濃霧から異世界へ
キャンプファイヤーの炎が小さく爆ぜ、オレンジ色の火の粉が夜空へと吸い込まれていく。奈々の料理とバーベキュー、蓮の釣った魚に舌鼓を打ち、ひとしきり語り明かした2年A組の面々は、心地よい疲労感の中でそれぞれのログハウスへと戻ろうとしていた。
「楽しかったなぁ。明日帰るの、ちょっと名残惜しいかも」
「本当。莉奈ちゃんたちともたくさん話せたし、来てよかったよね」
そんな生徒たちの楽しげな声を遮るように、森の奥から冷たい風が吹き抜けた。
「……ん? なんだ、これ」
岩場に寝転がっていた悠真が、最初にその『異変』に気づいて上体を起こした。
木々の隙間から、まるで生き物のように、白い【霧】が這い出てきたのだ。
霧はまたたく間に濃霧へと変わり、楽しかったキャンプ場を瞬く間に包み込んでいく。数十秒前まで見えていた満天の星空が消え、すぐ目の前にいるクラスメイトの姿すら見失うほどの、圧倒的な白。
「美咲、蓮、何かヤバい。急いでログハウスに避難しよう」
二人に声をかけた悠真は美咲の手を取り急いでログハウスに向かった。その後ろを蓮が二人を守るように続く。
「おい、急にものすごい霧だぞ! 全員、はぐれないように手を繋げ!」
ただならぬ気配を察知した佐伯先生が、大声で指示を飛ばす。
「高橋、真田! 周りの連中をログハウスに誘導しろ! 美咲、点呼は中だ! 全員、急いでログハウスへ避難しろ!」
生徒たちは佐伯先生や体育会系の誘導に従い、手探りでログハウスの中へと逃げ込んだ。
バタン、と重い木の扉が閉められた直後、パツンと嫌な音がしてログハウス内の明かりがすべて消え去った。
「きゃああっ!? 停電!?」
「嘘、スマホのライトも点かないんだけど!」
電化製品、スマートフォン、懐中電灯に至るまで、すべての電子機器が完全に沈黙していた。窓の外は、見たこともないほど濃い霧がガラスを叩いている。一歩も外に出られない極限の暗闇の中、生徒たちは身を寄せ合うしかなかった。
「大丈夫、ただの停電だって。明日にはきっと霧も晴れるよ」
「そうだよ。先生もついてるんだから、落ち着こう?」
美咲や詩織たちが懸命に声を掛け合い、お互いを励まし合う。
そんな中、暗闇の片隅で、オタクグループの相馬拓海と結城智也が声を潜めて猛烈に囁き合っていた。
「おい智也……これ、おかしいぞ。停電はともかく、リチウムイオンバッテリーのスマホのライトまで点かないなんて物理的におかしい。まさか、電磁パルス(EMP)か……?」
「いや、拓海、違う。窓の外を見ろよ。あの霧、なんか薄ら発光してないか? それに、電子機器だけじゃなくて、俺の腕時計の液晶まで消えてる。……これって、ラノベでよくある『魔力の干渉』とか、そういうやつじゃ……」
普段なら「異世界なら主人公補正がある!スキルを獲得できる!」と笑い飛ばせる妄想のシチュエーション。しかし、五感を塗りつぶすような圧倒的な白闇と寒気に、二人のオタク知識は興奮ではなく、底冷えするようなリアルな恐怖へと変わっていった。
悠真は静かに自分のリュックサックを強く握りしめていた。
彼の手元でも、アナログの腕時計の針が、狂ったように高速で逆回転を始めている。
「停電じゃない。これは、物理的なエネルギーの法則そのものが変質している?」
どれほどの時間が経っただろうか。
あれほどログハウスを包み込んでいた濃霧が、サーッと潮が引くように晴れていくのが窓越しに分かった。それと同時に、隙間から差し込んできたのは、およそ日本の初夏にはあり得ない、妙に青みがかった奇妙な月の光だった。
「……霧が、晴れたみたいだぞ」
佐伯先生が斧を片手に慎重に扉を開け、外へと一歩を踏み出す。それに続いて、生徒たちが恐る恐る外に出てみた瞬間、全員が言葉を失った。
「な……に、これ……」
美咲の口から、呆然とした呟きが漏れる。
そこは、昨日まで彼らが過ごしていた整備されたキャンプ場ではなかった。
周囲に生い茂っているのは、天を突くほどに巨大な、見たこともない形状の巨木。不気味な極彩色のシダ植物。地球上のどの図鑑にも載っていない異形の原生林だった。
「画面……真っ暗のままだ。完全に沈黙してる……」
結城智也が、何度もスマホの電源ボタンを押し直しながら、引きつった声で呟く。
その隣で、相馬拓海がガチガチと小刻みに震える指で、足元の奇妙な発光植物を指差した。
「嘘だろ……。こんな植物、地球にない……。ログハウスごと、俺たち丸ごと……嘘だろ、嘘だろ……!」
普段あれほど「異世界転移」を熱望していたオタクの二人が、本物の異世界の大自然を前にして、真っ先にその異常性と「帰れない現実」に圧倒され、絶望の表情を浮かべていた。
「グルゥゥゥ……アオォォォォーンッ!」
遠く、気の遠くなるほど深い森の奥から、地響きのような未知の獣の鳴き声が響き渡った。それは動物園のライオンなどとは比較にならない、本能的な恐怖を呼び起こす咆哮だった。
「ひっ……嫌ァァァァ!」
泣き出しそうな生徒たちの悲鳴を背景に、悠真は足元の土を指で掬い、空気の匂いを嗅いだ。アウトドアで培った彼の鋭い観察眼が、冷酷なまでの事実を導き出す。
(植生、空気の密度、匂い、全てが違いすぎる。……間違いない)
神代悠真は、直感で理解してしまった。
ここは自分たちの知る地球ではない。得体の知れない、未知の『異世界』にクラス丸ごと放り込まれたのだということを。




