第2話
ヴァルガスはレオンの放つ剣気に圧倒され、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。手出しはしない。俺はただ、眠りたいだけだ」
ヴァルガスは椅子に腰を下ろし、出されたシチューを無言で口に運んだ。
一口、二口と食べるうちに、その強張った表情が次第に崩れていく。
「美味い……なんだこれは。温かい飯が、こんなに……」
かつての猛将が、ボロボロと涙をこぼしながら皿を舐めるように平らげた。
食後、案内した客室のふかふかのベッドに倒れ込むなり、彼は泥のように眠りに落ちた。
翌朝。
三日徹夜していたはずのヴァルガスは、昼過ぎにのっそりと起きてきた。
「親父。もう一泊……いや、一週間頼む。金ならある」
すっかり毒気を抜かれた顔で、彼はテーブルに金貨を積んだ。
「構わないが、掟は守れよ」
俺は金貨を受け取り、軽く手を振って厨房へ戻った。
宿の裏手、かつてフロアボスだった魔竜が暴れ回って更地になった場所。
そこに、見慣れないものが生えていた。
青白く不気味な光を放つ、巨大なキノコだ。
「なんだこいつは。魔力溜まりの影響か?」
試しに端を少し千切って口に含んでみる。
ピリッとした刺激の後に、濃厚な旨味が広がった。
「……いけるな。こいつはいい出汁が出そうだ」
俺は新作料理の材料として、この発光キノコを密かに栽培することに決めた。
◆ーーーー◆
「ハァ、ハァ……嘘だろ、おい」
俺、ガストンは、薄暗い迷宮の通路で崩れ落ちそうになる膝を必死に堪えていた。
背負子に積んだ商品の重さが、今はただ恨めしい。
四階層で商売をしていたはずが、うっかり転移の罠を踏み抜いてしまったのだ。
飛ばされた先は、見たこともない深層。
壁の材質や空気の重さからして、おそらく五十階層。
魔竜が統べる、絶対の死地だ。
だが、奇妙なことに気づく。
「……静かすぎる」
魔物の咆哮も、足音も聞こえない。
迷宮特有の、魔物が湧き出すような気配すら完全に停止している。
不自然な沈黙が、逆に俺の胃の奥を冷たくさせた。
恐る恐る通路を抜けると、視界が開けた。
そこには、広大な更地が広がっていた。
そして、その中央に。
「……は? 宿屋?」
木造の、どう見ても普通の宿屋がポツンと建っていたのだ。
幻覚かと思ったが、煙突からは飯の炊けるいい匂いが漂ってきている。
背に腹は代えられない。俺は意を決して、その扉を押し開けた。
カラン、と素朴なベルが鳴る。
「いらっしゃい。空いてる席へどうぞ」
厨房から顔を出したのは、作務衣を着た無精髭の男だった。
だが、俺の視線は彼ではなく、カウンター席に座る巨漢に釘付けになった。
黒い甲冑。首元には、欠けた魔石のペンダント。
間違いない。魔王軍四天王のヴァルガスだ。
「ヒッ……!」
俺は悲鳴を上げそうになり、両手で口を塞いだ。
なぜこんなところに四天王がいる。しかも、大人しくシチューを食っているだと。
「お前さん、見ない顔だな。迷い込んだのか?」
作務衣の男が、呆然とする俺に水を差し出してきた。
「あ、ああ……行商人のガストンだ。転移の罠で飛ばされちまって」
「そうか。災難だったな。飯にするか?」
男は四天王を気にする素振りも見せず、平然とそう言った。
俺は混乱する頭を必死に回した。
この親父、ただ者じゃない。四天王を前にしてこの落ち着きぶり。
だが、商人としての嗅覚が、恐怖を上回って働き始めていた。
「……あんた、こんな場所で宿をやってるのか?」
「ああ。静かでいい場所だろう」
親父は事もなげに言う。
俺は背負子を下ろし、カウンターに身を乗り出した。
「親父さん。あんた、地上の物資に困ってないか? 塩や香辛料、日用品。俺なら定期的に運んでこれるぜ」
親父の目が、わずかに見開かれた。
「本当か? 実は、調味料のストックが心許なくてな」
親父は奥から、無造作に魔石の詰まった袋を持ってきた。
「これで足りるか?」
中身を見て、俺は息を呑んだ。純度の高い魔石が山のように入っている。
「お前さん、正気か? ここは五十階だぞ。運ぶだけでも命がけだ」
「だからこそ、頼みたい。報酬は弾むぞ」
親父はニヤリと笑った。
危険すぎる。だが、この莫大な商機を逃す手はない。
「……交渉成立だ。お前さんの宿、俺が贔屓にしてやるよ」
俺は図太く笑い返し、商談をまとめた。
◆ーーーー◆
数時間後。
俺は親父に教えてもらった安全なルートを通り、地上への帰路についていた。
背負子の中には、仕入れ代金として受け取った大量の魔石が詰まっている。
「へへっ、こいつは笑いが止まらねえな」
あの親父の正体はわからない。だが、金払いのいい上客であることは間違いない。
四十九階層への階段を上りかけた、その時だった。
カチャ、カチャ、と。
金属の擦れる重い足音が、上の階層から近づいてきた。
俺は慌てて通路の物陰に身を潜める。
現れたのは、十人ほどの重武装の集団だった。
全員が顔を布で隠し、異様な殺気を放っている。
彼らは迷うことなく、五十階へと続く階段を降りていった。
「おいおい……」
俺は冷や汗を拭った。
あんな物騒な連中が、何を目的に深層へ向かっているのか。
あの宿屋の親父か、それとも四天王の首か。
嫌な予感が、背筋を這い上がっていく。
迷宮の奥底に生まれた小さな宿屋に、新たな波乱が迫っていることだけは間違いなかった。




