第11話
足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
迷宮の底から逃げてきた者の正体を見極めるべく、俺はゆっくりと入り口の方へ歩き出した。
重厚な木製の扉の向こうで、荒い息遣いが聞こえる。
直後、バンバンと乱暴に板を叩く音が響いた。
「開けて……お願い、開けてください……!」
悲痛な叫び声だった。
俺は迷わず閂を外し、扉を引き開ける。
その瞬間、転がり込むようにして小さな影が床に倒れ込んだ。
「ひっ、あ、ああ……!」
緑色の肌をした、小柄な魔族だった。
ゴブリンに近い風貌だが、着ている粗末な革鎧はボロボロに引き裂かれ、全身が泥と擦り傷に塗れている。
背後を振り返りながら、ガタガタと激しく震えていた。
「……客のようだな」
俺の呟きに、背後に控えていたクライドが剣の柄から手を離した。
ガストンやドランも、突然の珍客に目を丸くしている。
俺はしゃがみ込み、怯える小柄な魔族の肩に手を置いた。
「もう大丈夫だ。追っ手は来ていない」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ。ここは安全だ。立てるか?」
魔族は力なく首を振った。極度の疲労と恐怖で、足腰が完全に抜けてしまっているらしい。
俺は彼の腕を掴み、軽々と抱え上げた。
そのまま食堂へと運び、一番火の気に近い椅子に座らせる。
厨房の奥から、黒ずくめの軽装を纏ったジンが顔を出した。
鋭い目つきで小柄な魔族を観察し、小さく舌打ちをする。
「……ひどい有様だな。待ってろ、今すぐ腹に入れられるものを作る」
ジンはそれだけ言うと、手早く鍋に火を入れ直した。
元裏社会の人間である彼は、こういう手合いの扱いに妙に慣れている。
数分後、湯気を立てる野菜と肉のスープがテーブルに置かれた。
「ほら、食え」
「あ、あの……僕はお金なんて……」
「いいから食え。冷めるだろうが」
ジンのぶっきらぼうな声にビクッと肩を揺らしながらも、魔族はスプーンを手に取った。
立ち上る香ばしい匂いに、彼の喉が大きく鳴る。
恐る恐るスープを口に運んだ瞬間、魔族の丸い目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……おいしい。こんなに温かいもの、食べたの……いつ以来だろう……」
彼は嗚咽を漏らしながら、夢中でスープを胃に流し込んでいく。
火傷しそうな勢いだったが、ジンは止めることなく、ただ無言で水の入ったコップを横に置いた。
器が完全に空になる頃には、魔族の顔に少しだけ血の気が戻っていた。
「落ち着いたか」
俺が声をかけると、彼は慌てて居住まいを正し、深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! 僕はポルクと言います。その、魔王軍の末端で雑用をしていて……」
ポルクと名乗った青年は、びくびくした気弱な口調で身の上を語り始めた。
彼は魔王軍の中でも、特に過激派として知られるリーダー、ザイードの部隊に所属していたらしい。
だが、そこでの扱いは苛烈を極めた。
理不尽な暴力、終わりのない過酷な労働、少しでもミスをすれば命を奪われかねない恐怖。
それに耐えきれず、命からがら部隊から逃げ出してきたのだという。
「ザイード様は……本当に恐ろしい方です。少しでも意に沿わない者がいれば、平気で切り捨てる。僕みたいな弱い魔族は、ただの使い捨ての道具でしかなくて……」
ポルクは自分の腕を抱きしめ、再び震え始めた。
その姿は、かつて権力者たちに都合よく利用され、すり減っていった過去の自分や戦友たちと重なる。
陣営が違えど、戦いの中で消費される者の痛みは同じだ。
「なぜ、この五十階層へ逃げてきた?」
俺の問いに、ポルクは涙目を拭いながら答えた。
「噂を聞いたんです。この迷宮の深層に、どんな者でも休める安全な宿があるって……。最近、魔界の重鎮や強力な魔物たちが、次々とここを訪れて休養しているという話が広まっています」
どうやら、あの巨漢の四天王が言いふらした口コミは、俺が思っている以上に広範に伝わっているらしい。
ポルクはさらに声を潜め、周囲を気にするように続けた。
「それに、魔族だけじゃありません。人間側の現役勇者アリスさんや、Sランクの凄腕冒険者たちも、この宿の存在に気づき始めているそうです。迷宮攻略の最前線に、絶対に争いが起きない中立地帯があるって……」
