脱出
大型の角狼の巨大な爪が、容赦なく佐伯恒一の胸元を引き裂いた。生々しい肉の破砕音とともに、鮮血が夜の冷気に霧となって飛び散る。眼鏡が衝撃で跳ね飛び、床の血溜まりへと転がった。
「先生ーッ!」
桜庭美咲の、喉をかきむしるような絶叫が木霊する。
胸を深く抉られた佐伯は、その場に膝を突き、口からどす黒い塊を吐き出した。だが、彼の瞳に宿る鈍い光はまだ消えていなかった。
彼はちぎれかけのジャージの袖で傷口を強引に押さえ、床に落ちていた丸太の破片を、残された左手で掴み取る。
「……走れ……ッ! 全員……ログハウスを捨てて、走れぇぇぇッ!」
それは、ただの現代の温和な教師が、命の灯火を燃やし尽くして放った最後の『命令』だった。
正面の決壊口からは、さらに十数匹の角狼が、獲物の匂いに興奮して狂ったように室内に滑り込んでくる。もはや防衛線という概念すら存在し得ない。ログハウス内は、飢えた獣の牙と爪が、ただ無抵抗な少年少女の肉を貪るだけの凄惨な屠殺場と化していた。
「嫌だ、嫌だッ! お母さん、助けてー!」
「誰か、嘘だろこれ、腕が、俺の腕がぁぁぁッ!」
暗闇の中で響き渡るクラスメイトたちの悲鳴。だが、その声は肉を引き裂くグチャリという生々しい音と、骨が圧砕される嫌な響きによって次々と、冷酷に遮断されていった。いつも教室の後ろで笑っていた男子が、派手なグループでメイクの話をしていた女子が、一瞬にしてただの「物言わぬ肉の塊」へと変えられていく。
「美咲、手を離すな! 智也、拓海、走れる奴を引っ張れ!」
神代悠真の声だけが、この地獄の中で異様なほど冷徹に響いていた。
悠真は美咲の腕を強引に引き、崩落した左側の壁の隙間へと身体を滑り込ませる。サバイバルナイフを逆手に構え、行く手を阻もうとした一匹の角狼の鼻先を躊躇なく切り裂き、無理やり突破口を開いた。
相馬拓海と結城智也も、恐怖で白目を剥きかけながらも、悠真の指示に従って西園寺莉奈や藤原彩花、黒川美優たちの腕を掴み、狂ったように外の闇へと走り出した。
ログハウスの外は、薄青い月の光が冷たく照らす異世界の原生林だった。
だが、そこは決して安全な避難所ではない。背後からは、なおも崩壊していくログハウスの凄まじい地鳴りと、肉を奪い合う魔獣たちの貪欲な咆哮が響き続けている。
「……待って、まだみんな中に、中に残って――」
美咲が涙で顔を濡らしながら後ろを振り返ろうとするが、悠真はその細い肩を強く掴んで前へと押し出した。
「見るな美咲! 立ち止まったら全員死ぬ。今は前だけを見て走れッ!」
悠真の観察眼は、暗闇の中でも冷酷に機能していた。
逃げ出せた生徒たちの数は、およそ二十人程。つまり、半分はあの血塗られたログハウスの中で、すでに……。
胸を締め付けるような喪失感と絶望が襲うが、悠真はそれを強引に思考の奥底へとねじ伏せた。生き残った目の前の命をどう繋ぐか、それだけが今、彼に許された計算だった。
その時、前方を走っていた陸上部の朝比奈葵が、圧倒的な俊足で周囲を索敵しながら叫んだ。
「悠真くん、後ろからまた来てる! 三匹、ううん、五匹……! 追いつかれるッ!」
地を蹴る無数の足音が、確実に生存者たちの背後に迫っていた。
夜の原生林において、人間の足など魔獣の身体能力の前には無力に等しい。じわじわと、しかし確実にその距離が縮まっていく。
「高橋、真田! 残った荷物からプロテインの粉でも何でもいい、後ろにぶち撒けろ! 匂いで一瞬でも奴らの足を止める!」
悠真の機転を受け、真田剛が走りながらリュックを引き裂き、中に詰まっていた大量のプロテインの粉末を、背後に向けて勢いよくぶち撒けた。暗闇の森に白い粉煙が舞い上がる。角狼たちは未知の強烈な人工物の匂いに一瞬だけ混乱し、互いに衝突して速度を落とした。
「今のうちに走れ! 立ち止まるな!」
高橋大輝が鉈を握り直して叫ぶ。だが、そんな即席の罠など、本物の飢えをしのぐ時間稼ぎにはならなかった。数秒の後、粉煙を突き抜けて、さらに獰猛さを増した角狼の影が、生存者たちの最後尾へと牙を剥いて飛びかかった。
「いやぁぁぁッ!」
最後尾を走っていた女子生徒の一人が、木の根に足を取られて激しく転倒した。そのすぐ目の前に、巨大な角狼の顎が迫る。
「やらせるかよッ!」
ドガァッ!
