第1話
迷宮五十階。
常人であれば足を踏み入れることすら叶わない、死と絶望が支配する地下空間の最深部。
そこは今、圧倒的な暴力の痕跡によって無残に削り取られていた。
地響きを立てて崩れ落ちたのは、この階層を統べるフロアボスだった。
鋼鉄よりも硬い鱗を持ち、一息で軍隊を灰にする炎を吐く巨大な魔竜。それが今、首を半ばから切断され、大量の血を撒き散らしながら事切れている。
その巨体の前に立つ男は、息一つ乱していなかった。
「……あっけないもんだな」
レオンはぽつりと呟き、刃に付着した血を軽く振るって落とすと、愛剣を鞘に収めた。
鍛え抜かれた無駄のない体躯。動きやすい簡素な作務衣を纏った彼の腕や首筋には、かつての激戦を物語る無数の傷跡が刻まれている。
人類最強の称号「剣聖」を持つ男。それがレオンだった。
だが、その称号は今の彼にとって、忌まわしい呪いでしかない。
王侯貴族たちの醜い権力闘争。手柄の奪い合い。終わりの見えない魔族との戦争。
彼らはレオンを人類の希望と持ち上げながら、その実、都合のいい殺戮兵器としてしか見ていなかった。
そんなしがらみに縛られ続けるのは、もうたくさんだ。
「これからは、俺の好きに生きさせてもらう」
レオンは周囲を見渡した。
魔竜が暴れ回ったおかげで、鬱蒼と茂っていた水晶の森はなぎ倒され、広大な更地が出来上がっている。
ここなら誰にも邪魔されない。静かなスローライフを送るにはうってつけの場所だ。
疲れた者には誰であれ、極上の飯と安らかな寝床を提供する。そんな宿屋の親父になるのが、レオンの密かな夢だった。
ふと足元を見ると、魔竜の血を吸った地面から、奇妙なものが生え始めているのに気づいた。
青白く明滅する、不気味な発光キノコだ。
迷宮の魔力とボスの血が混ざり合って変異したのだろうか。毒々しい見た目だが、ほのかに香ばしい匂いがする。
「……新作料理の材料に使えそうだな」
レオンは密かにほくそ笑み、そのキノコを丁寧に採取して袋に収めた。
◆ーーーー◆
それから数週間の後。
更地となった五十階層に、立派な木造の宿屋が建っていた。
レオンが一人で迷宮内の巨木を切り倒し、石材を削り出して組み上げたものだ。
一階には広々とした食堂と厨房、二階には清潔でふかふかのベッドを備えた客室がいくつかある。
作務衣姿のレオンは、厨房で大鍋をかき混ぜながら、窓の外の様子を窺った。
静かだ。あまりにも静かすぎる。
迷宮というものは本来、生き物のように自己修復を繰り返す。
フロアボスが倒されれば、数日も経たないうちに新たな魔物がリスポーンし、生態系が再構築されるはずなのだ。
だが、レオンが宿を建てて以来、五十階層には不自然な沈黙が落ちていた。
魔物の気配すら一切ない。壁の崩落も直らないままだ。
「俺の気が漏れすぎてるのかね」
レオンは首を傾げたが、すぐに思考を打ち切った。
原因が何であれ、魔物が寄り付かないなら好都合だ。彼は手元の布巾で真新しいカウンターを磨き上げると、厨房の火加減を確認した。
レオンは満足げに頷き、入り口の扉に「宿屋・迷宮亭」と書かれた看板を掛けた。
そして、営業中の札を下げる。
記念すべき開店初日。
もちろん、客など来るはずがない。
そう思って厨房に戻り、夕食の仕込みを続けようとしたその時だった。
ズン、ズン、と。
重い足音が、静寂に包まれた深層に響き渡った。
レオンは鍋をかき混ぜる手を止め、入り口の方へ視線を向ける。
足音は迷宮の通路を抜け、真っ直ぐにこの宿へ向かってきている。
魔物ではない。二本足で歩く、重武装の何者かだ。
扉が軋み、ゆっくりと開かれた。
入り口を塞ぐようにして現れた巨体を見て、レオンは思わず目を細めた。
全身を黒い甲冑で包んだ、筋骨隆々の大男。
だが、その甲冑はひどくひしゃげ、至る所から赤黒い血が滲み出している。
