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第4話

薄暗い通路の奥へと消えていく銀色の鎧を見送った。


クライドたち捜索隊の足音が完全に聞こえなくなるまで、俺は宿の入り口に立ち尽くしていた。

迷宮五十階。本来なら凶悪な魔物がひしめき合う死地のはずだが、周囲は不自然なほどに沈黙している。

俺がフロアボスを討伐して以来、この階層の自己修復機能や魔物のリスポーンは完全に停止したままだ。

壁面を覆う発光苔の淡い光だけが、静寂に包まれた空間を照らしている。

俺の放つオーラが原因かもしれない。だとしたら、静かなスローライフを送るには好都合だった。

誰にも邪魔されない、俺だけの安らぎの場所。

そう思っていたのだが。


厨房に戻ろうと背を向けた時、トントンという乾いた音が耳に届いた。

宿の裏手からだ。

魔物の足音ではない。何かを叩くような、規則的なリズム。

俺は足音を殺し、建物の外壁に沿って裏へと回った。


「チッ、なんだこの素人くさい柱の継ぎ手は。これじゃあ大型の魔物がぶつかっただけでひしゃげちまうぞ」


カン、カン、とリズミカルな音が響く。

見れば、もじゃもじゃの髭に、使い込まれた工具袋を腰に下げたドワーフが、宿の外壁に板を打ち付けていた。

太い腕の筋肉が、金槌を振り下ろすたびに隆起している。

俺の気配に気づいたのか、ドワーフはピタリと手を止め、ゆっくりと振り返った。


「……おっと。見つかっちまったか」

「何をしている」


俺が低く問うと、ドワーフは悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「俺はドラン。迷宮を渡り歩く大工だ。こんな深層に更地ができて、しかも宿屋が建ってるって聞いて見に来たんだが……」