横合いから割り込んだのは、制服を血で真っ黒に染めた神崎蓮だった。
ログハウスの壁ごと吹き飛ばされ、肋骨の数本を折っているはずの彼は、驚異的な精神力で立ち上がり、いつの間にか佐伯先生の『薪割り用の鉈』を再びその手に取り返していた。
蓮は全身のバネを使い、飛びかかってきた角狼の脳天へ、鉈を力任せに叩きつける。鋼の角ごと割るような凄まじい一撃。角狼は脳漿をぶち撒けながら地面に圧殺された。
「……立て! 走れッ!」
蓮は転倒した女子の襟元を強引に掴み上げて前へと放り出すと、自らは回れ右をして、追ってくる残りの魔獣たちと真っ正面から対峙した。その背中は、痛々しいほどに傷つきながらも、圧倒的な壁となって生存者たちの視界を遮った。
「蓮!」
悠真が叫ぶ。だが、蓮は振り返ることもなく、鉈を構え直して不敵に笑った。
「悠真、お前は頭を使えって言っただろ。……前は俺が、何とかしてやる」
その言葉とともに、蓮の肉体から、これまでとは明らかに異なる「異質のオーラ」が立ち上った。彼の魂が、極限状態の『仲間を守る』という選択の果てに、異世界のシステムー『不屈の盾』のスキルとして完全に自覚・覚醒した瞬間だった。
高橋大輝と真田剛、そして投擲の才能を開花させつつある風間翔が、その蓮の背中に呼応するように、彼の隣へと並び立つ。
「俺たち体育会系の意地、見せてやるよ!」
「神崎、一人でカッコつけさせねえぞ!」
彼ら前衛班の4人が、決死の覚悟で殿へと立つ。
悠真は、その彼らの姿を目に焼き付けながら、ナイフを強く握りしめた。
「……すまない、頼むッ!」
悠真は涙を噛み締め、美咲たちの腕を引いて再び走り出した。
背後からの、蓮たちの怒号と、肉と鉈が激突する凄まじい戦闘音は徐々に、遠ざかっていく。
どれほどの時間、暗闇の森を走り続けたのだろうか。
生存者たちの足はすでに限界を迎え、誰もがまともな息ができていなかった。莉奈や彩花、美優たちは、声をあげる気力もなく、ただ涙を流しながら足を動かしている。
やがて、追いかけてくる足音が完全に途絶えた。
それは、蓮たちが命を懸けて追っ手を食い止めてくれたという証明であり、同時に、彼らの生死が分からないという残酷な現実を示していた。
生き残った生徒たちの数は、悠真を含めてわずか20人程。
昨日まで、バスの中で笑い合い、キャンプファイヤーの灯りの下で将来の夢を語り合っていたクラスメイトたちのちょうど半数が、あのログハウスと森の闇の中に消えてしまった。
「う……うあぁぁん……みんな、みんな死んじゃったよ……!」
誰かの小さな、しかし決定的な泣き声が、森の静寂に響き渡った。
それを引き金に、生き残った女子たちが地面に崩れ落ち、声を詰まらせて泣き始める。美咲もまた、委員長としての責任感の限界を迎え、悠真の胸に顔を埋めて静かに肩を震わせた。
悠真は美咲の頭を優しく撫でながら、青みがかった異世界の月を見上げた。
手元に残ったのは、血に濡れた一本のサバイバルナイフと、ボロボロになった20人のクラスメイト。そして、生死不明の恩師と親友たち。
(これが……この世界の、現実か)
神代悠真の心に、これまで教室の窓際で眠らせていた『冷徹なまでの生存への執念』が、静かに、しかし決して消えない炎となって灯る。
生き残った半数の命を、何が何でも、絶対に死なせない。
2年A組の少年少女にとって、本当の意味での『過酷な異世界サバイバル』の幕が、いま血塗られた夜明けとともに、静かに開かれようとしていた。




