残念だったね〜』


笑いすぎて、もう走るのもしんどい。

それでも、少し休めばまた遊ぶ。

滑り台を滑ったり、遊具の上から景色を見たり。

草のところで寝転がってみたり。

先生が少し離れたところから、


『服汚れるよー!』


と声をかける。


「大丈夫!」


『あとでお母さんに怒られるよ!』


「……やっぱ起きる!」


みんなで笑う。

そんなことを繰り返しているうちに、だんだん帰る時間が近づいてきた。


『そろそろ保育所に戻りますよー!』


先生の声。


『えー!』


『まだ遊びたい!』


『もう?』


みんな名残惜しそうだった。

俺も、まだ遊びたかった。

でも、先生が、


『また遊びに来られるといいね』


と言った。


『うん!』


荷物を持つ。

来たときは軽かったはずなのに、帰りはなんだか重く感じた。

遊び疲れていたからだと思う。

みんなで並んで歩く。

行きの道ではあんなに騒いでいたのに、帰りは少し静かだった。


『疲れたな』


『眠い』


『俺も』


『帰ったら寝る』


そんな声が聞こえてくる。

俺も眠かった。

歩きながら何度もあくびが出た。

保育所が見えてくる。


『着いたー!』


最後の力を使って、保育所まで歩いた。

保育所に戻ると、荷物を片付ける。

先生が、


『今日は楽しかった?』


と聞いた。


『『『「楽しかった!」』』』


みんなが答える。


『お弁当美味しかった?』


『美味しかった!』


『おかず交換した!』


『何交換したの?』


「唐揚げ!」


『俺ウインナー!』


先生も笑っていた。

少しだけ今日のことを話す。

誰が鬼だったとか。

誰がアスレチックで怖がっていたとか。

誰のお弁当が美味しそうだったとか。

そんな話ばかり。

でも、みんな楽しそうだった。


帰る時間になる。

先生に、


『また明日ね』


と言われて、保育所を出る。

家までの道を歩く。

朝はあんなに元気だったのに、今はもう足が重い。

家に着く。


「ただいまー」


母さんが、


『おかえり。どうだった?』


と聞いてくる。

俺は靴を脱ぎながら、


「楽しかった……」


と答えた。


『お弁当全部食べた?』


「食べた」


『よかったね』


「うん……」


それだけ言って、俺はそのまま部屋へ向かった。

服を着替えるのも面倒なくらい疲れていた。

布団を見る。

もう限界だった。

俺はそのまま布団に入った。

目を閉じる。

今日のことを少し思い出す。

公園。

アスレチック。

鬼ごっこ。

お弁当。

おかず交換。

午後もまた鬼ごっこ。

楽しかった。


そんなことを考えているうちに、意識がどんどん遠くなっていく。

そして。

俺は、すぐに眠った。

たくさん遊んで、たくさん走って、たくさん笑った一日だった。

遠足の日は、そうやって終わった。


保育園での毎日は、ほとんど外で遊んでいた。

朝、登園したら荷物を置いて外へ向かう。

砂場で山を作ったり、鬼ごっこをしたり、ブランコを取り合ったり。

夏は汗だくになって走り回り、冬でも半袖の友達がいた。


『あいつ寒くないんかな。』


そんなことを遠目ながら、友達が話しているのを後から知った。

子供だしよく動くから当時はとても暑かったのを覚えている。


遊びの内容も毎日違った。

鬼ごっこ。

かくれんぼ。

だるまさんが転んだ。

虫探し。

石を集めて宝物だと言い張った日もあった。

子どもの世界は単純で、だからこそ楽しかった。


今日ケンカした相手とも、次の日には普通に遊んでいる。

昨日まで嫌いだった子と、今日は一緒に笑っている。

そんな毎日だった。


保育所には、普段の遊び以外にも行事があった。

一番覚えているのは運動会だった。

もちろん、細かい内容までは覚えていない。

何の競技をしたのか。

何位だったのか。

そんなことはもう曖昧だ。

でも、たくさんの人が見ていたことだけは覚えている。


父さんと母さんが来ていた。

いつもと違う服を着て。

いつもより少しだけ緊張して。


『頑張って。』


そう言われたことだけは残っている。

子どもの頃は、親が見に来てくれることを当然だと思っていた。

