第7話
夜明け前の静寂。迷宮特有の冷たい空気が窓の隙間から入り込む。
ジンはふかふかのベッドの上で、毒薬の小瓶を弄んでいた。
暗殺者としての使命。バルテルの依頼を完遂しなければ、自分が追われる身になる。
だが、昨夜食べた肉野菜炒めの味が、レオンの屈託のない笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
「食事を残さず食べる者には敬意を払う」
その言葉が、ジンの胸の奥に深く刺さっていた。
葛藤の末、ジンは小瓶を懐の奥深くにしまい込んだ。
「もう少し、標的の動向を探る必要がある」
誰に聞かせるわけでもない言い訳を口にして、部屋を出る。
階段を降りると、厨房からはすでに美味そうな匂いが漂っていた。
レオンが大きな鍋をかき混ぜている。
「早いな。朝飯、食うか?」
「……ああ」
出されたのは、迷宮で採れる薬草と干し肉をじっくり煮込んだ雑炊だった。
一口食べると、優しい出汁の味が胃の奥に染み渡る。
ジンは黙々と匙を動かした。暗殺の意志が、温かい湯気とともに少しずつ溶けていくような気がした。
◆ーーーー◆
客のジンが空になった器を配膳台に置き、静かに自室へ戻っていった。
俺は器を洗いながら、ふと入り口の扉に視線を向けた。
迷宮五十階層。かつては強力な魔物が跋扈する死地だったが、今は不自然なほどの静寂に包まれている。
静寂を破るように、重厚な木の扉が音もなくゆっくりと開いた。
現れたのは、ゆったりとした白いローブを纏う小柄な人物だった。
中性的な顔立ちで、年齢は不詳。感情の読めないガラス玉のような瞳が、俺を真っ直ぐに捉えている。
「……迷宮五十階層。自己修復機能の停止、および魔物の発生率ゼロ。不自然な沈黙の原因は、あなたですね」
淡々とした事務的な口調だった。
俺は手を拭きながら、布巾を配膳台に置いた。
「あんた、誰だ」
「私は迷宮の査察官、ノア。この階層の生態系が完全に破壊されている異常事態を検知し、原因調査に参りました」
ノアと名乗った人物は、宿の中を分析的な視線でぐるりと見回す。
磨き上げられた木の床、頑丈な柱、そして厨房の設備。
「本来、ここは強力なフロアボスが君臨する空間。しかし、あなたはそれを排除し、あろうことかこのような建造物を設置した。迷宮の秩序を著しく乱すイレギュラーな存在として、直ちに排除を通告します」
ノアの周囲の空気が歪んだ。
高密度の魔力が集束し、目に見えるほどの光の粒子となって彼女を包み込む。
俺はため息をつき、配膳台からゆっくりと歩み出た。
「やめとけ。ここは俺の宿だ。宿の中では絶対に争ってはならない。それが唯一の掟だ」
俺は静かに、だが明確な威圧感を放った。
かつて培った、純粋な殺気。
それをぶつけられた直後、ノアの集束していた魔力が、あっけなく霧散した。
彼女はわずかに目を見開く。
「……驚異的な出力です。私の術式が強制的に解除されました。ですが、規則は規則。あなたは排除されなければならない」
「理屈っぽい奴だな。まあ、立ち話もなんだ。座れ」
俺は適当にいなしながら、近くの椅子を顎でしゃくった。
俺はかつて、人類最強の称号を持っていた。
だが、王侯貴族たちの醜い権力闘争や、手柄の奪い合い、終わりの見えない魔族との戦争にすっかり嫌気が差した。
彼らは俺を人類の希望と持ち上げながら、その実、都合のいい殺戮兵器としてしか見ていなかったのだ。
そんなしがらみから解放され、誰にも邪魔されない静かなスローライフを送りたい。
そう思って、この迷宮の深層へ単身潜った。
五十階に君臨していたフロアボスを秒殺し、更地となった空間に念願の宿屋を開業したのだ。
終わりなき戦いに疲れ果てた俺が辿り着いた答え。
それは、「疲れた者には誰であれ極上の飯と安らかな寝床を提供する」という信念だった。
開店初日。こんな過酷な環境に普通の客など来るはずがないと思っていた。
だが、静寂に包まれた深層に重い足音が響き、一人の男が現れた。
全身を黒い甲冑で包んだ、筋骨隆々の大男。かつて最前線で幾度も死闘を繰り広げた、魔王軍四天王の一人だった。
彼はボロボロの姿で武器を放り出し、三日寝ていない、休ませてほしいと深々と土下座をして懇願してきたのだ。
俺は「宿の中では一切の戦闘禁止」を条件に彼を迎え入れた。
温かい飯と安全な寝床を提供された彼は、子どものように号泣し、今ではすっかり宿の常連客となっている。
あの時と同じだ。客が誰であれ、疲れているなら平等にもてなす。
それが俺のやり方だ。
「私は疲労などしていません。排除対象から施しを受ける理由もない」
ノアは椅子に座ろうともせず、淡々と告げる。
「いいから。ちょうどいいところへ来たな。ドラン、例のやつはできてるか?」
俺が裏口に向かって声をかけると、バタンと勢いよく扉が開き、筋骨隆々で髭もじゃのドワーフが顔を出した。
「おう店主、ちょうど湯が湧いたところだ。配管の調整も完璧だぜ」
ドランは使い込まれた工具袋を腰に揺らしながら、ニカッと笑う。
そして、ノアの姿に気づいて目を丸くした。
「なんだこのちっこいのは。新手の魔物か?」
「いや、迷宮の査察官らしい」
「査察官? 迷宮にそんなもんがいるのか。まあいい、湯加減は最高だぜ」
「よし。あんた、まずは風呂にでも入れ」
「風呂……? 入浴という行為が、迷宮の生態系調査においてどのような意味を持つというのですか。私の目的はイレギュラーの排除であり――」
「いいから入れ。話はそれからだ」
俺は理屈をこねるノアの背中を押し、ドランが完成させたばかりの露天風呂へと案内した。
「服を脱ぐという行為は、無防備な状態を晒すことになります。極めて非合理的だ」
脱衣所の前で、ノアは立ち止まって抗議した。
「誰も覗きゃしねえよ。さっさと入ってこい」
俺は半ば強引に彼女を押し込み、扉を閉めた。
しばらくして。
脱衣所から出てきたノアは、相変わらず無表情だったが、その足取りはどこかふらついていた。
白い肌はほんのりと赤みを帯び、ゆったりとしたローブから覗く首筋には水滴が光っている。
「……驚きました。温水による体温の上昇と、水圧による筋肉の弛緩。これが『休息』という概念の物理的アプローチなのですね。未知の体験です。非常に興味深いデータが採取できました」
ノアは理屈っぽく呟きながら、俺が差し出した冷たい茶を受け取った。
一口飲み、小さく息を吐く。
「で、俺を排除するのか?」
俺が尋ねると、ノアは茶の入ったコップをじっと見つめた。
「……いいえ。この『宿屋』という未知のシステムが、対象の精神と肉体に及ぼす影響について、さらなる観察が必要です。排除は一時保留とします」
ノアはそう言って、再び茶を口に運んだ。
理屈っぽい査察官が、この宿の存在を完全に認める日が来るのかどうか。
それはまだ分からないが、少なくとも今は、彼女も一人の客に過ぎなかった。




