第10話
厨房の裏手で、俺は木箱に詰められた土の具合を確かめていた。
湿り気は十分だ。暗がりの中で、ぼんやりと青白い光を放つ菌糸が順調に育っている。
「店主、頼まれてた品を持ってきたぜ」
入り口の方から、聞き慣れた野太い声が響いた。
手を洗い、前掛けで拭いながら土間へ出ると、大きな背負子を下ろしているガストンがいた。
無精髭を撫でながら、彼はどっこいしょと床に腰を下ろす。
「相変わらず、ここは迷宮の底とは思えねえくらい空気が澄んでやがる。外の瘴気が嘘みたいだぜ」
ガストンは額の汗を拭い、用意してやった冷たい茶を一気に飲み干した。
彼の背負子には、ずらりと重そうな資材が積まれている。
特殊な耐熱レンガに、複雑な形状をした金属の配管部品。どれもこれも、うちの専属大工からの細かい発注品だ。
「悪いな、いつも重いものを運ばせて」
「なに、あんたが払ってくれる高純度の魔石に比べりゃ、これくらい安い御用さ。それにしても……」
ガストンはぐるりと宿の中を見渡し、呆れたように息を吐いた。
「本当にこんな場所で商売を成り立たせちまうとはな。最初は正気を疑ったぜ」
彼の言うことも無理はない。
ここは死と絶望が支配する地下空間の最深部だ。
だが、俺にとっては好都合だった。
王侯貴族たちの権力闘争や、終わりの見えない戦争。そんなしがらみから逃れ、静かに暮らすための場所が欲しかった。
だから単身でここまで潜り、この階層を統べていた巨大な主を斬り捨てた。
更地になった空間に建材を運び込み、一からこの宿を組み上げたのだ。
疲弊した者がいるなら、誰であれ極上の食事と安らぐ寝床を振る舞う。それが俺の決めた、たった一つの信念だった。
「店を開けた最初の日に来たのが、あの魔王軍の四天王だったってのは、何度聞いても信じられねえよ」
ガストンが思い出し笑いのように肩を揺らす。
「ああ。三日三晩寝てないとかで、血まみれのボロボロな姿で転がり込んできたからな」
俺は当時の光景を思い返し、苦笑を漏らした。
かつて最前線で幾度も刃を交えた、黒甲冑の大男。
そいつが武器を放り出し、休ませてくれと床に額を擦り付けてきたのだ。さすがの俺も面食らった。
「よく中に入れたな。普通なら首を刎ねてるぜ」
「この屋根の下で刃傷沙汰はご法度だ。それさえ守るなら、誰だろうと客として扱う」
俺は茶の急須を傾け、ガストンの空いた湯呑みに注ぎ足した。
「そう言って、湯気の立つ食事とふかふかの布団を用意してやったら、あの巨体で大泣きしてな。今じゃすっかりうちの常連だ」
「ははっ、魔族の猛将を餌付けしちまうとは、あんたらしいや」
ガストンが豪快に笑い声を上げたとき、奥の廊下からドタドタと重い足音が近づいてきた。
「おう店主、荷物は届いたか!」
筋骨隆々で髭もじゃのドワーフ、ドランだ。
彼はガストンの横に積まれた資材を見るなり、目を輝かせて駆け寄った。
「おお、これだこれだ。指定通りの耐熱レンガに、寸分違わぬ配管の曲がり具合。さすがは腕利きの商人だな」
「お前さんの要求が細かすぎるんだよ。職人を探すのに骨が折れたぜ」
ガストンが肩をすくめるが、ドランはすでに資材の検品に夢中だった。
一つ一つのレンガを叩いて音を確かめ、金属管の内側を覗き込んでいる。
「よし、これで基礎は完璧に仕上がる。店主、例のブツは育ってんだろうな?」
「ああ、ちょうどいい具合だ」
俺は厨房の裏手へ戻り、先ほどまで様子を見ていた木箱を抱えてきた。
中には、フロアボスを倒した跡地に自生し始めた、不気味な青白い光を放つキノコが群生している。
本来は新作料理の材料にでもしようかと密かに栽培していたものだが、ドランが別の用途に目をつけたのだ。