でも今考えると、忙しい中で時間を作ってくれていたんだと思う。


家ではゲームをする時間も増えていった。

ゲームと言ってもトランプとかボードゲーム系だ。

一番印象に残っているのは人生ゲームだった。


保育所から帰ればすぐに外へ遊びに行く。

休みの日も朝から外へ。

毎日のように泥だらけで帰っていたような気がする。


友達と草むらに入り虫取りをして服を汚す。

緑地公園のプールでビシャビシャになる。

雨の日なんて傘を持って出たのに帰りはささずに帰るときもあった。

洗濯だって大変なのにこの時はそんなこと考えもしなかった。


もちろん、遊んでばかりいたわけじゃない。


宿題だって全て早めに終わらせるようにしていたし、お手伝いだって行っていた。

保育所の頃に宿題があったかはよく覚えてないけどきっと早めに終わらせていたはずだ。


いつ頃だったか忘れてしまったが、みんなで料理をする行事があった。


その時はカレー作りだった。

朝から先生たちがいつもより忙しそうに動いている。

机を並べたり、材料を確認したり、包丁やまな板を用意したり。

俺たちはそんな先生たちの周りをうろうろしながら、


「今日カレー?」


「いつ食べるの?」


「お肉入ってる?」


なんて、同じことを何回も聞いていた。


『まだだよ。まずは材料を買いに行かないとね。』


先生にそう言われると、俺は少し驚いた。

カレーの材料を買いに行く。

それだけなのに、なんだか遠足みたいで楽しそうだった。

先生から、


『今日はみんなでお買い物に行きます。ちゃんとお友達と手をつないで歩いてね。』


と言われる。

そして、俺たちは二人ずつ手をつないだ。

俺が手をつないだのは、あの女の子だった。

前に、キスをした子。

玲奈ちゃん。


普段から一緒に遊ぶことはあったけど、こうやって手をつないで歩くのは少し違う感じがした。

俺は何となく相手の手を見た。

小さい手だった。

もちろん俺の手も小さい。

それなのに、なぜかその手を離したくなかったのを覚えてる。

そんなちょっとしたことなのにその時のことは鮮明に覚えている。


『ちゃんとつないでてね。』


先生が前から声をかける。


「うん。」


俺は返事をして、少しだけ強く手を握った。

みんなで列になって、保育所を出る。

近くのスーパーまで歩いていく。

先生たちは前と後ろに分かれて、俺たちが列から離れないように見ていた。

道路を歩くのも、普段とは少し違って見えた。

友達と手をつないで歩いているだけなのに、なんだか特別なことをしている気分だった。

途中で誰かが、


『カレー何入れるんだろ?』


と言う。


『肉!』


別の子が答える。


『じゃがいも!』


『にんじん!』


「玉ねぎ!」


俺も負けずに言った。

みんな好き勝手に答えて、先生が笑っている。

スーパーに着くと、先生が買うものを確認しながら、みんなで店の中に入った。

もちろん、俺たちだけで買い物をするわけではない。

先生がカゴを持って、その後ろを俺たちがついていく。


『まずは、にんじん。』


先生が野菜売り場で言う。

すると、みんなが一斉ににんじんを見る。


『これ?』


『こっち?』


『大きい!』


俺たちは好き勝手に指を差す。

先生が選んだにんじんをカゴに入れる。

次はじゃがいも。

その次は玉ねぎ。

そして、お肉。


『これをカレーに入れるの?」


『そうだよ。』


『いっぱいある!』


『みんなで食べるからね。』


カゴの中に材料が一つずつ増えていく。

それを見ているだけでも楽しかった。

最後に必要なものを全部確認して、先生がお会計をする。

俺たちは少し離れたところで待っていた。

隣を見る。

まだ手をつないでいる。

俺は何となく笑った。

相手も笑った。

それだけだった。

でも、それだけで楽しかった。


買い物が終わると、またみんなで手をつないで保育所へ戻った。

帰り道は、行きより少しだけ騒がしかった。


『早くカレー食べたいな〜!』


『まだ作ってないよ!』


『じゃあ早く作ろ!』


そんな声があちこちから聞こえる。

俺も同じ気持ちだった。

保育所に戻ると、いよいよカレー作りが始まった。

先生が材料を机の上に並べる。

