不屈の盾
生き残ったわずか二十人程の生徒たちが、異世界の冷たい地面に崩れ落ち、声を詰まらせて泣き叫んでいた。その涙は、級友の半分を失った凄惨な喪失感と、自分たちだけが生き残ってしまったという圧倒的な罪悪感によるものだった。学級委員長の桜庭美咲は、神代悠真の胸に顔を埋めたまま、小刻みに全身を震わせ続けている。
悠真は美咲の頭を優しく撫でながらも、その視線はどこまでも冷徹に森の闇を警戒していた。
(いや、まだ終わっていない。奴らは執拗だ。あの血の匂いを嗅ぎつけた群れが、これで満足するはずがない)
悠真の最悪の予感は、すぐに現実の音となって鼓膜を震わせた。
――ガルルルル、グルゥゥゥッ……!
遠ざかっていたはずの肉食獣のうなり声が、再び全方位の暗闇から響き始める。それと同時に、原生林の草むらを激しくなぎ倒す足音が近づいてきた。
「ひっ、また来る……! もう嫌だ、助けて!」
西園寺莉奈が耳を塞いで悲鳴を上げる。
だが、前方から姿を現したのは魔獣だけではなかった。
「……おい、お前ら! 無事かッ!」
血塗られた闇を切り裂いて現れたのは、サッカー部キャプテンの高橋大輝だった。そのすぐ後ろから、柔道部主将の真田剛、そして強肩の風間翔が、ボロボロになりながら退却してくるのが見えた。彼らの中心には、制服を自らの、そして魔獣の返り血で真っ黒に染め上げた神崎蓮の姿があった。
殿を務めていた四人は、死に体でありながらも辛うじて生きていた。しかし、その満身創痍の姿はあまりにも痛々しかった。
真田の握る大型の斧は刃が激しく欠け、高橋の持つ薪割り用の鉈も魔獣の強靭な骨を断ち続けたことで、すでに実用に耐えないほどボロボロにひしゃげていた。
「蓮君!神崎君! 高橋君!風間君! 生きててくれたんだね……!」
美咲が涙を拭いながら叫ぶが、蓮は生気のない顔で鉈を構え直したまま、苦々しく吐き捨てた。
「喜んでる暇はねえぞ、美咲。奴ら、無限に湧き出てきやがる……!」
蓮の言葉通り、彼らが退却してきた背後の闇から、先ほどログハウスを襲撃した個体群とはまた異なる、数十匹の新たな角狼の群れが次々と姿を現した。
蓮の肉体からは、極限状態の『仲間を守る』という選択の果てに覚醒した【不屈の盾】の青いオーラが微かに立ち上っている。そのスキルによる超人的な防御力と精神力があったからこそ、彼は肋骨を折られながらも、この肉食獣の猛攻を正面から食い止め続けてこられたのだ。
しかし、スキルの補正をもってしても、生身の高校生の体力には限界がある。蓮の膝は激しく笑い、呼吸は肺をかきむしるように荒い。高橋、真田、風間も、ただの意地とプライドだけで武器を握り直しているに過ぎなかった。
「悠真……指示をくれ。俺たちの武器じゃ、もうあいつらの皮を切り裂くのが限界だ」
高橋が、血の滴る鉈を握る手を震わせながら悠真を見つめた。
悠真の脳細胞が再び加速する。腰のサバイバルナイフの柄を握り締め、周囲の地形を瞬時に観察した。しかし、どれほど思考を巡らせても、導き出される生存率は絶望的なまでにゼロに近かった。
前衛の武器は限界、後衛の女子たちは疲弊しきっている。この平坦な森の開けた場所で包囲されれば、今度こそ2年A組は完全に全滅する。
ジリジリと、紅い眼光の包囲網が狭まっていく。角狼たちの鋭い爪が地面の枯れ葉を踏み抜く音が、生存者たちの死へのカウントダウンのように響いていた。
誰もが死を覚悟し、美咲が悠真の制服を強く握り締めた、その瞬間だった。
「――ウオオオオオオオッ!」
包囲する角狼たちの真後ろの藪から、地獄の底から響くような咆哮が炸裂した。
魔獣の一匹が、背後から強烈な体当たりを受けて激しく撥ね飛ばされる。
「な、何ごとだ……!?」
オタクグループの相馬拓海が目を見開く。
凄まじい気迫とともに、血煙を上げて闇から躍り出てきたのは、ログハウスで大型の角狼に胸を深く抉られ、絶望的な最期を迎えたはずの担任――佐伯恒一だった。
「せ、先生……!? 生きていたの!?」
美咲の悲鳴に似た歓喜の声が上がる。
佐伯はちぎれかけたジャージの袖を無理やり引き裂き、それを胸の深い傷口にきつく巻き付けて止血していた。眼鏡はなく、顔半分は自らの血で赤く染まり、その立ち姿は幽鬼そのものだった。だが、教え子たちを救おうとするその瞳の奥の光だけは、ログハウスにいた時よりも遥かに狂おしく、凄まじい執念を滾らせて燃え盛っていた。
