洞窟への避難
肺が焼けるように熱い。喉の奥からは鉄の匂いがせり上がり、一歩足を踏み出すごとに、鉛のような重みが全身を支配していった。
前衛班の奇跡的な覚醒によって窮地を脱した2年A組の生き残りたちだったが、彼らの肉体的な限界はとうに限界を超えていた。制服は破れ、むき出しになった肌は森の鋭い枝葉によって無数に切り裂かれている。恐怖によるアドレナリンで麻痺していた疲労が、静まり返った森を走るうちに、じわじわと冷酷に彼らの足を動かなくさせていった。
「みんな、あと少しだから……! 頑張って足を動かして!」
高橋大輝のナビゲートに従い、最後尾を走る悠真たちに声をかけながら、桜庭美咲は必死に生存者たちを牽引していた。だが、その美咲の横顔も、級友の半分と恩師を失った凄惨な喪失感によって痛々しく強張っている。
「悠真、この先だ! この鬱蒼とした茂みの向こう、岩肌のあたりから魔物の気配が完全に消えてるエリアがある!」
先頭を走る大輝が、【心眼】によって得た脳内の3次元マップを頼りに叫んだ。大輝の目には、通常の人間には見えない「魔力の流れ」や「生物の気配の有無」が明確な光の濃淡として映っている。大輝に並走する陸上部の朝比奈葵が、その俊足を活かして一瞬で茂みをかき分け、道を開く。
しかし、大輝の【心眼】が捉えられるのは「気配の有無」という大まかな情報だった。辿り着いた先は、天を衝くような巨岩が乱立する、複雑に入り組んだ岩壁のエリアだった。
「クソッ、気配が消えてるのはこの岩壁の向こうのはずなんだけど……入り口がどこにあるか分からねえ!」
大輝がひしゃげた鉈を握り締めながら焦燥の声を上げる。背後の原生林からは、彼らを追う魔獣の足音こそ聞こえないものの、いつ新たな捕食者が現れてもおかしくない不穏な静寂が満ちていた。
「大輝、動くな。全員そのまま息を殺せ」
最後尾から追いついた神代悠真が、腰のサバイバルナイフの柄を握ったまま静かに前に出た。
悠真には、前衛班のような派手な覚醒スキルはない。しかし、教室の窓際で眠りながらあらゆる音を聞き落とさなかったあの卓越した五感と、父親から叩き込まれたアウトドアのサバイバル知識は、極限状態の中でさらに冷徹に研ぎ澄まされていた。
悠真は一歩も動かず、月の光に照らされた岩壁をじっと『観察』した。
(風だ。この乱立する巨岩の隙間から、わずかに空気の流れがある。植物の生え方もここだけ不自然だ。シダ植物の葉が、内側からの風でかすかに揺れている)
悠真は迷うことなく、絡み合う発光植物の蔦が垂れ下がる、2つの巨岩の極めて狭い隙間へと歩み寄った。その蔦を力強く引き剥がすと、大人の男が一人這いつくばってようやく通れるほどの、崖の陰に完全に隠された【狭い洞窟の入り口】が姿を現した。
「ここだ。大輝が察知したのはこの奥だ」
「マジかよ……よくそんなの見つけたな、神代」
真田剛が呆然と呟く。大輝の能力と、悠真の驚異的な観察眼の合わせ技。これこそが、これからの彼らの生き残りのスタイルになることを、悠真自身が誰よりも理解していた。
「ぐずぐずするな、全員中に滑り込め! 荷物を引っかけるなよ!」
悠真の指示を受け、生徒たちは衣服を擦り剥きながらも、這いつくばるようにして次々と狭い穴の奥へと滑り込んでいった。最後尾の蓮が残された鉈を構えて周囲を警戒し、全員が入ったのを確認して最後に穴へと飛び込む。
「智也、拓海! 入り口の蔦を元通りに戻せ。真田、足元の土をそこの枯れ葉でカモフラージュしろ。追っ手の鼻を完全に撒くぞ」
洞窟の狭い通路に滑り込んだ瞬間、悠真は間髪入れずにオタクコンビと真田に指示を飛ばした。彼らは必死の形相で入り口の植物を整え、完全に外部からの視線を遮断した。
直後、通路の奥へと続く暗闇を進むと、そこは外の原生林の喧騒が嘘のように遮断された、広大な地下空洞へと繋がっていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
地下空洞の冷たい岩肌に背中を預け、生存者は泥のようにへたり込んだ。
外の光は届かず、洞窟の天井に点在する未知の発光鉱石が、うっすらと青白い光で彼らの顔を照らしている。冷やりとした静寂が空間を支配していた。
追っ手は、完全に撒いた。
だが、安全が確保されたと理解した瞬間、それまで必死に抑え込んできた【現実】が、容赦なく彼らの精神へと襲いかかった。
「……終わったんだよね。本当に、もう来ないよね……」
派手なギャルグループの藤原彩花が、膝を抱えて小さく呟いた。その一言を皮切りに、空間のあちこちから、抑えきれない嗚咽が漏れ始める。
自分たちは生き残った。だが、その代償はあまりにも大きすぎた。
あの頼もしかった佐伯先生は、自分たちを逃がすために一人で魔物の大群の中に消えていった。そして、昨日まで一緒に笑い合っていたクラスメイトの半分は、もうどこにもいない。ただの高校生にとって、目の前で繰り広げられた血と肉の惨劇は、魂を削り取るのに十分すぎるものだった。
「うう……あぁぁ……っ、なんで、なんでこんな目に遭わなきゃいけないのよ……!」
莉奈が顔を両手で覆い、激しく号泣した。美優、彩花も、互いに抱き合って声を詰まらせている。前衛で獅子奮迅の活躍を見せた蓮や大輝、真田、風間すらも、壁に背を預けたまま、生気のない目で虚空を見つめていた。極限状態の緊迫感が解けた今、彼らを包んでいるのは、圧倒的な罪悪感と喪失感だった。
美咲は、悠真の隣でじっと拳を握りしめていた。学級委員長として、生存者の代表として、みんなを励まさなければならない。そう分かっていても、涙が溢れて唇がガタガタと震え、言葉が出ない。
悠真は無言で美咲の隣に腰を下ろし、血に汚れた彼女の手を静かに握った。美咲の小さな手が、激しく震えているのが伝わる。
「美咲。泣いていい。今は、全員で泣けばいい」
悠真のその静かな声に導かれるように、美咲はついに声を上げて悠真の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。洞窟の冷たい空間に、少年少女の痛切な悲鳴と涙の音が響き渡る。
(先生、あなたが繋いだ命だ。ここで絶望して死なせるわけにはいかない)
悠真は彼らの涙を受け止めながらも、その瞳だけは、天井の発光鉱石を冷徹に見つめていた。