にんじん。

じゃがいも。

玉ねぎ。

お肉。

そして、カレーのルー。


目の前に全部並ぶと、急に本当にカレーを作るんだという感じがしてきた。


「今日はみんなで少しずつお手伝いします。お母さんお父さんも後ろの方で見守っているので頑張りましょう!」


先生がそう言う。


『『『「はーい!」』』』


俺たちは元気よく返事した。


最初は野菜を洗ったり、皮をむいたりする。

俺もじゃがいもの皮をむこうとした。

でも、思ったより難しい。

皮をむいているつもりなのに、じゃがいもまで一緒に削れていく。


「先生、これどう?」


『うん、上手だよ。』


そう言われると、ちょっと嬉しい。

でも、よく見るとじゃがいもが少し小さくなっていた。


「……減ってる。」


『大丈夫、大丈夫。』


先生が笑う。

次は、にんじんを切ることになった。

もちろん、俺たちが勝手に包丁を使うわけではない。

先生が横について、俺の手を支えてくれる。


『ゆっくりね。』


先生の手が俺の手を包丁ごと支える。

俺は少し緊張しながら、にんじんを見る。


『ここを切ってみようか。』


「うん。」


包丁を動かす。

トン。

にんじんが切れた。


「切れた!」


俺は思わず声を出した。


『できたね。』


先生が笑う。

たった一回、にんじんを切っただけ。

それなのに、俺にはすごいことができたような気がした。

もう一回。


トン。


もう一回。


トン。


先生に支えてもらいながら、少しずつにんじんを切っていく。

周りでは他の子たちも、それぞれできることをやっていた。


『俺もやりたい!』


『順番ね。』


『まだー?』


そんな声が飛び交っている。

みんなで作っているから、いつもの保育所とは少し違う。

料理をしているだけなのに、なんだかみんなで一つのものを作っている感じがした。

切った野菜を鍋に入れる。

お肉も入れる。

先生が火をつけて、ゆっくり混ぜていく。

しばらくすると、部屋の中にカレーの匂いが広がった。

その匂いを嗅いだ瞬間、みんなが一斉に騒ぎ始める。


『カレーの匂い!』


『もうできた?』


『まだだよ。』


先生が笑う。


『あとちょっと待ってね。』


俺は鍋をじっと見る。

ぐつぐつしている。

早く食べたい。

でも、まだルーを入れている途中だった。


「早く食べたいな。」


俺が呟くと、隣にいた友達も、


『俺も。』


と答えた。


やがてルーが入って、鍋の中がいつものカレーの色になっていく。

それを見た瞬間、みんなのテンションが一気に上がった。


『カレーの匂い!』


『できた!』


『早く食べよ!』


先生が笑いながら、


『まだ熱いから、ちょっと待ってね。』


と言う。

待つ時間が長く感じた。

そして、ようやくみんなで席につく。

目の前に置かれたカレー。

自分たちで買いに行った材料。

自分たちで少しだけ切った野菜。

もちろん、ほとんどのことは先生たちがやってくれた。

それでも、俺にとっては自分たちで作ったカレーだった。


『『『「いただきます!」』』』


みんなで声を合わせる。

俺もスプーンを持って、一口食べた。


おいしい。


家で食べるカレーとも少し違う。

でも、何が違うのかは分からない。

ただ、みんなで作って、みんなで食べている。

それだけで、いつもよりおいしく感じた。


隣を見ると、あの女の子もカレーを食べていた。

俺と目が合う。


「おいしい?」


『うん。』


「俺も。」


それだけ話して、またカレーを食べる。

その日のカレーは、特別な味がした。

たぶんカレーそのものが特別だったわけじゃない。

みんなで手をつないで買い物に行って。

先生に支えてもらいながら野菜を切って。

一緒に作って、一緒に食べた。

そんな一日だったから、いつものカレーより少しだけおいしく感じたんだと思う。


その後帰ったら早速母さんに料理の手伝いをさせられたのを覚えている。


休みの日には父さんと釣りへ行くこともあった。

釣りの日の朝は、いつもより少し早起きだった。

普段ならまだ寝ている時間に起こされる。

眠たいから本当はもう少し寝ていたい。