「先生! 無茶だ、その身体でどうやってここまで……!」
悠真が叫ぶ。佐伯はまともな武器も持たず、ただの太い木の枝を一本握り締めているだけだった。それでも彼は、教え子たちが絶体絶命の窮地に陥っているのを見て、迷うことなくその包囲網の中央へと割って入ったのだ。
佐伯はふらつく足取りながらも、前線で限界を迎えていた真田剛の元へとまっすぐに歩み寄った。
「よく頑張ったな、真田。……お前のその重い責任感、確かに受け取った」
「え……? 先生……?」
真田が呆然とする間も無く、佐伯はその残された左手に恐るべき力を込め、真田が両手で握り締めていた【大型の斧】を、強引にその手から奪い取った。刃がボロボロに欠け、血の脂でべたついたその重厚な斧が、佐伯の手に渡る。
真田の怪力から斧を毟り取るほどの腕力。それは、佐伯がログハウスで『最後まで生徒を守る』という狂おしいほどの選択を貫き通した結果、彼の魂に目覚めた【守護の聖域】のシステムがもたらした、一時的な限界突破の筋力だった。
「先生、何をする気だ……!」
蓮が鉈を構えたまま、嫌な予感を察知して叫ぶ。
佐伯は奪い取った斧の重みを確かめるように一振力強く振ると、振り返って悠真たち二十人の生徒たちを、かつての教室での授業風景と同じような、どこまでも優しく穏やかな眼差しで見つめた。
「お前たちを最後まで見てやれなくてスマン」
「神代。お前は寝てばかりだが、やればできる男だ。……みんなを、頼んだぞ」
「先生、まさか――」
悠真がその意図を察知し、血の気が引くのを感じた。
「お前たちは生きろ!教師の言うことを聞けぇぇぇッ!」
佐伯は腹の底からの絶叫を上げると、回れ右をして、包囲する角狼の群れの最も分厚い方向へと、大型の斧を振り回しながら猛然と突進していった。
「グルアッ!?」「ギャンッ!」
不意を突かれた二匹の角狼が、佐伯の放った渾身の横一文字の薙ぎ払いによって首を叩き折られ、血溜まりへと転がる。
「こっちだ、化け物ども!お前たちの獲物はここにいるぞ!」
佐伯はあえて大声を張り上げ、胸の傷口から激しく血を流しながら、原生林のさらに深く、悠真たちの進行方向とは全く真逆の【森の最奥】へと全力で走り出した。
魔獣たちは、突如現れた強烈な生命力と血の匂いを放つ狂戦士(佐伯)に完全に目を奪われ、その大半が「新しい餌」を仕留めるために、一斉に向きを変えて佐伯の後を追い始めた。
「先生――――ッ!」
美咲が手を伸ばして叫び、後を追おうとするが、悠真はその美咲の身体を両腕で強引に抱き止めた。
「放して、悠真! 先生が、先生が死んじゃうよ!」
「行くとは言わせないっ!」
悠真は涙をボロボロと流しながら、割れんばかりの声で美咲に、そしてクラス全員に向かって吠えた。
悠真の観察眼は、佐伯先生の背中に発現した【守護の聖域】の青い光の盾が、群がる魔獣の牙を弾き返しながらも、ジリジリと削られていく様を捉えていた。
先生は、自分が長く持たないことを分かっていて、自分の命の全てを燃やして『一瞬の時間』をクラスに与えてくれたのだ。
「先生の命を無駄にするな! 走るんだ! 先生が作ってくれたこの隙を突いて、生き残るために走れぇぇぇッ!」
悠真の痛切な叫びに、真田は男泣きしながら拳を握り締め、高橋は大輝の腕を引いて走り出した。蓮は鉈を強く握り締め、佐伯が消えていった森の奥を睨みつけながらも、ボロボロの身体を翻して悠真の隣へと並んだ。
「悠真……絶対に、生き残るぞ」
「ああ、分かっている。全員、俺に続け!」
生徒たちは恩師の玉砕の背中を涙の霧の中で見送りながら、再び前を向いて全力で走り出した。
背後からは、佐伯先生の「おおおおおッ!」という雄叫びと、魔獣たちの貪欲な咆哮、そして肉と斧が激突する凄まじい戦闘音が響いていたが、それらは生存者たちが走るにつれて徐々に小さく遠ざかっていった。
担任教師・佐伯恒一の決死の決断。
彼が命を賭して引き受けてくれた混沌の陰で、神代悠真率いる2年A組の生き残り二十人は、さらに深い森の闇へと足を進めていく。誰もが心に消えない傷を負いながらも、その瞳には、生き延びていつかあの恩師と再会するという、絶対的な生存への執念が刻まれていた。




