惨劇の幕開け
ミシッ!、とログハウスの強固な木造の扉が内側に向けて歪んだ直後、世界は爆音と共に暗転した。
ドゴォォォォォンッ!
凄まじい質量が激突した衝撃音。厚い丸太を組み合わせて作られていたはずの正面扉が、まるで薄いプラスチックの板のように粉々に粉砕され、室内に向け木片が吹き飛んだ。暴風のような夜の冷気と、凄まじい土煙がログハウス内へと雪崩れ込んでくる。その立ち込める闇の向こう側、無数の紅く濡れた眼光が暗闇の中で一斉に開かれた。
「グルルルルル……ッ!」
それは地球の既知の生物とは完全に一線を画す、圧倒的な殺意を孕んだ魔獣の群れ『角狼』の集団だった。体長二メートルを超える漆黒の肉体、そしてその額からは歪にねじれた鋼のごとき一本の角が突き出している。さらにその群れの中心から、床を揺らす重い足音と共に姿を現したのは、体長四メートルはあろうかという【大型の角狼】だった。その巨体から放たれる圧倒的な威圧感は、ログハウス内の空気を一瞬で氷結させるに十分だった。
「ひっ、嫌ぁぁぁぁぁッ!」
「化け物! 嘘だろ、誰か助けてくれ!」
昼間まで「明日にはきっと帰れる」と震える心で希望を繋いでいた少年少女たちの淡い祈りは、一瞬にして消し飛んだ。逃げ場のない閉鎖空間。阿鼻叫喚の悲鳴がログハウスの天井に響き渡り、生徒たちは部屋の奥へと折り重なるように逃げ惑う。だが、大型の角狼が天井に向けて放った地響きのような咆哮一発で、全ての窓ガラスが一斉に爆散し、四方八方の闇から無数の角狼が室内に侵入し始めた。頑丈だったはずのログハウスの壁が次々と破壊され、一瞬にしてそこは血と絶叫が渦巻く地獄絵図へと変貌していく。
「全員、部屋の奥へ! 生徒には指一本触れさせん!」
最前線に立ちはだかったのは、ジャージ姿の担任・佐伯恒一だった。悠真の提案通り、手にした薪割り用の鉈を両手で固く握りしめ、突進してきた一匹の角狼の首筋に向けて激しく振り下ろす。『教師として、最後まで生徒を守る』その狂おしいほどの信条と責任感だけが、ただの現代の一般人であるはずの彼の肉体を突き動かしていた。骨を断つ鈍い感触と共に魔獣の鮮血がジャージを濡らすが、佐伯は眼鏡の奥の目を血走らせ、果敢に次の獲物を睨みつける。
「ちっ、次から次へと……! 戦えない奴らは下がってろ!」
その佐伯のすぐ隣で、神崎蓮が獣のような咆哮を上げて闇へと飛び出した。悠真から託された薪割り用の鉈を逆手に握りしめ、喧嘩で培った圧倒的な反射神経と身体能力で角狼の牙を紙一重でかわす。すれ違いざま、蓮は鉈の強靭な刃を魔獣の喉元へと深く突き立て、腕力に任せて強引に横へ引き裂いた。凄まじい量の返り血が蓮の制服を黒く染め上げていくが、その鋭い瞳は恐怖に怯むどころか、極限状態の中で猛烈な戦意を滾らせてギラギラと輝いていた。まだシステムとしての自覚はない。しかし、この瞬間、蓮の魂は間違いなく『前衛の盾』としての覚醒を始めていた。佐伯の決死の連撃と、蓮の圧倒的な凶暴さ。二人の鉈が放つ執念は、辛うじて正面玄関からの完全な決壊を食い止めていた。
しかし、粉砕された窓や壁の隙間から乱入してきた角狼たちは、正面の二人を迂回し、容赦なく部屋の奥で身をすくめる生徒たちへと牙を剥く。
「やらせるかよぉぉぉッ!」
