第8話
「……いいえ。この宿がなぜ客の戦意を奪うのか、理由が分かるまでは排除を保留します」
査察官の女はそう言って、再び茶を口に運んだ。
理屈っぽい彼女が、この宿の存在を完全に認める日が来るのかどうか。
それはまだ分からないが、少なくとも今は、彼女も一人の客に過ぎなかった。
俺は空になったコップを受け取り、小さく息を吐いた。
「勝手にしろ。ただし、他の客の迷惑になるような真似はするなよ」
背を向け、厨房へと足を踏み入れる。
そこでは、黒ずくめの軽装を纏ったジンが、黙々と皿を洗っていた。
手つきは無駄がなく、汚れ一つ残さない。水はねすら最小限に抑えられている。
妙にプロ意識が高い男だ。料理の仕込みを手伝わせても、食材の切り方一つに並々ならぬこだわりを見せる。
だが、その鋭い目つきは手元ではなく、厨房の奥から見える食堂の方へ向けられていた。
食堂では、不穏な空気が漂っていた。
温かなランプの光に照らされた木製のテーブル。
そこを挟んで、磨き上げられた銀の鎧を着た青年騎士クライドと、妖艶なドレス姿の魔族幹部セレナが睨み合っている。
本来なら、戦場で出会った瞬間に殺し合うべき両者だ。
それが今、同じ空間で平穏に過ごしていること自体が奇跡に近い。
「貴様、また俺の分の焼き菓子に手を出したな!」
クライドが立ち上がり、テーブルを強く叩いた。
生真面目な顔が怒りで赤く染まっている。
「あら、そちらがもたもたしているから、わたくしが美味しくいただいてあげたのよ」
セレナは優雅に足を組み替え、口元についた菓子の欠片を指先で拭った。
「美容と健康のためには、糖分の摂取は計画的に行わなければならないの。あなたが残しそうだったから、手伝ってあげただけじゃなくて?」
「ふざけるな! 魔族風情が、人間の騎士たる俺に向かってその態度はなんだ!」
「ふふっ、声ばかり大きくて耳障りね。その程度の魔力で、わたくしに勝てるとでも思っているのかしら」
クライドが腰の剣の柄に手をかけ、セレナの指先に禍々しい紫色の魔力が集まり始める。
一触即発。
ジンが息を呑む気配が、背後から伝わってきた。
俺は配膳台から身を乗り出し、静かに息を吸い込んだ。
「おい」
たった一言。
だが、そこに込めた殺気は、食堂の空気を一瞬で凍らせるには十分だった。
「この屋根の下で揉め事は許さないと言ったはずだぞ」
ピタリと、二人の動きが止まる。
クライドの額から冷や汗が流れ落ち、セレナの指先に集まっていた魔力が霧散した。
「飯が不味くなる。座って食え」
俺が低く告げると、クライドは屈辱に唇を噛みながら剣から手を離し、セレナも小さく肩をすくめて席についた。
ジンが信じられないものを見るような目で、俺を見つめていた。
「あんた……正気か。勇者と魔族の幹部だぞ。どうしてあんな連中を同じ場所で平穏に過ごさせている」
俺は洗い終わった皿を布で拭きながら、小さく息を吐いた。
「俺はもう、終わりの見えない戦いにも、上の連中の醜い縄張り争いにも疲れ果てたんだ」
かつて人類最強などと呼ばれ、便利な道具扱いされてきた過去。
思い出すだけで、胃の奥が鉛のように重くなる。
「だから剣を置き、この迷宮の底に潜った。五十階を支配していた巨大な魔物を一瞬で切り捨てて更地にし、念願だったこの場所を作った」
ジンは目を丸くして、言葉を失っている。
「疲れた奴には、誰であれ極上の飯と安らかな寝床を提供する。それが俺の決めたルールだ」
「だが、ここは迷宮の深層だ。普通の人間が来られる場所じゃない。客なんて来るはずがないだろう」
「ああ。店を開けた日、俺もそう思っていた」
俺は拭き終わった皿を棚にしまい、遠くの記憶を呼び起こした。
「だが、最初にやってきたのは、かつて俺と何度も死闘を演じた魔王軍の四天王だった」
ジンが息を呑む音が聞こえた。
「全身血まみれで、三日寝ていないと言ってな。武器を放り出し、床に頭を擦りつけて休ませてくれと懇願してきたんだ」
「四天王が……土下座を?」
「そうだ。俺は、この中では一切の戦闘を禁じることを条件に、そいつを迎え入れた」
鍋に火をかけ、夕食の仕込みを再開する。
「温かいシチューと安全な寝床を出してやったら、あの猛将が子供みたいに声を上げて泣き出してな。今じゃすっかりうちの常連だ」
ジンは何も言わず、ただ俺の横顔をじっと見つめていた。
その瞳の奥で、何かが揺れ動いているのが分かった。
◆ーーーー◆
自室のベッドに腰掛けた俺の手の中で、通信魔道具が雇い主への定期連絡を促すように微かな明滅を繰り返している。
本来なら、今日こそ標的であるあの男の隙を突いて、毒を盛るはずだった。
だが、指先がひどく冷たく感じられ、動かない。
脳裏に浮かぶのは、あの男が作る温かい飯の味と、誰であれ受け入れる器の大きさだった。
「疲れた奴には、誰であれ極上の飯と安らかな寝床を提供する」
その言葉が、耳の奥で何度も反響している。
俺は今まで、血と裏切りに塗れた殺伐とした裏社会で生きてきた。
それが当たり前だと思っていた。
だが、この宿の温かさに触れてしまった今、元の冷たい世界に戻ることなどできるのだろうか。
いや、戻りたくない。
通信魔道具を、木箱の奥深くへ押し込んだ。
雇い主への連絡は絶つ。
明日、あの男にすべてを打ち明けよう。自分が暗殺者として送り込まれたこと、そして、ここから抜け出したいという願いを。
胸の奥で燻っていた迷いが晴れ、確かな決意へと変わっていくのを感じた。
一方その頃。
王都の薄暗い執務室では、雇い主の男が苛立ちに任せて机を蹴り飛ばしていた。
「あのネズミめ……まさか裏切ったのか」
一向に鳴らない通信魔道具を睨みつけ、男の顔が怒りで歪む。
その憎悪の炎は、確実に迷宮の底へと向けられていた。




