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第28話

迷宮の天井を満たす淡い燐光が白み始め、地下深層に朝が訪れた。


昨夜の喧騒が嘘のように静まり返った広間で、俺はまず乾いた布巾を手に取った。ひび割れた丸テーブルを拭き、床に転がっていた空のスープ椀を片付ける。手荒な客たちに踏み荒らされたとはいえ、土台まで砕かれたわけじゃない。柱の一本一本、床板の一枚に至るまで、まだ十分に生きている。


「店主さん、おはようございます! 僕、裏庭の掃き掃除から始めちゃいますね!」


小柄な体をせわしなく動かしながら、ポルクが特大の竹箒を抱えて厨房の勝手口から駆け込んできた。緑色の額には早くも汗が滲んでいる。昨日までの怯えた脱走兵の面影はどこにもない。いまやこの宿の立派な清掃員として、胸を張って動き回っている。


「おう、頼む。割れたガラス片が散らばってるから、手袋を二重にしとけよ」


「はーい! 任せてください、ピカピカにしてみせますから!」


ポルクは得意げに鼻を鳴らすと、手際よく瓦礫をまとめ始めた。チリトリに小気味よい音を立てて破片が収まっていく。褒められるとすぐに調子に乗る癖はあるが、掃除に対する几帳面さと手際の良さは本物だ。


そこへ、重い足音と共に髭面の巨漢がずかずかと大股で入ってきた。


「おい店主! 朝飯の干し肉スープ、ごちそうさんだったな! 胃袋に火がついたところで、いっちょ派手に直してやるとするか!」


腰に下げた工具袋をじゃらりと鳴らし、ドランが太い腕を組んで天井の梁を見上げた。職人の鋭い眼光が、昨夜の衝撃で歪んだ木組みの継ぎ目を一つずつ検分していく。


「どうだドラン。大掛かりな建て替えになりそうか?」


「へっ、この程度で泣きを入れるようなヤワな建て付けはしてねえよ。俺の腕を舐めんじゃねえ。だがよ、歪んだ通し柱を引っ張り起こすにゃ、ちったあ馬力が要るな」


ドランは広間の長椅子で寝転がっていた大柄な魔族の戦士と、毛布を畳んでいた騎士のクライドを無遠慮に指差した。


「おい、そこの筋肉自慢ども! 美味い飯を食ってぐっすり眠ったんだ、しっかり働いてもらうぜ! あの太い丸太を担いで、指示通りに持ち上げろ!」


「な、我らは一軍を率いる将傑だぞ……大工の手元など……」


「四の五の言うな! 飯代と宿代の分は体で払えってんだ! ほら、息を合わせろ、せーのっ!」


ドランの怒声に押され、昨夜まで睨み合っていたはずの人間と魔族が、苦笑混じりに同じ丸太へと肩を入れる。二人が掛け声を合わせて力を込めると、軋んでいた梁がぎしりと音を立てて元の位置へと戻っていった。


「よし、そのままキープだ! クサビを打ち込むぞ!」


ドランの金槌が小気味よい金属音を響かせる。職人気質の怒声と常連たちの笑い声が混ざり合い、壊れかけた宿屋は活気に満ちた作業場へと様変わりしていった。



広間の修繕が順調に進む中、エントランスの吹き抜けに白いローブをまとった小柄な影が音もなく佇んでいた。


ノアだ。彼女は宙に浮かぶ淡い光の幾何学模様を指先でなぞりながら、迷宮の空間構造を淡々と解析していた。


「……管理者権限の同期を完了。損傷した特区境界線の再定義を開始します」


彼女の無機質な声と共に、宿を取り囲む空気の密度がわずかに変わった。昨夜の侵攻によって綻びが生じていた結界が、透明な膜を張り直すように修復されていく。


「ノア、迷宮の調子はどうだ。無理に抑え込んでるわけじゃないだろうな」


俺が声をかけると、ノアは感情の読めない瞳をこちらに向け、小さく首を横に振った。


「問題ありません、店主。むしろ興味深い現象が起きています。迷宮の中枢核は、この宿屋を排除すべき異物ではなく、階層全体の魔力循環を安定させる『心臓部』として認識を更新しました」


「心臓部だと?」


「はい。通常、迷宮の深層は破壊と再生を繰り返す暴力的なエネルギーで満ちています。しかし、この敷地内に満ちる休息と平穏の気配が、荒れ狂う迷宮の脈動を鎮静化させているのです。迷宮そのものが、この場所が存続することを望んでいる……極めて非論理的ですが、計測値はその結論を示しています」