「へへっ、いい光り方をしてやがる。こいつの魔力発光を利用すりゃ、湯気の中でも消えねえ極上の灯りになるぜ」
ドランは腰の工具袋から、使い込まれたノミと小さな槌を取り出した。
ここからが彼の真骨頂だ。
魔法で安易に形を変えるような真似はしない。
ドランはキノコの傘を慎重に切り離し、発光する器官だけを傷つけないように削り出していく。
カン、カン、と小気味よい音が土間に響く。
俺とガストンは、その鮮やかな手つきを黙って見守った。
抽出された発光器官は、あらかじめ用意されていたガラスと金属の枠にピタリと収められる。
ヤスリで微細な隙間を削り落とし、金属の留め具を槌で叩いて固定する。
一切の無駄がない、洗練された職人の動きだった。
「よし、一丁上がりだ」
ドランが金属枠の埃を息で吹き飛ばすと、ガラス越しに柔らかな青白い光が周囲を照らし出した。
熱を持たず、水に濡れても消えることのない安全な照明器具の完成だ。
「すげえな……ただの不気味なキノコが、こんな立派な魔道具になっちまうとは」
ガストンが感嘆の声を漏らす。
ドランは得意げに鼻を鳴らし、完成した照明をいくつか抱え上げた。
「さあ、さっそく組み込みに行くぞ。店主も手伝え」
俺たちは宿の裏手、岩肌をくり抜いて作られた広大な空間へと向かった。
そこにはすでに、ガストンが運んできた耐熱レンガが美しく積み上げられ、巨大な湯船の形を成している。
ドランの指示に従い、湯船の周囲に等間隔で照明を設置していく。
最後のひとつをはめ込み、ドランが配管のバルブを回した。
ゴゴゴゴ、と地鳴りのような音が響き、地下深くから引き上げられた熱い湯が、勢いよく湯船へと注ぎ込まれる。
立ち上る白い湯気を、キノコの照明が青白く幻想的に照らし出した。
岩肌の荒々しさと、整然と積まれたレンガの美しさが、光と影の中で見事な調和を見せている。
「なんと……美しい」
背後から、感極まったような声が聞こえた。
振り返ると、磨き上げられた銀の鎧を着たクライドが立っていた。
迷宮探索から戻ってきたばかりなのだろう。彼の目は、完成しつつある露天風呂に釘付けになっている。
「これほどの見事な湯船、王都の高級宿でもお目にかかれませんぞ。この柔らかな光は、いったいどのような魔法で……」
「魔法じゃねえよ。俺の腕と、迷宮の恵みだ」
ドランが腰に手を当て、胸を張って答えた。
自分の仕事が評価され、職人としての腕を存分に振るえるこの環境に、彼は心の底から満足しているようだった。
「あとは湯が満ちるのを待つだけだな」
俺は腕を組み、湯気で霞む水面を見つめた。
過酷な迷宮の底に、また一つ、客を癒やすための極上の空間が生まれようとしている。
ガストンもクライドも、言葉を忘れたようにその光景に見入っていた。
だが、その静かな余韻は、唐突に破られた。
タッ、タッ、タッ。
迷宮のさらに奥深く。
五十階層よりも下、誰も足を踏み入れたことのない暗闇の底から、何かがこちらへ向かってくる音が聞こえた。
規則的な魔物の足音ではない。
つまずき、転びかけながらも、必死に何かから逃げているような、切羽詰まった二本足の響きだ。
俺は目を細め、湯気の向こうの暗闇を睨みつけた。
足音は迷宮の通路を抜け、一直線にこの宿を目指している。
「……客のようだな」
俺の呟きに、クライドが弾かれたように腰の剣へ手を伸ばす。
だが、俺はそれを手で制した。
誰であろうと、疲れているなら平等にもてなす。それがこの宿の掟だ。
足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
迷宮の底から逃げてきた者の正体を見極めるべく、俺はゆっくりと入り口の方へ歩き出した。




