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第3話

危険すぎる。だが、この莫大な商機を逃す手はない。

「……交渉成立だ。お前さんの宿、俺が贔屓にしてやるよ」

俺は図太く笑い返し、商談をまとめた。


◆ーーーー◆


数時間後。

俺は親父に教えてもらった安全なルートを通り、地上への帰路についていた。

背負子の中には、仕入れ代金として受け取った大量の魔石が詰まっている。

「へへっ、こいつは笑いが止まらねえな」

あの親父の正体はわからない。だが、金払いのいい上客であることは間違いない。

四十九階層への階段を上りかけた、その時だった。


カチャ、カチャ、と。

金属の擦れる重い足音が、上の階層から近づいてきた。

俺は慌てて通路の物陰に身を潜める。

現れたのは、十人ほどの重武装の集団だった。

全員が顔を布で隠し、異様な殺気を放っている。

彼らは迷うことなく、五十階へと続く階段を降りていった。


「おいおい……」

俺は冷や汗を拭った。

あんな物騒な連中が、何を目的に深層へ向かっているのか。

あの宿屋の親父か、それとも四天王の首か。

嫌な予感が、背筋を這い上がっていく。

迷宮の奥底に生まれた小さな宿屋に、新たな波乱が迫っていることだけは間違いなかった。


◆ーーーー◆


五十階層。

常人であれば足を踏み入れることすら叶わない、死と絶望が支配する地下空間の最深部。

俺、クライドは磨き上げられた銀の鎧をどす黒い血と泥で汚しながら、薄暗い通路を歩いていた。


「隊長……もう、限界です……」


背後から、擦れ枯れた声が響く。

振り返れば、十名ほどいた部下たちは半数に減り、残った者たちも足を引きずり、虚ろな目をしていた。

彼らの銀の鎧はひしゃげ、顔を覆う布は黒く汚れきっている。

迷宮の瘴気から少しでも身を守るための布だが、それも気休めに過ぎない。

皆、疲労困憊だった。


俺たちは、行方不明になった先遣隊の仲間を探し、この深層まで潜ってきた。

だが、五十階層の様子がどうにもおかしい。

迷宮特有の自己修復機能が働いておらず、魔物の一匹すら姿を見せないのだ。

不自然な沈黙が、かえって俺たちの神経をすり減らしていた。

静寂の中、自分たちの荒い息遣いと、鎧が擦れる音だけが響く。


「気をしっかり持て。必ず仲間を見つけ出し、地上へ帰るぞ」


自分に言い聞かせるように声を張り上げるが、空回りしているのは自覚していた。

視界が霞む。胃の奥が冷たく、重い。

絶望が足元から這い上がってくるのを感じた。

その時だった。


開けた空間に出た俺たちの目に、信じられない光景が飛び込んできた。

広大な更地。その片隅には、不気味な光を放つ謎のキノコが群生している。

そして中央には、ポツンと木造の建物が建っていた。

煙突からは白い煙が立ち上り、窓からは温かなオレンジ色の光が漏れている。


「宿屋……?」


部下の一人が、呆然と呟く。

こんな迷宮の最深部に、宿屋などあるはずがない。

強力な魔物が見せる幻覚か、あるいは悪辣な罠か。

だが、俺たちの体力はとうに限界を突破していた。休める場所があるなら、すがりつきたいのが本音だ。

俺は剣の柄に手をかけ、油断なく周囲を警戒しながら、その建物の扉へと近づいた。

深呼吸を一つし、重い木の扉を押し開ける。


カラン、と。

気の抜けたベルの音が、静かな空間に響いた。


「いらっしゃい。空いてる席へどうぞ」


厨房の奥から、ぶっきらぼうな声が聞こえた。

作務衣を纏った、無数の傷跡を持つ男が顔を出す。

だが、俺の視線はその男ではなく、食堂の奥のテーブルに釘付けになった。

巨体。ひしゃげた黒い甲冑。傍らに置かれた巨大な戦斧。


「……なっ」


息が止まった。

魔王軍四天王、ヴァルガス。

かつて最前線で幾度も人間を蹂躙した、魔族の猛将。

なぜ、こんなところに魔王軍の幹部がいる。

仲間たちを襲ったのは、こいつに違いない。


「貴様ァッ! こんなところで何をしている!」


俺は激昂し、鞘から剣を抜き放った。

部下たちも一斉に殺気を放ち、武器を構える。

ヴァルガスは驚いたようにこちらを見たが、なぜか武器を取ろうとはしなかった。

ただ、手に持っていたスプーンを止め、目を丸くしているだけだ。


「死ねぇっ!」


俺は床を蹴り、ヴァルガスの首めがけて渾身の斬撃を放った。

その瞬間。

視界が、ブレた。


