第13話
「外から大軍勢が押し寄せてきた場合、迷宮はあなたたちを守ってはくれません。ザイードという幹部や、人間の強硬派……彼らが本気でここを潰しに来た時、どう立ち向かうつもりですか?」
静寂を取り戻したはずの宿に、微かな緊張感が波紋のように広がっていく。
ノアの冷徹な声は、この宿が抱える根本的な危うさを的確に突いていた。
迷宮の自己修復機能が停止し、ここが「特区」として認められたとしても、それはあくまで迷宮というシステムからの保護に過ぎない。
外の世界から悪意を持って踏み込んでくる者たちを、自動で排除してくれるわけではないのだ。
俺は腕を組み、閉ざされた扉の向こう側を静かに見つめた。
かつて俺を利用し尽くした王侯貴族たち。手柄の奪い合いに終始し、終わりの見えない戦争を長引かせるだけの連中。
そして、同胞が骨抜きにされることを許さない魔王軍の過激派。
どちらも、自分たちの都合で世界を動かそうとする者たちだ。
「……立ち向かう気なんてねえよ」
俺は短く答えた。
ノアが怪訝そうに眉をひそめる。
「ここはただの宿屋だ。客が飯を食って、風呂に入って、寝る。それを邪魔する奴がいるなら、叩き出すだけだ。相手が軍勢だろうが魔王だろうがな」
俺の言葉に、ノアは目を丸くした後、小さく息をついた。
「相変わらず、無茶苦茶な理屈ですね。ですが……それがあなたの強さなのでしょう」
「親父の特権だ。さあ、雑炊が冷める。食ったら、ドランが作った露天風呂を開放するぞ」
俺は威圧感を完全に消し去り、厨房へと踵を返した。
ジンがすでに火の加減を調整し、大鍋の様子を見ている。暗殺者だった男が、今や立派な厨房の相棒だ。
客席では、勇者アリスと魔族たちが、互いに視線を逸らしながらも同じテーブルで匙を動かしている。
鶏の出汁がしっかりと効いた熱々の雑炊を口に運ぶたび、彼らの強張った表情が少しずつ解れていくのがわかった。
五十階層の不自然な沈黙の中、この宿だけが温かな生活音に満ちていた。
朝食の片付けが一段落した頃、俺は男湯の暖簾をくぐった。
脱衣所を抜け、外気へと足を踏み出す。
迷宮深層の冷たい空気が肌を刺すが、岩組みの湯船からはもくもくと白い湯気が立ち上っていた。
ドランが組み上げた魔力循環式の露天風呂だ。耐熱レンガと配管が見事に機能し、常に適温が保たれている。
湯船には、すでに先客がいた。
銀髪の騎士クライドと、巨体の魔族ヴァルガス。
そして、二人の間で頭に手ぬぐいを乗せているジンだ。
広い湯船の端と端に陣取り、見事なまでに等間隔の三角形を描いている。
空気は、湯気とは裏腹にひどく張り詰めていた。
「貴様、魔王軍の幹部がなぜこんな無防備に湯に浸かっている」
クライドが、湯面から鋭い視線を飛ばす。
ヴァルガスは目を閉じたまま、太い腕を湯船の縁に乗せた。
「ここでは戦わん。あの親父の飯と湯を味わうためにな。それに、貴様のような小僧の剣など、素手でも止められる」
「なんだと……!」
クライドが立ち上がろうと湯を波立たせる。
その時、ジンが薄く目を開けた。
「うるさいぞ。湯が揺れる。静かに入れないなら上がれ」
冷徹な声に、クライドは口ごもり、渋々といった様子で再び肩まで湯に沈んだ。
俺は苦笑しながら、掛け湯をしてから湯船に足を入れる。
「お前ら、ちゃんと温まってるか」
「親父……」
俺が間に入ることで、三角形の均衡が崩れ、少しだけ空気が緩んだ。
熱すぎず温すぎない、絶妙な湯加減だ。
湯の温かさが、強張った筋肉をゆっくりと解していく。
しばらく沈黙が続いた後、ヴァルガスがぽつりとこぼした。
「……悪くない湯だ。骨の髄まで染み渡る。戦場でこびりついた血の匂いも、少しは落ちる気がするな」
かつて最前線で幾度も刃を交えた猛将が、今はただの疲れ果てた男として湯に浸かっている。
クライドも、天井のない岩壁を見上げながら小さく息を吐いた。
「ああ。王都の高級浴場にも劣らない。いや、それ以上かもしれないな。魔力で湯を循環させる仕組みなど、王宮の魔導具師でも思いつくまい」
裸になれば、ただの男たちだ。
鎧も、称号も、陣営も関係ない。
ジンが湯面を指先でなぞりながら、静かに口を開いた。
