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第29話

大鍋の底を木べらで撫でると、煮崩れた根菜が心地よい重みとなって手元に伝わってきた。


宿の再建が一段落した厨房は、いつもの静けさを取り戻しつつあった。削りたての柱から漂う針葉樹の匂いと、時間をかけて引いた出汁の香りが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。寸胴の蓋を少しずらし、蒸気を逃がしながら火加減を弱めた。


「店主、外の警備結界に反応がありました。……複数、いや、かなりの規模です」


白いローブを纏ったノアが、パタパタと足音を立てて厨房の入り口に顔を出した。その表情はいつものように平坦だが、手にした羊皮紙を指先でトントンと叩くリズムがわずかに速い。


「客か?」


「いいえ。武装した人間側の騎士団の残党と、魔王軍の主戦派部隊が混成で五十階へ侵入しています。どうやら、この宿を前線拠点として接収、あるいは破壊する目的で結託したようです」


俺は木べらを置き、ふうと息を吐き出した。人間側の強硬派と魔族の過激派が手を組むとは、よほどこの場所が目障りだったらしい。せっかく修繕が終わったばかりの玄関をまた壊されてはたまらない。


腰の布巾を外して勝手口から表へ出ようとした、その時だった。


「おい、店主! ここは俺たちに任せろ!」


ラウンジから飛び出してきたのは、銀の甲冑をガチャリと鳴らしたクライドだった。その後ろから、優雅に扇子を揺らしながらセレナが続く。


「そうですわ。わたくし、今まさに焼き上がったばかりのスコーンをいただこうとしていたところですのよ? そんな至福の時間を邪魔する野蛮人など、灰燼に帰して差し上げますわ!」


「いや、お前たち、客に戦わせるわけには――」


「いいから引っ込んでろっての!」


止める間もなく、扉が勢いよく蹴破られ――かける寸前で、クライドが内側から扉を押し開けた。


通路には、ぎらつく刃を構えた人間と魔族の過激派連合がずらりと並んでいた。先頭に立つ筋骨隆々の指揮官が、宿の中を見下ろすように嘲笑を浮かべる。


「フン、たかが迷宮の片隅にできた掘っ立て小屋が。ここを我らの補給拠点とす――」


「うるさい! ここは俺たちの安眠の地だ!」


怒声を上げたのはクライドだった。磨き抜かれた長剣を一閃させ、指揮官の足元の石畳を綺麗に両断する。


「ひっ、騎士団の若造が何故ここに――」


「わたくしのティータイムを侮辱した罪、万死に値しますわよ!」


セレナが指先を鳴らすと、深紅の爆炎が通路の天井スレスレを通り抜け、侵入者たちの背後の退路を塞いだ。さらに奥の客室からは、仮眠を邪魔されて目を血走らせた魔族の戦士たちや歴戦の冒険者たちが、武器を手にぞろぞろと這い出してきた。


「誰だあ……俺の昼寝を邪魔した奴は……」

「ちょうどいい、食後の運動だ」


「ひ、怯むな! 数はこちらが上だぞ!」


指揮官が叫ぶが、勝負は一瞬だった。安らぎの場を奪われまいと団結した常連客たちの猛攻は、もはや戦争というよりは一方的なお仕置きだった。クライドの鋭い連撃が敵の武器を弾き飛ばし、セレナの広範囲魔法が隊列を崩し、魔族の戦士たちが怪力で侵入者をつまみ出しては通路の壁へ叩きつける。


俺が木刀を手に取る暇すらなく、ほんの数分で通路には過激派たちの呻き声だけが転がっていた。


「ふん、手応えのない連中ですわね」


セレナがドレスの裾を払って息を整える。クライドも剣の切っ先を下げ、満足そうに頷いた。


「よし、これで邪魔者は片付いたな。店主、飯の続きを頼む!」


「……お前ら、宿の前で大暴れするなっていつも言ってるだろうが」


呆れ半分で頭を掻きながらも、俺は転がっている連中を縄で縛り上げ、通路の隅へ片付けさせた。



侵攻劇の騒ぎが完全に収まったのは、それから数日後のことだった。


事件の報告を受けた人間側の首脳部と、魔王軍の幹部たちが、正式な使節団を率いて五十階へと降りてきたのだ。自国の過激派が勝手な暴挙に及んだことへの謝罪と、この特異な宿の実態を調査するためだった。


最初は張り詰めた空気を漂わせていた高官たちだったが、玄関をくぐり、湯気を立てる大浴場に浸かり、炊きたての白米と旬の魔獣肉を使った煮込み料理を口にした瞬間、全員の顔から毒気が綺麗に抜け落ちた。


「なんだこの湯は……長年の激務で固まった肩が嘘のように軽くなる……」

「この肉の柔らかさはどういうことだ……。我が城の宮廷料理人でもここまでの味は出せんぞ……」


立場も種族も忘れ、肩を並べて湯上がりの茶をすする重鎮たちの姿を見て、俺は厨房でひとり苦笑した。誰だって、本当に美味い飯と温かい寝床の前ではただの腹を空かせた客になる。