ドランは建物を指差し、呆れたように鼻を鳴らした。


「立地は最高だが、作りが甘すぎる。見過ごせなくてな、つい手を出した」

「勝手に人の宿を改築しようとするな」

「あんたが店主か? そもそも、こんな場所に宿屋を開業するなんて正気の沙汰じゃねえぞ」


ドランの言う通りかもしれない。

だが、俺には俺の理由があった。

王侯貴族たちの醜い権力闘争。手柄の奪い合い。終わりの見えない戦争。

彼らは俺を人類の希望と持ち上げながら、その実、都合のいい殺戮兵器としてしか見ていなかった。

そんなしがらみに縛られ続ける日々に、俺はすっかり疲れ果てていた。

だからこそ、この迷宮の最深部を選んだのだ。


「俺はただ、静かに暮らしたいだけだ」


俺は短く答え、壁の補強具合を確認する。

無断とはいえ、ドランの打った釘は正確で、板は外壁に完璧に密着していた。

確かな腕だ。


「五十階のボスを秒殺して更地を作り、疲れた者には誰であれ極上の飯と安らかな寝床を提供する。それが俺のやり方だ」

「ボスを秒殺……? あんた、ただの人間じゃねえな」


ドランは目を丸くし、俺の腕や首筋に刻まれた無数の傷跡をじっと見つめた。

俺はため息をつき、入り口の方へ顎をしゃくった。


「立ち話もなんだ。中に入れ。勝手な真似をした罰として、少し手伝ってもらうぞ」


◆ーーーー◆


食堂のテーブルに、湯気を立てる皿を置いた。

フロアボスを倒した跡地に生え始めた、不気味な発光キノコのバター炒めだ。

青白い光を放つ傘の部分を厚めにスライスし、迷宮牛の脂でじっくりと炒めてある。

見た目は毒々しいが、火を通すと芳醇な香りを放つ。

俺はそれを新作料理の材料として密かに栽培していた。


「ほら、食ってみろ」

「なんだこの光るキノコは……ゲテモノじゃねえか」


ドランは眉をひそめながらも、フォークでキノコを突き、恐る恐る口に運ぶ。

数秒後、彼の髭もじゃの顔がパッと明るくなった。


「美味え! なんだこの濃厚な旨味は! 噛むたびにキノコの出汁が溢れてきやがる。それにこの絶妙な塩加減……酒に合うぞ!」


ドランはフォークを動かす手を止めず、あっという間に皿を空にしてしまった。


「俺が狩ってきたレア素材だ。お前を専属大工として雇いたい。報酬はこの飯と素材でどうだ」


俺が提案すると、ドランはジョッキの酒を勢いよく煽り、ニヤリと笑った。


「悪くねえ取引だ。俺の職人魂に火がついたぜ」


その時、奥の客室から重い足音が近づいてきた。


「親父、いい匂いがするな。俺にもそれをくれ」


のっそりと食堂に姿を現したのは、全身を黒い甲冑で包んだ巨漢だった。

かつて最前線で幾度も刃を交えた、魔族の猛将。

ドランはジョッキを落としそうになり、目を剥いた。


「ま、魔王軍四天王!? なんでこんなところに魔族の幹部がいやがる!」


ドランが工具袋の金槌に手を伸ばす。

だが、ヴァルガスは気にする様子もなく、空いている席にどっかりと腰を下ろした。

彼は首から下げた欠けた魔石ペンダントを指先で弄りながら、ふんと鼻を鳴らす。

それは彼がかつて人間に奪われた誇りの欠片と呼ぶ、大切な品だった。


「騒ぐな、ドワーフ。俺はこの宿の最初の客だ」

「最初の客だと?」

「ああ。開店初日、三日三晩寝ずに戦い続けてボロボロだった俺は、ここで休ませてほしいと懇願したのだ」


ヴァルガスはかつての宿敵である俺をちらりと見やり、口角を上げた。


「あの時は死を覚悟したが……ここの飯と寝床は最高だ。今ではすっかり常連客だからな」


ドランは信じられないものを見るような目で、俺とヴァルガスを交互に指差した。


「店主、あんた本気か? 四天王を泊めるなんて……」

「客が誰であれ、疲れているなら平等にもてなす。それがこの宿のルールだ」


俺が発光キノコの炒め物をヴァルガスの前に置くと、彼は嬉しそうにフォークを握った。


◆ーーーー◆


数時間後。

宿の入り口の扉が勢いよく開かれた。


「親父、戻ったぞ」


迷宮の探索を終えたクライドだった。

銀色の鎧には迷宮の土埃が付着し、疲労の色が濃い。

行方不明の仲間たちの痕跡は、まだ見つかっていないのだろう。彼の表情には焦燥感が滲んでいた。

だが、食堂の光景を目にした瞬間、彼の顔つきが険しくなった。


「魔族……それに、そっちのドワーフは何者だ」


クライドは剣帯に手をかけ、鋭い視線をヴァルガスとドランに向ける。

ドランも負けじと立ち上がり、べらんめえ調で言い返した。


「なんだと若造。俺はこの宿の専属大工だ。文句があるなら表へ出ろ」

「望むところだ。魔族と同席するなど、騎士の誇りが許さん」


一触即発の空気。

俺は厨房からゆっくりと歩み出た。

足音は立てていない。だが、俺の放つ威圧感に気づいたのか、三人の動きがピタリと止まった。

胃の奥が冷たくなるような、重苦しい空気が食堂を満たす。


「……言ったはずだ」


俺は低く、地を這うような声で告げた。


「宿の中では絶対に争ってはならない。ルールを破るなら、容赦はしないぞ」


俺はクライドの目を真っ直ぐに見据えた。

再び血で汚された空間を見るのは御免だ。安らぎの場所を奪う者は、誰であろうと排除する。

食事を残さず食べる者には敬意を払うが、争いを持ち込む者には一切の情をかけない。

クライドは数秒間俺を睨み返していたが、やがて舌打ちをして剣から手を離した。

ドランも冷や汗を拭い、ドスンと椅子に座り直す。


「ははは! 親父の言う通りだ」


沈黙を破ったのは、ヴァルガスの豪快な笑い声だった。


「俺も最初は警戒したが、温かい飯と安全な寝床を提供されて、思わず号泣してしまったほどだからな。お前たちも大人しく飯を食え」


かつて戦場を蹂躙した猛将が号泣したという事実に、クライドとドランは呆気を取られていた。

毒気を抜かれたように、クライドは渋々といった様子でヴァルガスから離れた席に座る。


「……親父、俺にも飯を頼む。腹が減って死にそうだ」

「ああ、すぐに出す」


俺は厨房に戻り、火にかけた鍋の様子を見た。

人間、魔族、ドワーフ。

絶対に交わるはずのない者たちが、同じ空間で飯を待っている。

奇妙な光景だが、悪くない。


ドランは残っていた酒を飲み干し、満足げに息を吐いた。


「店主、あんたの飯と素材は最高だ。専属大工の件、正式に引き受けよう」


彼は工具袋から丸まった羊皮紙を取り出し、テーブルの上にバサリと広げた。


「だが、この宿にはまだ足りないものがある」


ドランは意味深に呟き、ニヤリと笑う。

羊皮紙に描かれていたのは、現在の宿の規模を遥かに超える、複雑な構造の図面だった。

迷宮の素材をふんだんに使った、見たこともない設備の設計図。

温泉のような湯船、巨大な貯蔵庫、そして謎の歯車が組み合わさった仕掛け。

果たして、この頑固な職人は俺の宿に何を作ろうとしているのか。

俺は鍋をかき混ぜながら、図面を覗き込むドランの横顔を見つめていた。

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