息は絶え絶えで、今にも倒れそうだ。
魔王軍四天王、ヴァルガス。
かつて最前線で幾度も刃を交えた、魔族の猛将だった。
なぜこんなところに四天王が。
レオンは無意識に腰の剣に手を伸ばしかけた。
だが、ヴァルガスの様子がおかしい。
彼は血走った目でレオンを捉えると、手にした巨大な戦斧を床に放り投げた。
ガラン、と重い金属音が響く。
そして、ヴァルガスはそのまま膝を折り、深々と頭を床に擦り付けたのだ。
「頼む……休ませてくれ……」
絞り出すような、掠れた声だった。
かつて戦場を蹂躙し、人間たちを恐怖のどん底に陥れた猛将の面影は、そこにはない。
ただ、過酷な戦いに疲れ果て、ボロボロになった一人の男がそこにいた。
レオンは剣から手を離し、小さくため息をついた。
「……武器は外に置いてこい。泥を落としたら、カウンターの席に座れ」
◆ーーーー◆
ヴァルガスは言われた通りに斧を外へ放り出し、入り口で泥を落としてから、おずおずとカウンター席に着いた。
巨体が丸まり、ひどく小さく見える。
レオンは手早く準備を整え、湯気を立てる料理をカウンターに並べた。
迷宮で採れた香草を効かせた温かいスープ。
外はカリッと、中はふんわりと焼き上げたパン。
そして、先ほど採取した発光キノコを添えた、厚切り肉のローストだ。
「食え」
短い言葉とともに差し出された料理を、ヴァルガスは信じられないものを見るような目で見つめた。
毒が入っていると疑っているわけではないだろう。ただ、かつての宿敵から食事を振る舞われるという状況が、彼の理解を超えているのだ。
だが、胃袋の要求には抗えなかったらしい。
ヴァルガスは震える手でスプーンを握ると、スープを一口すすった。
その瞬間、彼の目が見開かれた。
そこからは無言だった。
パンを引きちぎり、肉に食らいつき、スープで流し込む。
獣のように貪り食うその姿は、よほど長い間まともな食事をとっていなかったことを物語っていた。
レオンは布巾でカウンターを拭きながら、その様子を静かに観察する。
ふと、ヴァルガスの首元で何かが揺れるのが目に入った。
欠けた魔石のペンダントだ。
以前戦った時には見かけなかった代物だった。妙に古びていて、武骨な彼には似つかわしくない。
何か事情があるのだろうが、レオンから詮索するつもりはなかった。
やがて、皿の上を綺麗に平らげたヴァルガスは、大きく息を吐き出した。
張り詰めていた糸が切れたように、その表情から険しさが抜け落ちる。
「お粗末さん」
レオンが空いた皿を下げようとすると、ヴァルガスが血走った目を向けてきた。
「……なぜ、俺を殺さない」
低く、唸るような声だった。
「俺は魔族だぞ。お前たち人間を、何千と殺してきた。お前とも、何度も殺し合った仲だろうが」
「昔の話だ。今の俺はただの宿屋の親父にすぎない」
レオンは淡々と答えた。
「ここは宿屋だ。客が誰であれ、疲れているなら平等にもてなす。それが俺のやり方だ」
ヴァルガスは信じられないというように顔を歪めた。
「正気か? 俺が夜中に寝首を掻くかもしれないとは思わないのか」
「やれるものならやってみろ。だが、おすすめはしない」
レオンは布巾を置き、ヴァルガスの目を真っ直ぐに見据えた。
その瞬間、レオンの全身から微かな、しかし圧倒的な剣気が漏れ出す。
ヴァルガスは息を呑み、本能的に体を強張らせた。
「一つだけ、この宿の掟を教えておく」
レオンは静かに、だが絶対の意志を込めて告げた。
「この宿の中では、絶対に争ってはならない。ここでは俺がルールだ。破れば——容赦はしない」
沈黙が降りた。
迷宮の深層、外界から完全に隔絶された空間で、かつての宿敵同士がカウンターを挟んで対峙する。
ヴァルガスの瞳の奥には、困惑と、微かな警戒の色が渦巻いていた。
温かな料理の匂いが漂う食堂に、奇妙で不穏な空気が満ち始めていた。




