第5話
「おいおい、勝手に宿を要塞にする気か?」
俺が呆れ混じりに声をかけると、ドランは自慢の髭を撫でながら豪快に笑った。
「馬鹿言っちゃいけねえ。客が快適に過ごすための最高の設備だ。迷宮五十階の素材を使えば、地上の王城すら凌ぐ湯船が作れるぞ。この歯車はな、地下の熱源から湯を汲み上げるための……」
「ほどほどにしておけよ。俺は静かに宿屋をやりたいだけなんだからな」
出来上がったシチューを皿に盛り、ドランとクライドの前に置く。
人間、魔族、ドワーフ。絶対に交わるはずのない者たちが、同じ空間で湯気を立てる飯を囲んでいる。
俺が求めていた平穏とは少し違う気もするが、悪くない光景だ。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
バンッ、と。
入り口の重厚な扉が、乱暴に蹴り開けられた。
迷宮の冷たい風と共に、ツンとした香水の匂いが流れ込んでくる。
「ヴァルガス様! こんな薄汚い人間の宿で、一体何をされているのですか!」
甲高い声と共に現れたのは、露出度の高い豪奢なドレスを纏った女だった。
頭部から伸びるねじれた角と、背中の蝙蝠のような小さな羽。妖艶な美貌を怒りで歪ませている。
魔王軍幹部、セレナ。
かつて戦場で何度か見かけた顔だ。四天王であるヴァルガスの直属の部下だったはずだ。
「セ、セレナ……なぜここに」
シチューを頬張っていたヴァルガスが、気まずそうにスプーンを止めた。
「なぜ、ではありません! 魔王軍の最前線を放り出して行方不明になったかと思えば、こんな迷宮の底で人間と飯を食っているなど……正気の沙汰とは思えません!」
セレナはコツコツとヒールを鳴らして歩み寄り、ヴァルガスを睨みつけた。
そして、その鋭い視線を厨房に立つ俺へと向ける。
「貴様ね。元剣聖とかいう人間。ヴァルガス様をどうたぶらかしたの!」
「その呼び方はやめろ」
俺は低く返し、布巾で手を拭いながら彼女の前に立った。
「たぶらかしちゃいない。俺は王侯貴族の醜い権力闘争や、終わりの見えない戦いにすっかり嫌気が差してな。引退して、この迷宮五十階のボスを秒殺し、念願の宿屋を開業したんだ」
「はあ? 宿屋ですって?」
「ああ。疲れた者には誰であれ、極上の飯と安らかな寝床を提供する。それが俺の信念だ」
俺は呆然とするセレナをよそに、言葉を続けた。
「開店初日、全く客が来ないと思っていたところに、こいつがやってきた。三日寝ておらず、ボロボロの姿でな。武器を捨てて、休ませてほしいと懇願してきたんだ」
「ヴァルガス様が……人間に頭を下げたというの!?」
「俺は『宿の中では一切の戦闘禁止』を条件に迎え入れた。温かい飯と安全な寝床を提供したら、こいつは号泣して、そのまま宿の常連客になった。それだけのことだ」
「ご、号泣……!?」
セレナは信じられないものを見るような目で、ヴァルガスを振り返った。
巨漢の四天王は、顔を真っ赤にして視線を逸らしている。
「嘘よ……あの誇り高きヴァルガス様が、人間の飯ごときで泣くわけがないわ! 貴様、何らかの精神支配の魔法を使ったのね!」
セレナの指先から、バチバチと赤黒い魔力が弾け始めた。
「今すぐこのふざけた宿を消し飛ばして、ヴァルガス様を連れ戻してやるわ!」
宿の空気が一気に張り詰める。
クライドが剣の柄に手をかけ、ドランが図面を庇うように丸めた。
だが、俺はため息をつき、セレナの顔をじっと見つめた。
「……なんだ、その目は」
「お前、肌が荒れてるぞ」
「は……?」
セレナの魔力がピタリと止まった。
「目の下には隈ができてるし、髪のツヤも落ちてる。ヴァルガスを探して、ろくに休まず迷宮を駆け回ってたんじゃないか?」
「なっ、失礼な! わたくしの美容は完璧……」
言いかけながら、彼女は慌てて手鏡を取り出し、自分の顔を覗き込んだ。
「ああっ! 本当だわ、最悪……!」
「宿の中では絶対に争ってはならない。それがルールだ。だが、疲れているなら客として平等にもてなす」