「……っ!?」


ガァン、という鈍い衝撃。

気づけば、俺は床に這いつくばっていた。

背中に重い圧力がかかり、息ができない。

作務衣の男が、俺の背中を踏みつけ、首筋に木べらを突きつけていた。

見えないほどの速さだった。

俺の剣は、はるか遠くの床に転がっている。


「店の中で剣を抜くな。ここは戦闘禁止だ」


冷たい、底知れない声だった。

俺は身動き一つとれない。部下たちも、男から放たれる異常な殺気に当てられ、その場に縫い止められたように膝をついていた。

まるで、巨大な竜に睨みつけられたかのような錯覚。

指先一つ動かすことすら、許されない空間だった。


◆ーーーー◆


ため息をつきながら、俺は銀鎧の青年の背中から足をどけた。

せっかくの静かな夜が台無しだ。


「ここは宿屋だ。飯を食って寝る以外の目的があるなら、今すぐ出て行け」


青年は床に突っ伏したまま、ギリッと歯を食いしばっている。


「ふざけるな……! そいつは魔王軍の四天王だぞ! なぜ庇う!」

「客だからだ」


俺は短く答え、厨房へ戻った。

騒ぎのせいで、ヴァルガスが食べていたシチューの皿が床に落ちて割れてしまっていた。


「すまなかったな、ヴァルガス。せっかくの飯が台無しだ」


俺は新しくよそった大盛りの肉煮込みを、巨漢の魔族の前にコトンと置いた。


「宿の中では一切の戦闘禁止だ。お前も、よく手を出さずに我慢したな」


俺がそう言うと、ヴァルガスは湯気を立てる煮込みを見つめ、やがてボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。


「親父……あんた、俺みたいな魔族のために……」

「冷める前に食え」

「ああ、食う! 泣くほど美味い! 俺は決めたぞ、一生この宿の常連になってやる!」


ヴァルガスは号泣しながら、スプーンで豪快に煮込みをかき込み始めた。

よし、これで一件落着だ。

俺は再び、銀鎧の青年——クライドと名乗った騎士に向き直った。


「貴様ほどの腕があれば、もっと多くの敵を殺せるのに! なぜ魔族を庇う!」


クライドが、床から顔を上げて叫んだ。

その言葉に、俺は思わず舌打ちをした。

かつての忌まわしい記憶が蘇る。都合のいい殺戮兵器として扱われた過去。

人類最強だの、剣聖だの。そんな称号に縛られ、権力者たちに利用され続けた徒労感が、胃の奥を重くする。


「……俺の宿で、誰を殺すか殺さないかを決めるのは俺だ」


俺は声を一段低くして言った。


「お前らも、腹が減ってるんだろ。武器を置いて座れ」

「誰が貴様のような……!」

「座れ」


少しだけ威圧を込めて睨むと、クライドはビクッと肩を震わせ、渋々といった様子で剣を拾い、鞘に収めた。

部下たちもそれに倣い、おずおずとテーブルに着く。

俺は人数分の肉煮込みと、ふかふかのパンを並べた。


「食え。残すなよ」


◆ーーーー◆


屈辱だった。

魔族を目の前にして、剣を収めさせられるなど。

あの作務衣の男、ただの宿屋の親父じゃない。

あの身のこなし、圧倒的な武力。まるで伝承に聞く「剣聖」のようだった。

だが、目の前に置かれた煮込みからは、暴力的なまでに食欲をそそる香りが漂っている。

胃袋が限界を訴え、激しく鳴った。

毒が入っているかもしれない。そう思いながらも、俺は震える手でスプーンを握り、一口すする。


「……っ」


美味い。

とろけるような肉の旨味と、複雑な香辛料の風味が口いっぱいに広がる。

冷え切っていた体が、芯から温まっていく。


「……くそっ」


魔族への憎しみ。仲間を救えなかった不甲斐なさ。

様々な感情が入り混じり、俺の目から勝手に涙が溢れ出した。

部下たちも無言で、泣きながら飯をかき込んでいる。

俺は涙を拭うのも忘れ、ただひたすらに皿を空にした。


極上の飯と、信じられないほどふかふかのベッド。

俺たちは泥のように眠り、翌朝を迎えた。

体力は完全に回復している。

だが、俺の心は晴れていない。

行方不明の仲間たちは、まだ見つかっていないのだ。

この不可解な宿屋の親父は、何かを知っているのだろうか。

五十階層の不自然な沈黙。魔族との同席。

謎は深まるばかりだ。

俺は剣帯を締め直し、薄暗い迷宮の奥へと視線を向けた。

仲間の痕跡を見つけるまで、俺の戦いは終わらない。

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