ノアは淡々と説明しながらも、どこか満足げに指先を動かした。彼女が編み直す防壁は以前のものよりも遥かに強固で、そして外からの干渉を優しく受け流す柔軟さを帯びている。


「これで、外部からの不条理な暴力がこの空間を脅かす確率は極限まで低下しました。ここはもはや、ただの宿屋ではありません。世界の狭間に成立した、不可侵の絶対調停領域です」


「大層な肩書きだな。俺としちゃ、客が気兼ねなく眠れる場所であり続けてくれりゃ、それで十分なんだがね」


「その『十分』こそが、最も困難で価値ある秩序なのですよ」


ノアは小さく頷くと、作業を終えた光の陣をすっと消し去った。淡い光の粒子が天井へと溶けていき、宿全体が穏やかな静けさに包み込まれる。



厨房に戻ると、刃物の心地よい刻み音がトントンと響いていた。


黒い装束の袖をまくり、ジンが手際よく根菜を刻んでいる。元暗殺者らしい無駄のない刃さばきで、硬い人参が均一な厚みの薄切りになってまな板の上に並んでいく。


「ジン、手伝わせて悪いな」


「いや……身体を動かしていた方が落ち着く。それに、ここの包丁は手入れが行き届いていて扱いやすい」


ジンは淡々と答えながら、刻み終えた野菜を大鍋の中へと滑り込ませた。澄んだ出汁が温まり、野菜の甘い香りが湯気となって立ち上る。


「昼は、豚肉と野菜をたっぷり煮込んだ吸い物と、麦飯にしよう。外で汗を流してる連中も腹を空かせる頃だ」


「いいな。あいつらも美味い飯があれば文句は言わん」


ジンは鍋のアクを丁寧に掬い取りながら、ふと視線を落とした。その横顔には、かつて闇の中にいた頃の鋭利な気配はなく、穏やかな光が宿っている。


「俺には、帰るべき国も家もなかった。任務に失敗すれば死ぬだけで、誰かに居場所を許されたことなど一度もなかった」


静かな声だった。煮立つ鍋の音に紛れそうなほど低く、だが確かな重みを持った告白。


「だが……ここに来て、お前の飯を食い、くだらん喧嘩や馬鹿笑いを見ているうちに分かったんだ。ここが、俺の帰る場所なんだとな」


俺は何も言わず、ただ大きなしゃもじを手に取り、炊き上がった麦飯の釜を開けた。立ち上る真っ白な蒸気と、香ばしい穀物の匂いが厨房を満たす。


「帰りたい時に帰ってくればいい。看板が出てる限り、誰であっても客は客だ」


「ふっ……相変わらずだな、店主」


ジンは微かに口元を緩め、再びアク取りに集中した。言葉を重ねる必要はなかった。同じ鍋の湯気を浴び、同じ飯を作る。それだけで、俺たちの間に交わされた確かな約束が伝わっていた。



昼時になる頃には、広間の補修はあらかた片付いていた。


新しい木材の匂いが漂う広間に、大鍋いっぱいの具だくさん汁と、山盛りの麦飯が運び込まれる。


「うおおっ、飯だ飯だ! 大工仕事の後の飯ほど美味いもんはねえ!」


ドランが真っ先に駆け寄り、木椀を受け取って汁を豪快にすする。熱々のスープが喉を通るたびに、喉を鳴らして感嘆の声を上げた。


「美味い……! 野菜の甘みが染み渡るぜ……!」


「ポルク、お前も座って食え。床磨き、綺麗に仕上がってたぞ」


「本当ですか!? えへへ、店主さんに褒められちゃった! いただきます!」


ポルクは尻尾を振る勢いで椅子に飛びつき、大口を開けて麦飯を頬張った。その隣では、汗を拭ったクライドと魔族の戦士が、互いの椀を軽くぶつけ合って笑っている。


不可侵の約束などという大仰な言葉よりも、目の前の温かい椀と、隣で笑う誰かの存在。それがこの場所を形作っている。


俺は濡れ布巾で調理台を拭き上げ、広間に広がる穏やかな光景に目を細めた。


手入れの行き届いた木の床。頑丈に組み直された梁。そして、腹を満たして満足そうに息をつく客たちの顔。


宿は以前よりも少しだけ逞しく、そして深く、この深層の地に根を下ろしたようだった。午後の仕込みをどうするか考えながら、俺は静かに息を吸い込み、湯気の向こうにある日常の確かな手応えを胸の奥で噛み締めた。

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