俺は厨房に戻り、冷やしておいた特製の皿を取り出した。
ガストンから仕入れた新鮮な果物と、たっぷりの砂糖、そして迷宮の清らかな水を使った特製スイーツ。
色鮮やかな果実が乗ったプリン・ア・ラ・モードだ。
「まあ座れ。甘いものでも食って落ち着け」
俺はセレナの前のテーブルに、その皿をコトンと置いた。
「こ、こんなもの……わたくしが騙されるとでも……」
セレナは高飛車な態度を崩さず、そっぽを向いた。
だが、その鼻腔を甘いカラメルの香りがくすぐる。
彼女の喉が、ゴクリと小さく鳴った。
「……毒見よ。ええ、毒が入っていないか確かめるだけなんだから」
震える手でスプーンを手に取り、セレナはプリンの端をすくって口に運んだ。
その瞬間。
彼女の瞳孔がカッと見開き、背中の小さな羽がピンと跳ね上がった。
「な、なにこれぇ……!」
セレナの口から、甘ったるい声が漏れた。
「卵の濃厚なコク……それに絡みつく、ほろ苦くて甘いカラメルソース……! 果物の酸味が絶妙なアクセントになって、口の中でとろけていくわ……!」
彼女はもう止まらなかった。
スプーンを猛烈な勢いで動かし、次々とスイーツを口に運んでいく。
「美味しい……美味しすぎるわ! 魔王城の専属パティシエが作るお菓子なんて、これに比べたらただの泥よ!」
最後の一口を飲み込むと、セレナはだらしなく椅子に寄りかかり、うっとりとした表情で天井を見上げた。
「ああ……幸せ……」
先ほどの怒気は完全に消え失せ、そこにはただ甘味に屈した一人の魔族がいるだけだった。
「お粗末さま。で、ヴァルガスを連れ戻すんだったか?」
俺が尋ねると、セレナはハッとして身を起こした。
「そ、そうよ! ヴァルガス様、帰りましょう!」
「いや、俺はまだここに残る。ドランの作った新しい湯船を試さねばならんからな」
ヴァルガスが真顔で答えると、セレナは少し悩む素振りを見せ、チラリと俺の顔を見た。
「……仕方ありませんわね。上官が残るというのなら、部下であるわたくしも付き添う義務があります。決して、明日のおやつが気になるからではありませんわよ!」
彼女はふんぞり返りながら、堂々とラウンジのソファに陣取った。
その直後、再び入り口の扉が開いた。
「よお、親父さん。注文の品を持ってきたぜ」
大きな背負子を背負ったガストンが、陽気な声を上げて入ってくる。
だが、彼は室内の光景を見て、ピタリと足を止めた。
魔王軍四天王のヴァルガス。
人間の凄腕騎士であるクライド。
迷宮のドワーフ大工、ドラン。
そして、ソファでだらしなく寛ぐ魔王軍幹部のセレナ。
「……お前さん、とうとう魔王軍の幹部まで手なずけたのか」
ガストンは呆れ果てたように肩をすくめ、背負子を下ろした。
「手なずけたわけじゃない。ただの客だ」
俺は苦笑しながら、ガストンから受け取った荷物を厨房へと運んだ。
「ねえ店主! 明日のおやつは何かしら! わたくし、もっと甘いものが食べたいわ!」
セレナのワガママな声が、ラウンジに響き渡る。
すっかりダメ魔族と化した彼女の姿に、ヴァルガスは頭を抱え、クライドは深くため息をついていた。
俺は新しい食材の仕込みを始めながら、この騒がしくも平和な空間に、少しだけ口角を上げた。
◆ーーーー◆
同じ頃。
迷宮の遙か上層、地上の王都。
豪奢な執務室の中で、一人の男が報告書を床に叩きつけていた。
「五十階層の魔物の反応が消えただと? それに、あの忌々しい男が宿屋を開いただと……!」
男は苛立ちを隠せない様子で、窓の外に広がる街並みを睨みつけた。
「奴は我々にとって、都合の良い剣でなければならない。勝手な真似は許さん」
暗がりから、音もなく数人の影が立ち上がる。
「レオンの動向を探れ。もし奴が我々の不利益になるような真似をしているなら……迷宮の底に沈めてやれ」
男の冷酷な命令が、夜の闇に溶けていった。
静かなスローライフを求める俺の思いとは裏腹に、地上では新たな火種が燻り始めていた。




