第6話
「迷宮の五十階層だと? 奴め、私から逃げ切れるとでも思っているのか!」
先日下された暗殺指令から数日。標的である剣聖レオンの居場所を記した報告書を宙に投げ捨てるなり、雇い主は怒号を上げた。私兵として飼い慣らそうとしていた目論見が外れたことで、彼の苛立ちはすでに限界を超えている。
バルテルは豪華な執務机を拳で叩き、床に散らばった報告書を革靴で乱暴に踏みにじった。
俺――ジンは、部屋の隅で気配を殺し、静かに控えていた。
「あの忌々しい男め。勝手に前線を退きおって、私の立場がどれほど危うくなったか分かっているのか! 奴が戦場にいるだけで、魔族どもは震え上がっていたのだ。その抑止力が消えた今、私の責任問題に発展しかねん!」
バルテルの顔は怒りでどす黒く染まり、口角から唾が飛んでいる。
思い通りにならない事態に直面し、ヒステリックに激怒するいつもの癖だ。
「五十階層に宿屋を開業したなどと、ふざけた真似を。ジン、貴様は腕利きの暗殺者だろう。奴の動向を探り、もし私の不利益になるような真似をしているなら……迷宮の底に沈めてやれ」
「……承知しました」
俺は短く答え、闇に溶けるように部屋を後にした。
そのまま屋敷を抜け出し、裏路地で迷宮探索用の解毒薬と暗器を調達すると、夜明け前には五十階層へと続く転移門をくぐっていた。
迷宮の深層へ向かう道程は、まさに地獄だった。
強力な魔物が次々と襲い掛かり、毒の沼や即死の罠が口を開けて待っている。
俺は幾度も死線を潜り抜け、ようやく目的の階層へとたどり着いた。
だが、五十階層に足を踏み入れた途端、その空気は一変した。
常人なら到達することすら叶わない死地。
しかし、目の前に広がるのは、不自然なほど静寂に包まれた広大な更地だった。
迷宮特有の自己修復機能や魔物のリスポーンが完全に停止している。
更地の片隅には、不気味な光を放つ謎のキノコが群生していた。
そして、その中央に木造の立派な建物が建っていた。
煙突からは、のどかな煙が立ち上っている。
本当に宿屋が開業している。
終わりなき戦いと権力闘争に疲れ果てた人類最強の男が、引退してこんな場所に宿を開いたという情報は真実だった。
俺は息を整え、一般の冒険者を装って重い木の扉を開けた。
カラン、と素朴なベルの音が鳴る。
「いらっしゃい。空いてる席に座りな」
厨房から顔を出したのは、簡素な作務衣を纏った男。
鍛え抜かれた無駄のない体躯に、無数の傷跡。
「あんたが……人類最強の剣聖、レオンか」
俺が探りを入れるように呟くと、男の顔が微かに歪んだ。
「その呼び方はやめろ。俺はただの宿屋の親父だ」
過剰なほどの嫌悪感。かつての称号に対する強い拒絶が窺える。
俺は適当なテーブルに腰を下ろそうとして、全身の血の気が引くのを感じた。
奥の席で、信じられない巨体がくつろいでいたからだ。
全身を黒い甲冑で包んだ大男。魔王軍四天王のヴァルガス。
なぜ魔族の猛将が、人間の宿で茶を飲んでいる。
しかも、武器を手放し、完全に無防備な状態だ。
首元には、欠けた魔石のペンダントが揺れている。
俺の驚愕に気づいたのか、レオンが布巾で手を拭きながら歩み寄ってきた。
「驚くのも無理はない。だが安心しろ。こいつはうちの最初の客でな」
レオンはヴァルガスを顎でしゃくった。
「開店初日、全く客が来ないと思っていたところに、こいつがボロボロの姿で現れてな。三日寝てないから休ませてくれって、床に頭を擦り付けて懇願してきたんだ」
「おい親父! その話はもうするなと言っただろうが!」
ヴァルガスが顔を真っ赤にして抗議するが、レオンは軽く鼻で笑って受け流した。
