第9話
翌朝。迷宮の深層に朝という概念はないが、厨房から漂う出汁の香りが一日の始まりを告げていた。
俺は固い決意を胸に、厨房の入り口に立った。
中では、店主のレオンが手際よく野菜を刻んでいる。
トントンというリズミカルな包丁の音が、静かな空間に響いていた。
昨日、通信魔道具を木箱の奥深くに押し込み、雇い主であるバルテルへの連絡を絶った。
王都の執務室で、あの男がどれほど激怒しているか想像に難くない。
だが、もう後戻りはできない。
俺は深く息を吸い込み、口を開く。
「あんたに、話がある」
レオンは包丁を止めず、背を向けたまま答えた。
「暗殺の件か?」
心臓が跳ねた。
反射的に腰の短剣へ手を伸ばしかけ、すんでのところで止める。
見破られていた。いつからだ。最初からか。
「……気づいていたのか」
「まあな。殺気は隠せていたが、手つきが料理人のそれじゃなかった。それに、夜中に通信魔道具をいじっている気配もな」
レオンは振り返り、布巾で手を拭いた。
その顔に怒りや警戒の色はない。ただ、面倒見の良い近所の親父のような、呆れた笑みが浮かんでいるだけだ。
「なぜ、俺を殺さない。あんたほどの腕なら、俺が寝首を掻こうとする前に首を刎ねることもできただろう」
「お前が、俺の出した飯を残さず綺麗に食ったからだ」
あっけらかんと言い放つレオンに、俺は毒気を抜かれた。
そんな理由で、命を狙う暗殺者を見逃したというのか。
「……それだけか?」
「それだけだ。食事を残さず食べる奴に、悪い奴はいない。それに、お前からは血の匂いよりも、何かを渇望しているような匂いがした」
レオンは戸棚から人数分の皿を取り出しながら、静かに語り始めた。
「俺も昔は、終わりなき戦いと権力闘争のど真ん中にいた。それに疲れ果てて、引退を決意したんだ」
レオンの視線が、厨房の窓の外、薄暗い迷宮の空間へと向けられる。
「疲れた者には誰であれ、極上の飯と安らかな寝床を提供する。そう決めて、この五十階にいたボスを秒殺し、念願の宿屋を開業した」
人類最強の元剣聖。その称号の重圧から逃れ、ただの宿屋の親父になるための決断。
俺は黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「店を開いた日、こんな深層に全く客が来ないと思っていたら、かつて死闘を繰り広げた魔王軍四天王のヴァルガスがボロボロの姿で現れたんだ。三日寝ておらず、休ませてほしいと懇願してきてな」
あの巨漢の魔族が、土下座をして休息を求めた。
その光景を想像し、俺はわずかに目を見張った。
「俺は、宿の中では一切の戦闘禁止を条件にそいつを迎え入れた。温かい飯と安全な寝床を提供したら、そいつは号泣して、今じゃすっかり常連客だ」
レオンはそこで言葉を区切り、まっすぐに俺を見た。
「だから、お前が暗殺者だろうと関係ない。疲れているなら、ここで休めばいい。そして、俺の飯が気に入ったなら、ここで働かないか?」
予想外の提案に、俺は言葉を失った。
命を狙った相手を雇うなど、正気の沙汰ではない。
だが、レオンの瞳には一切の嘘がなかった。彼の器の大きさは、迷宮の底よりも深い。
「……不器用だぞ、俺は」
「構わん。皿洗いから仕込んでやる」
胸の奥で燻っていた迷いが、完全に消え去った。
俺はバルテルを裏切る決意を固め、深く頭を下げた。
「よろしく頼む、親方」
こうして、俺の裏社会からの脱却は、あっけなく完了した。
その日の昼下がり。
俺は厨房の隅で、山積みになった木皿と格闘していた。
「おい、そこはもっと丁寧に洗え。油汚れが落ちてないぞ」
「わかっている。口出しするな」
「口出しじゃない、指導だ。料理の味は、皿の清潔さから始まるんだぞ」
「……ちっ、理屈っぽい親父だ」
レオンの指摘に悪態をつきながらも、俺は黙々と手を動かす。
冷たい水が指先を濡らすが、不思議と不快感はない。
むしろ、汚れが落ちていく皿を見ていると、自分の過去の罪まで洗い流されていくような錯覚に陥った。
「洗い終わったら、次は野菜の皮むきだ。包丁の扱いは慣れてるだろう?」
「人や魔物を斬るのとは勝手が違う。だが、やってやる」
不器用ながらも真面目に作業をこなす俺の姿を見て、レオンは満足げに頷いている。
「筋は悪くない。その調子だ」
厨房には、煮込み料理の温かい匂いが充満している。
殺伐とした血の匂いしか知らなかった俺にとって、ここはあまりにも平和で、温かい居場所だった。
俺は誰にも聞こえないような小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……悪くない」
静かな喜びが、胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じていた。
◆ーーーー◆
食堂の隅の席で、私は手元のノートに羽ペンを走らせていた。
厨房の方からは、店主のレオンと、新しく皿洗いとして雇われたジンという男のやり取りが聞こえてくる。
「興味深いですね」
私は誰に言うでもなく呟き、温かいお茶を一口飲んだ。
迷宮の査察官としてこの五十階層を観察し始めてから、いくつかの疑問が浮かび上がっている。
この深層にありながら、魔物が一切寄り付かない空間。
迷宮特有の自己修復機能や、魔物のリスポーンが完全に停止しているという異常事態。
当初は、レオンという規格外の強者が放つ圧倒的なオーラが原因だと推測されていた。
だが、ここ数日の観察で、私は別の可能性に思い至った。
「レオン個人の力だけではない。この宿の設備、あるいは空間そのものが、迷宮のシステムに干渉している……?」
私はノートに複雑な術式と推論を書き連ねていく。
迷宮の魔力は通常、地脈を通じて各階層に供給され、魔物の生成や壁の修復に利用される。
しかし、この五十階層ではその魔力の流れが不自然に滞っている。
まるで、この宿という存在が巨大な魔力フィルターとして機能しているかのように。
レオンの圧倒的な武力による威圧だけでは、これほど広範囲かつ永続的なシステム停止は説明がつかない。
宿の建材に使われている木材。地下から引き上げられた温泉の成分。
そして、客たちが発する『安らぎ』という感情のエネルギー。
それらが複合的に作用し、迷宮の魔力循環を阻害、あるいは書き換えているのではないか。
私は仮説を裏付けるため、宿の建材のサンプル採取を明日の予定に書き加えた。
事務的な思考の裏側で、未知の事象に対する強い好奇心が湧き上がってくる。
理屈で説明できない現象など、この世には存在しない。
必ず何らかの法則があるはずだ。
私はペンを置き、静かに決意を固めた。
「この宿が迷宮に与えている影響の正体……必ず解明してみせます」
さらなる調査の必要性を感じながら、私は再びノートに向き直った。
迷宮の底に生まれたこの特異点には、まだ私の知らない秘密が隠されている。
その謎を解き明かすまで、ここを離れるわけにはいかない。
私は冷めかけたお茶を飲み干し、新たな推論の構築に取り掛かった。




