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第12話

翌朝。厨房に立った俺は、大鍋で鶏ガラを煮込んでいた。


逃亡の末に転がり込んできたポルクの胃袋は、かなり弱っているはずだ。消化に良く、それでいてしっかり栄養が摂れる雑炊を作ってやるのがいいだろう。


「親父、あいつまだ寝てるぜ。相当疲れが溜まってたんだろうな」


皿洗いのジンが、欠伸を噛み殺しながら厨房に入ってきた。


「無理もない。ザイードの部隊から逃げ続けるのは骨が折れるだろうからな。起きるまでに飯の準備を整えておく」


刻んだ野菜を鍋に放り込もうとしたとき、裏口の扉が勢いよく開いた。


「おう店主! できたぜ、極上の湯浴み場がよ!」


木屑と泥にまみれたドランが、白い歯を見せて笑っていた。


徹夜で作業をしていたらしい。ドワーフの体力と集中力には恐れ入る。


「ご苦労だったな、ドラン。後でとびきりの酒を開けてやる」


「へへっ、そいつは楽しみだ。だがその前に、誰か試しに入ってみねえか? 湯加減の調整も完璧なはずだが、実際に浸かってみねえとわからんからな。俺が作った魔力循環式の濾過装置の働きも見ておきてえ」


俺は食堂の隅へ視線を向けた。


そこには、朝早くからノートを広げ、何やら複雑な数式を書き込んでいる小柄な姿があった。迷宮の査察官であるノアだ。


「おい、あんた。一番風呂をもらってこい」


声をかけると、ノアは羽ペンを止めて無表情のままこちらを振り向いた。


「私が、ですか? 私はあくまでこの異常空間の観察と記録を行うために滞在しているだけであり、娯楽を享受する義務は……」


「これも調査の一環だろ。迷宮の素材で作った風呂が人体にどう影響するか、記録しておかなくていいのか?」


俺がそう言うと、ノアはピクリと眉を動かした。


「……なるほど。未知の施設がもたらす物理的・精神的影響のデータ収集は、査察官として不可欠な業務と言えます。決して個人的な興味ではありませんが、検証のために赴くことにしましょう」