でも、「釣り」という言葉を聞くと不思議と起きることができた。


まだ朝も暗い時間。

眠たい目をこすりながら車へ乗る。

車の中ではまだ暗い外を眺めていた。

街灯しか見えない道。

今思えば、釣りそのものよりも、父さんと一緒にいる時間が楽しかったのかもしれない。


海へ着く頃には、空が少しずつ明るくなっていく。

波の音だけが聞こえる。

父さんは黙々と仕掛けを作る。

俺は隣で見よう見まね。


『投げてみろ。』


言われるまま竿を振る。

全然飛ばない。

糸だけが足元へ落ちる。

父さんは笑って言った。


『最初はそんなものだ。』


何度か挑戦しているうちに、小さな魚が釣れた。

父さんは太刀魚を何匹か釣っていた気がする。

何匹釣れたかは覚えていない。

でも。

朝焼けの海と。

隣で竿を持つ父の背中だけは、今でも覚えている。


気付けば、保育園で過ごす時間も残りわずかだった。

保育園では、先生に怒られることもあった。

片付けをしなかったり。

友達とケンカしたり。

ふざけすぎたり。

その時は怒られる理由なんてよく分からなかった。

ただ、「怒られた」ということだけ覚えていた。

でも今なら分かる。

先生は嫌だから怒っていたんじゃない。

俺たちが成長できるように、ちゃんと向き合ってくれていたんだと思う。

教室ではランドセルの話をする子が増えた。


『俺、黒!』


『私はピンク!』


みんな楽しそうだった。

俺も楽しみだった。

学校ってどんなところなんだろう。

友達はできるのかな。

勉強って難しいのかな。

そんなことを考えていた気がする。


卒園式の日。

いつもより少しだけ静かな教室。

先生も、どこか寂しそうだった。

何も特別なことは思わなかった。


「終わった。」


そのくらいだった。

今思えば、もっと何か感じてもよかったのかもしれない。

先生との別れ。

友達との別れ。

毎日通った場所との別れ。

でも、当時の俺にはまだ分からなかった。

終わることの寂しさより、次に始まることへの期待の方が大きかった。

小学校。

新しい教室。

新しい友達。

新しい生活。

子どもの頃の俺は、未来を見ることしか知らなかった。

だから、不安より楽しみの方が大きかった。

友達とも、


「またね。」


と手を振って別れた。

ほとんどの友達とは同じ小学校に行くからそこまで寂しくはなかった。


家へ帰ると、新しいランドセルが置いてあった。

何度も背負ってみる。

鏡の前に立ってみる。

少しだけ大人になった気がした。

早く学校へ行きたい。

その気持ちだけだった。


アルバムを閉じる。

保育所に行っていた頃の俺は、毎日が楽しかった。

友達と遊ぶ日も。

家族と過ごす日も。

笑って過ごす日々も。

そんな毎日はずっと続くものだと思っていた。

子どもは終わりを知らない。

だから、別れも知らない。

俺もそうだった。


あの頃の俺は、自分がどんな人間になるのかなんて考えたこともなかった。

将来の夢も。

大切な人との出会いも。

苦しいと思う日も。

後悔する日も。

まだ何も知らなかった。


ただ、毎日を楽しんでいた。

明日も同じように遊べる。

明日も家族がいる。

明日も友達と笑える。

そう信じていた。

でも、人生は少しずつ変わっていく。

出会う人が変わる。

考え方が変わる。

自分自身も変わっていく。

そして、その最初の一歩が小学校だった。


別のアルバムを開く。


そのアルバムの最初のページには、真新しいランドセルを背負った俺が立っていた。


まだ、この先で出会う人たちも。

失うものも。

恋をすることも。

後悔することも。

何一つ知らない顔で。

第一話を読んでいただき、ありがとうございます!


物語の始まりということで、まずは龍斗の幼い頃から描いていきます。


ここから先、どんな人と出会い、どんな出来事があって、龍斗がどう変わっていくのか。


長い物語になりますが、龍斗の人生を一緒に見届けてもらえたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いします

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