そうして夜が更けた頃、ラウンジには数名の代表者だけが集まっていた。


丸テーブルを囲んでいるのは、人間側を代表するクライド、魔王軍側を代表するセレナ、そしてかつて俺と刃を交え、今や最古参の常連となった巨漢の魔族ヴァルガスだ。


テーブルの中央には、ノアが広げた一枚の白い紙が置かれていた。


「迷宮管理者の権限に基づき、提案します」


ノアが眼鏡の位置を指先で直しながら、淡々とした事務的な口調で切り出した。


「この宿を起点とする『迷宮五十階中立特区協定』――事実上の、人間と魔族の完全不可侵条約の草案です。各国のトップおよび魔王陛下の内諾はすでに得ています。あとは、この場で皆様の合意を取り交わすのみです」


「不可侵条約、か」


クライドが腕を組み、神妙な顔つきで書類を見つめた。


「俺は賛成だ。最初は魔族と同じ屋根の下で過ごすなど正気の沙汰ではないと思っていた。だが、ここで共に飯を食い、背中を預けて戦った今ならわかる。無駄な血を流す必要など、最初からどこにもなかったんだ」


「わたくしも異論はありませんわ」


セレナがカップに注がれた紅茶を優雅に口に運び、ふわりと微笑んだ。


「こんな極上のスイーツと安らぎが得られる場所を、くだらない小競り合いで失うなんて御免ですからね。魔王軍としても、この場所の平和は全力で保証いたしますわ」


二人の言葉を聞きながら、黙って座っていたヴァルガスが、ごつごつとした大きな手を首元へ伸ばした。


彼が引き出したのは、革紐に通された古びたペンダントだった。中央にはめ込まれているのは、端が小さく欠けた紫色の魔石だ。


「それは……」


クライドが目を留める。ヴァルガスはそれを静かに外し、テーブルの中央、草案の横へと置いた。


「昔、人間と魔族の間で和平を結ぼうとした先人がいた。だが、その盟約は疑心暗鬼によって破られ、この石もその戦火の中で砕けた。俺はずっと、これを奪われた誇りの欠片として持ち歩いていた」


ヴァルガスの低い声が、静かなラウンジに染み渡っていく。


「だが、この宿に来て気づいた。誇りとは、奪い返すために振るう刃の中にあるのではない。誰かと共に湯に浸かり、同じ釜の飯を分け合える平穏の中にこそあるのだとな」


ヴァルガスが大きな掌でペンダントを押し出すと、欠けた魔石が淡く、温かな光を帯び始めた。まるで、長い年月を経てようやく本来の役目を見出したかのように、優しい輝きがテーブルの上を照らし出す。


「この宿を、俺たちの新たな誓いの場としよう。……剣ではなく、ここで分かち合った温もりにかけて」


ヴァルガスの言葉に、クライドが力強く頷き、セレナもまた柔らかな笑みを返した。ノアが手元の羽ペンを走らせ、書類の末尾に承認の印を刻む。


大げさな儀仗兵も、鳴り響くファンファーレもない。けれどそこには、数百年続いた争いの歴史が、小さな宿の片隅で静かに解けていく確かな瞬間があった。


俺はカウンターの内側から、布巾でグラスを拭きながらその様子を眺めていた。


かつて人類最強の剣聖などと呼ばれ、終わりの見えない戦争の最前線に立たされていた頃の自分が思い出される。あの頃の俺は、いくら敵を斬り倒しても世界が変わらないことに絶望し、ただ静かに眠れる場所を求めてここへ逃げてきたはずだった。


まさか、自分が建てた宿がこんな結末を手繰り寄せることになるとは、夢にも思っていなかった。


「……やれやれ、大層なことになっちまったな」


小さく呟いて息をつく。


だが、胸の奥に残るのは重苦しい責任感ではなく、肩の荷が完全に下りたような、どこまでも穏やかな軽さだった。世界を救うために剣を振るう必要はもうない。俺の役目は、この場所を訪れる腹を空かせた連中に、温かい飯と頑丈な寝床を用意し続けることだけだ。


「店主! 条約の締結祝いだ、何か美味いものを出してくれ!」


クライドがカウンター越しに屈託のない笑顔を向けてくる。


「わたくしは甘いものがよろしいですわ! とびきり贅沢なやつを!」


「おいおい、夜食にそんな重いもん食う気かよ」


俺は苦笑しながら腕まくりをし、厨房の奥から取り置きの深皿を取り出した。


大鍋の蓋を開けると、じっくりと煮込まれた根菜と柔らかな肉の匂いが、湯気と共にふわりと立ち上る。皿によそい、刻んだ薬味を散らしてカウンターへと運んだ。


「ほらよ。今夜のまかないだ。冷めないうちに食え」


「うおお、美味そうだ!」

「いただきますわ!」


木のスプーンを手に取り、嬉しそうに頬張る彼らの姿を、ランタンの灯りが優しく照らしている。


窓の外を見上げれば、迷宮の天井を覆う岩肌が、いつもと変わらぬ静寂を湛えて広がっていた。だが、その深く冷たい闇の底で、この小さな灯火は決して消えることなく、これからも静かに灯り続けるのだろう。


俺は木べらを洗い桶に沈め、夜食を貪る客たちの満足げな寝顔のような穏やかな表情を眺めながら、明日の朝食の仕込みに思いを巡らせた。

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