理屈をこね回しながらも、その足取りはどこか弾んでいた。


◆ーーーー◆


脱衣所でローブを脱ぎ、私は岩組みの浴槽へと足を踏み入れた。


立ち込める湯気の中、微かな硫黄の香りが鼻をくすぐる。ドワーフの職人が手がけただけあって、岩の配置や湯の注ぎ口の造形には無駄がない。


「まずは温度と成分の分析からですね。表皮への浸透圧と、魔力伝導率の推移を……」


独り言を呟きながら、ゆっくりと肩まで湯に沈む。


刹那——いや、この表現は不適切だ。正確には、湯に触れた皮膚から中枢神経へと熱が伝達されたコンマ数秒後。


私の脳内で構築されていた分析プロセスは、跡形もなく消し飛んだ。


「ふぁぁ……っ」


口から漏れたのは、論理的思考とは無縁の、ただの弛緩した吐息だった。


全身の筋肉が解け、骨の芯まで温もりが染み渡っていく。


「これは……想定外の物理的弛緩作用です。交感神経の働きが強制的に抑制され、副交感神経が優位に……いや、そんな理屈はどうでもいいですね……極楽です……」


私は岩肌に頭を預け、目を閉じた。


その時、湯を通じて微弱な魔力の波動を感じ取った。


迷宮五十階層。本来なら凶悪な魔物が跋扈し、破壊されても即座に自己修復が行われるはずの空間。それが現在、完全に機能を停止している。


私はこれまで、店主の放つ異常な威圧感がシステムにエラーを引き起こしているのだと推測していた。


だが、違った。


湯に溶け込んだ迷宮の魔力は、ひどく穏やかだった。


迷宮のコアは、エラーを起こしているのではない。この場所を「癒やしの空間」として明確に認識し、あえて自己修復を止めて保護しているのだ。


「迷宮自身が、この宿を認めている……」


湯気の中で、私は一つの確信を得た。


◆ーーーー◆


厨房で雑炊の仕上げをしていると、ノアが戻ってきた。


いつもは青白い顔をしている彼女の頬が、ほんのりと桜色に染まっている。


「どうだった、風呂は」


「……結論から言います。この宿は、迷宮の生態系を乱すイレギュラーではありません」


ノアは真剣な眼差しで俺を見上げた。


「迷宮のコアは、この場所を特別な保護区画として認識しています。よって査察官である私も、この宿を迷宮が認めた『特区』として正式に扱うことに決定しました」


「特区、ね。まあ、お墨付きがもらえるなら悪くない」


俺が肩をすくめた直後だった。


宿の正面扉が、乱暴に蹴り開けられた。


「見つけたぞ! ザイード様の命令だ、裏切り者のポルクを引き渡せ!」


踏み込んできたのは、黒い革鎧を着込んだ三人の魔族だった。手には禍々しい曲刀が握られている。


だが、波乱はそれだけでは終わらなかった。


魔族たちが踏み込んだ直後、彼らの背後から別の集団が姿を現したのだ。


「魔族の気配を追ってきたら、こんな所に宿屋だと……?」


白銀の甲冑に身を包んだ小柄な少女。その背後には、歴戦の猛者と思しき重武装の人間たちが控えている。


聖剣を腰に帯びたその姿は、噂に聞く勇者アリスのパーティだった。


「なぜ魔族がこんな所にいる! まさか、ここが新たな拠点か!」


「人間だと!? ええい、目障りだ。まとめて血祭りにあげてやる!」


勇者と魔族。


本来なら最前線で殺し合うはずの両者が、俺の宿の入り口で鉢合わせしてしまった。


一瞬にして空気が張り詰め、互いの殺気がぶつかり合う。剣が鞘から抜かれる鋭い金属音が響いた。


ジンが舌打ちをし、カウンターの陰に身を隠す。二階で寝ているポルクが目を覚ませば、パニックになるのは目に見えている。


俺はコンロの火を止め、お玉を置いた。


ゆっくりと厨房から歩み出る。


「おい」


低く、地を這うような声を出した。


それと同時に、体内に抑え込んでいた気を一気に解放する。


かつて最前線で無数の命を刈り取ってきた、血の匂いが染み付いた重圧。それを、入り口で睨み合う両者へ向けて叩きつけた。


「ひっ……!?」


「な、なんだこのプレッシャーは……!」


魔族の男たちが顔を引き攣らせ、後ずさる。


勇者アリスもまた、聖剣の柄を握る手を震わせ、目を見開いていた。


「この屋根の下で刃物を振り回す奴は、俺が相手になる。例外はない」


俺は彼らの間合いへと静かに踏み込んだ。


「飯を食って休む気がないなら、今すぐ出て行け。ここで暴れるなら、即座に叩き斬る」


圧倒的な力の差を前に、魔族も勇者も完全に硬直していた。


そこに、ノアが淡々とした声で言葉を重ねる。


「ここは迷宮が定めた特区です。争いを起こせば、迷宮そのものも敵に回すことになりますよ」


その言葉が決定打となった。


魔族たちは舌打ちをしながら曲刀を収め、勇者アリスも警戒を解ききれないまま、渋々といった様子で聖剣から手を離した。


「……わかった。手出しはしない」


アリスが悔しげに呟く。


俺は威圧を解き、いつもの親父の顔に戻った。


「よろしい。空いている席に座れ。朝飯の雑炊ならすぐに出せる」


彼らがぎこちない足取りでテーブルへ向かうのを見届けながら、俺は小さく息を吐いた。


これで名実ともに、ここは不可侵の領域となった。


だが、ノアが俺の横に並び、周囲に聞こえないほどの小声で囁いた。


「……ただし、迷宮の保護が及ぶのは、あくまでこの空間の維持だけです」


彼女の横顔は、先ほどまでの弛緩した表情とは打って変わり、冷徹な査察官のものだった。


「外から大軍勢が押し寄せてきた場合、迷宮はあなたたちを守ってはくれません。ザイードという幹部や、人間の強硬派……彼らが本気でここを潰しに来た時、どう立ち向かうつもりですか?」


静寂を取り戻したはずの宿に、微かな緊張感が波紋のように広がっていく。


俺は腕を組み、閉ざされた扉の向こう側を静かに見つめた。


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