「俺は、ずっと冷たい飯ばかり食ってきた。任務の合間に、味のしない干し肉をかじるだけの生活だ。誰かを殺すために息を潜め、誰かに殺されないために眠りを浅くする。だが、ここの飯は温かい。湯もな」
普段は口数の少ないジンの言葉に、ヴァルガスが低く笑う。
「我ら魔族も同じだ。血と灰の匂いしかしない戦場に、安らぎなどない。勝っても負けても、残るのは虚しさだけだ。俺は、ただ静かに眠りたかっただけなのかもしれん」
クライドは黙って聞いていた。
正義感が強く、視野が狭いところのある若い騎士だ。魔族は絶対の悪であり、討ち果たすべき敵だと教え込まれてきたはずだ。
だが、彼は自分の両手を見つめ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「俺たち騎士も、常に気を張っている。誰かの期待に応えるためにな。弱音を吐くことは許されず、常に完璧な剣を振るうことを求められる。……だが、ここでは不思議と、その重圧を感じない」
クライドは俺を見た。その瞳には、迷いと、確かな決意が混じっていた。
「この宿は……守る価値がある。俺はそう思い始めている」
熱血漢の騎士が、魔族と同席する湯船でそんなことを言うとはな。
俺は湯をすくい、自分の肩にかけた。
「大げさなことを言うな。ここはただの宿だ。お前らは客として、しっかり休んでいけばいい」
ふと、ヴァルガスの太い首に下がっているものに目が留まった。
革紐の先に、いびつに欠けた赤い魔石が結ばれている。
以前から気になってはいたが、湯船の中で見ると、その断面が不自然に滑らかであることがわかった。
「ヴァルガス。そのペンダントはなんだ? 随分と年季が入っているようだが」
俺の問いに、ヴァルガスは大きな手で魔石を包み込んだ。
彼の表情から、戦士の獰猛さが消え、どこか懐かしむような穏やかさが浮かぶ。
「これか。……ただの装飾品ではない。かつて、人間と魔族が結ぼうとした平和と盟約の証だ」
クライドが驚いたように身を乗り出す。
「盟約の証だと? そんな話、歴史書には……」
「人間側が破棄したからな。権力者どもは、和平よりも戦争による利益を選んだ。そして、この石も砕かれた。俺が持っているのは、その欠片に過ぎん」
ヴァルガスは自嘲気味に笑い、魔石を湯面から持ち上げた。
赤い光が、湯気に反射して微かに揺れる。
「だが、捨てられなかった。いつか、この欠片が再び一つになる日が来るのではないかと、愚かな夢を見てな。四天王の分際で、笑い話だろう」
俺は静かに頷いた。
権力者たちの都合で引き裂かれた平和。その裏で、どれほどの血が流れたか。
俺自身も、その渦中で剣を振るい続けてきた。
「そうか。……いい夢じゃないか」
俺の言葉に、ヴァルガスは少し驚いたような顔をした。
そして、深く息を吸い込み、再び目を閉じて湯に沈んだ。
クライドも何も言わず、ただ湯の音だけが響いていた。
◆ーーーー◆
湯上がり。
休憩スペースの長椅子に、男たちが腰を下ろしている。
火照った体に、迷宮のひんやりとした空気が心地よい。
俺は厨房から、よく冷えた果実水を持ってきた。
五十階に自生する不気味な発光キノコの近くで栽培し始めた、新種の果実を絞ったものだ。毒見は済んでいる。
「ほら、湯上がりにはこれだ」
木製のジョッキを配る。
クライド、ジン、ヴァルガス。
種族も立場も違う男たちが、ジョッキを受け取った。
「……いただく」
クライドが言い、ヴァルガスが無言でジョッキを掲げる。
ジンもそれに倣った。
コツン、と鈍い音が響いた。
冷たい喉越しに、皆が深く息をつく。
「美味いな。生き返る気分だ」
クライドが口元を拭いながら笑う。
ヴァルガスも満足げに喉を鳴らした。
穏やかな時間が流れている。
だが、外にはまだ、この安らぎを脅かす者たちがいる。
ザイードや、人間の強硬派。
彼らがいつ押し寄せてくるかはわからない。
それでも、今この瞬間に芽生えた奇妙な連帯感は、確かにここにある。
俺は空になったジョッキを拭きながら、彼らの横顔を見つめた。
この不器用な連帯感が、やがて来る危機にどう立ち向かう力になるのか。
今はまだわからない。
だが、俺の宿で休んだ客が、そう簡単にやられるとは思えなかった。