怯える生徒たちの前に立ち塞がったのは、サッカー部キャプテンの高橋大輝だった。ずば抜けた運動神経を持つ彼は、悠真から渡された鉈を片手に、ピッチを駆けるような俊敏なステップで魔獣の死角へと回り込む。飛びかかってきた角狼の側頭部へ、大輝は体重を乗せた鉈の一撃を叩きつけた。ガツンと肉を割る音が響き、角狼が床に転がる。
「みんな、真田の後ろに隠れろ! 俺たちがここで壁になる!」
「まかせろぉぉぉッ!」
大輝の叫びに応え、柔道部主将の真田剛が、その190センチの巨体をさらに大きく見せるようにして前に出た。真田が両手で握りしめているのは、佐伯から託されたずっしりと重い大型の斧である。オリンピック代表候補の呼び声高いその規格外の筋力と柔道の体捌きを、真田はそのまま異世界の戦いへと応用した。
突進してきた角狼の一本角を左手で強引に掴み取り、その勢いを利用してログハウスの太い大黒柱へと力任せに叩きつける。
「ギャンッ……!」
魔獣の骨が砕ける生々しい音が室内に響く。怯んだところへ、真田は右手の斧を渾身の力で振り下ろし、その肉体を両断した。真田の圧倒的な質量と、大輝のフットワーク。不測の事態において悠真が導き出した『前衛の最適配置』は、確実に機能していた。彼ら4人の決死の覚悟が、パニックに陥ったクラスの最後の防衛線となり、魔獣の侵攻をミリ単位で食い止めていた。
だが、その防衛線のすぐ後ろ、部屋の最奥の壁際では、さらなる危機が静かに、しかし確実に迫っていた。神代悠真は学級委員長の美咲たちの前に立ち、腰から引き抜いた自身のサバイバルナイフを逆手に構えていた。
「悠真……!」
美咲が恐怖で全身を激しく震わせながらも、悠真の制服の裾を後ろから強く掴む。悠真はその細い手の温もりを感じながらも、周囲の状況を驚異的な冷静さで『観察』し、脳細胞をフル回転させていた。
(正面は先生と蓮の鉈で抑えているが、中央の大型個体が動けば一瞬で抜かれる。右側は高橋と真田の斧が凌いでいるが、あれだけの数をいつまでも支え切れるわけがない。……そして、左側の壁が、外からの圧力に耐えきれなくなっている)
「莉奈、美優、彩花! 動ける奴は全員、左の壁際の壊れたテーブルやチェストを重ねてバリケードを作れ! そこが抜かれたら挟み撃ちになる!」
悠真の冷徹なまでに響く的確な指示が、恐怖で思考停止していた女子たちに届く。西園寺莉奈や藤原彩花たちが「う、うん!」と声を震わせながらも、必死に壊れた家具を引きずり始めた。悠真は指揮官としての資質を、この血の匂いが立ち込める地獄の中で、急速に開花させつつあった。
しかし、そのバリケードの構築が間に合わなかった左側の壁が、外からの凄まじい体当たりによって轟音と共に爆ぜた。
「ギャウッ!」
崩落した丸太の隙間から、濁った眼をした一匹の角狼が室内へと躍り出る。その鋭い牙が、家具を運んでいた莉奈の細い首元へとまっすぐに向けられた。
「西園寺さん、危ないッ!」
叫んだのは、オタクグループの相馬拓海だった。普段なら『異世界ラノベのスキル発動ムーブ』を妄想していた彼だったが、今はそんなフィクションの知識ではなく、目の前のクラスメイトを死なせたくないという純粋な本能だけで動いていた。相馬は手元にあった重いバーベキュー用の鉄板を盾のように両手で構え、角狼の突進を正面から受け止めた。
「ぐ、うぅぅぅッ! 重、すぎだろこれ……!?」
鉄板越しに伝わる魔獣の凄まじい怪力に、相馬の細い腕の骨が悲鳴を上げる。
「拓海、耐えろ! 今助ける!」