強者たちが次々と集まり始めている。
それは宿屋としては喜ばしいことかもしれないが、同時に大きな火種を抱え込むことでもある。
「でも、それがザイード様の逆鱗に触れました」
ポルクの顔が、恐怖で青ざめていく。
「ザイード様は激怒しています。『魔族の誇りを忘れた同胞が、人間の宿に入り浸って骨抜きにされている』と。見つけ次第、その宿ごと叩き潰してやると息巻いていました。僕が逃げ出したのも、その討伐部隊に組み込まれそうになったからです……」
そこまで一気に語ると、ポルクはハッと息を呑んだ。
自分がここにいることで、この温かい場所を危険に晒してしまうと気づいたのだろう。
彼は慌てて椅子から立ち上がり、入り口の方へ向かおうとした。
「ご、ごめんなさい! 僕がここにいたら、皆さんにご迷惑が……! すぐに出ていきますから……!」
よろめく足取りで扉へ向かうポルク。
だが、俺は無言でその前に立ち塞がり、彼の細い肩をぐっと押さえた。
「待て。どこへ行くつもりだ」
「で、でも……僕のせいで、ザイード様がここに攻めてきたら……」
「ここは中立地帯だ。誰であろうと、俺の宿で勝手な真似はさせない」
俺はポルクの目を真っ直ぐに見据えた。
「客が誰であれ、疲弊しているなら等しくもてなす。それがこの場所の掟だ。お前はもう、俺の客なんだよ」
ポルクは信じられないものを見るように、俺の顔を見上げた。
その大きな目から、再び涙が溢れ出す。
今度は恐怖や絶望の涙ではない。張り詰めていた糸が切れ、心の底からの安堵が形になったものだった。
「う、うわああああん……!」
ポルクはその場にへたり込み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
過酷な扱いから解放され、ようやく安全な場所を見つけた喜びが、彼の全身から溢れ出ている。
俺は無理に泣き止ませようとはせず、ただ静かに彼が落ち着くのを待った。
不意に、背後からバサリと厚手の布が投げられた。
ポルクの頭からすっぽりと被さったのは、清潔な毛布だった。
「……いつまで泣いてるつもりだ。食い終わったらさっさと寝ろ。冷えるぞ」
振り返ると、ジンが空になったスープの器を片付けながら、そっぽを向いていた。
冷徹な暗殺者を気取っているが、その実、誰よりも面倒見がいい。
不器用な慰めの言葉に、ポルクは毛布をぎゅっと握りしめ、何度も何度も頷いた。
「はい……っ、ありがとうございます、ジンさん、レオンさん……!」
◆ーーーー◆
ポルクを二階の空き部屋に案内し、ふかふかのベッドに寝かせた。
彼は泥のように眠りに落ち、今は穏やかな寝息を立てている。
俺は一階の食堂に戻り、カウンター席に腰を下ろした。
「厄介なことになりそうだな」
布巾でテーブルを拭きながら、ジンがぽつりとこぼす。
彼の言う通りだ。
ポルクを匿ったことで、魔王軍過激派の標的が明確にこの宿へ向く可能性が高まった。
ザイードという男がどれほどの戦力を持っているかは分からないが、決して侮れる相手ではないだろう。
「ああ。だが、やることは変わらない」
俺は腕を組み、静まり返った迷宮の暗闇を見つめた。
権力闘争や終わりの見えない争いに嫌気が差し、最前線から退いた。
誰にも邪魔されない場所を求めて、この五十階層に宿を建てた。
その結果、傷ついた者たちが種族を問わず集まってくるようになった。
彼らの安眠と憩いの場を、誰かの身勝手な怒りや暴力で荒らさせるつもりはない。
たとえ相手が魔王軍の過激派であろうと、俺の宿の掟を破る者には容赦しない。
「明日は少し、仕込みの量を増やしておくか」
「……そうだな。あのチビ、起きたらまた腹を空かせて泣き喚きそうだ」
ジンが鼻で笑い、厨房の奥へと消えていく。
俺も立ち上がり、戸締まりを確認するために扉へ向かった。
外は相変わらず、不気味なほど静かだ。
だが、この静寂の向こう側で、確実に何かが動き始めている。
過激派の怒りは、この宿にどのような影響を及ぼすのか。
新たな波乱の予感を感じながらも、俺の胸の中には、ポルクという一人の客を守り抜いた確かな手応えが残っていた。
明日の朝、彼にどんなまかない飯を食わせてやるか。
そんなことを考えながら、俺は宿の明かりをゆっくりと落とした。