俺は混乱を隠しつつ、プロとしての冷静さを取り戻す。
標的は目の前にいる。
作務衣姿で、一見すると隙だらけの立ち姿。
だが、俺の暗殺者としての本能が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
歩幅の均等さ、重心のブレのなさ、そして呼吸の静けさ。
どこからどう見ても無防備なのに、いざ攻撃を仕掛けようとすると、致命的な反撃を食らう未来しか見えない。
それでも、今ならやれるかもしれない。
俺はテーブルの下で、懐に忍ばせた暗器に指を這わせた。
だが、直後。
レオンの纏う空気が、一変した。
「言っておくが」
低く、地を這うような声。
俺の指先が、氷のように固まる。
「宿の中では絶対に争ってはならない。疲れた者には誰であれ極上の飯と安らかな寝床を提供する。それが俺のルールだ」
レオンの目は、俺の懐の動きを完全に見透かしていた。
「ここで争いを起こす奴は、相手が誰であろうと容赦しない」
圧倒的な武の気配。
肌が粟立ち、胃の奥が冷たくなる。
俺は暗器から静かに手を離し、引きつった笑みを浮かべた。
「……ただの冒険者ですよ。迷宮の奥深くに宿があると聞いて、休ませてもらいに来ただけです」
「ならいい。ゆっくりしていけ」
レオンはあっさりと威圧感を解き、厨房へ戻っていった。
「腹が減ってるんだろ。まかないで良ければ出すぞ」
しばらくして、レオンが湯気を立てる皿を運んできた。
迷宮の魔物肉を使ったと思われる肉野菜炒めと、澄んだスープ。
俺は毒見の癖で、慎重に肉を一切れ口に運ぶ。
噛み締めた途端、強烈な旨味が口いっぱいに広がる。
硬いはずの魔物肉が、信じられないほど柔らかい。
火の通し加減、塩味のバランス、素材の旨味を極限まで引き出す香辛料の配合。
冷酷無比な暗殺者を装っている俺だが、実は料理の味にはうるさい。
任務の合間に食べる味気ない携帯食料に嫌気が差し、密かに料理の腕を磨いてきた自負がある。
だが、この味は次元が違う。
プロの料理人顔負けのこの味に、俺の職人魂が激しく揺さぶられた。
「あんた……この肉の筋切り、どうやってる? それにこの香辛料、ただの塩じゃない。微かに柑橘の香りがする……!」
俺は思わず身を乗り出し、早口でまくしたてていた。
暗殺者としての仮面が剥がれ落ちていることにすら気づかない。
レオンは目を丸くした後、ふっと口角を上げた。
「わかるか。肉は叩いて繊維を壊してから、特製のタレに漬け込んである。香辛料は、この階層で採れる薬草を乾燥させて混ぜたものだ」
「完璧な下処理だ。それにこのスープの出汁……骨をじっくり煮込んでいるな。アク取りのタイミングが絶妙だ」
「お前、なかなか見どころがあるな。食事を残さず食べる者には敬意を払うのが俺の信条だ。おかわりもあるぞ」
俺は無言で空の皿を突き出し、結局三度もおかわりを平らげてしまった。
夜。
割り当てられた客室のベッドの上で、俺は一人、暗闇を見つめていた。
ふかふかの布団は、これまでの人生で味わったことのない心地よさだ。
俺は懐から毒薬の小瓶を取り出し、強く握りしめる。
俺は暗殺者だ。依頼は完遂しなければならない。
バルテルを裏切れば、俺自身が追われる身になる。
だが、あの肉野菜炒めの味が、レオンの屈託のない笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
こんな美味い飯を作る男の命を、俺は奪わなければならないのか。
小瓶を握る手に、じわりと汗が滲んだ。
窓の外では、迷宮の静寂が広がっている。
俺の心の中だけが、激しい嵐のように揺れ動いていた。