結城智也が、昼間机の上に並べていた私物のサバイバルナイフを両手で握りしめ、決死の表情で角狼の脇腹へと突っ込んだ。『異世界生産チート系』の知識を愛する智也は、空想の『魔道具』ではなく、今自分の手にある現実の刃物の有効性を信じていた。
「死ねぇぇぇッ!」
智也の放った全力の突きが、角狼の柔らかい腹部へと深く突き刺さる。角狼は怒りの悲鳴を上げて相馬の鉄板を弾き飛ばし、次の標的を智也へと定めて紅い目を剥いた。
「ひっ……!」
ナイフを握る智也の手が、本物の生命の危機を前にしてガチガチと震える。しかし、その智也の背後から、一筋の鋭い影が疾走した。
シュッ、と鋭い風切り音。
神代悠真だった。悠真は長年愛用し、完璧なメンテナンスを施してきた自身のサバイバルナイフを突き出し、智也を襲おうとした角狼の首の頸動脈を、一瞬の狂いもなく正確に貫いた。父親に叩き込まれたサバイバル知識と動植物の観察眼、それは「生物の急所がどこにあり、どう刃を刺せば一撃で絶命するか」を完璧に理解しているという、冷徹な強みでもあった。
ドサリ、と角狼が激しく血を吹き流しながら床に倒れ伏す。
「二人とも、よく耐えた。美咲たちの所へ下がれ!」
悠真はナイフの血を払う暇もなく、相馬と智也の身体を後ろへと押しやった。二人のオタクは、自分たちが必死に抗い、そして悠真の冷徹な一撃に救われたという重い事実に、声を失って激しく頷くしかなかった。
しかし、クラスの有志たちが死に物狂いで抗う防衛線も、そこが物理的な限界だった。
「グオォォォォォォォォンッ!」
これまで正面玄関の奥で戦況を静観していた【大型の角狼】が、ついに痺れを切らしたように咆哮した。その巨体が地鳴りを立て、爆発的な速度でログハウスの中央へと突進する。
標的は、正面を守り続けていた佐伯先生と蓮の二人だった。
「先生、危ない!」
蓮が叫び、鉈を構えて前に出ようとするが、大型の個体が放つ圧倒的な質量の突進は、蓮の身体を正面から無慈悲に撥ね飛ばした。
「がはっ……!?」
蓮の巨体がログハウスの頑丈な壁まで吹き飛び、凄まじい衝撃音を立てて丸太の壁ごと崩落する。悠真から託された鉈が、手元から離れて床を虚しく転がった。
「神崎!……オォォォッ!」
佐伯先生が、教え子を傷つけられた怒りと玉砕をも覚悟した悲壮な叫びを上げて、手にした鉈を振り上げた。しかし、大型の角狼はあざ笑うかのようにその強靭な一本角を突き出し、佐伯の鉈を正面から受け止め、そのまま凄まじい力で噛み砕いた。
「な……に……!?」
武器を粉々にされ、呆然とする佐伯の無防備な胸元に向けて、大型の角狼の巨大な爪が容赦なく振り下ろされる。
「先生ッ!」
美咲の絶叫が、血の匂いが満ちるログハウスの中に木霊した。
最前線が、完全に崩壊した。
正面の大きな穴から、堰を切ったように無数の角狼たちがログハウス内へと雪崩れ込んでくる。高橋と真田の防衛線も数に押し潰され、部屋のあちこちで、逃げ遅れたクラスメイトたちが魔獣の牙にかかり、その命を散らせていく。悲鳴、怒号、骨の砕ける音、そして肉を引き裂く音が混ざり合い、ログハウスは完全な生き地獄と化していた。
悠真はサバイバルナイフを握りしめたまま、全身の血の気が引いていくのを感じていた。
これが異世界。これが本物のサバイバルの現実。誰も真似ができない頭脳を持つ悠真であっても、この圧倒的な暴力の前には、あまりにも無力だった。
ログハウスの壁は次々と破壊され、2年A組の少年少女の約半数が命を落とすという凄惨な惨劇の幕が、いま完全に開いたのだ。




