第27話
大鍋の蓋を持ち上げると、白い湯気とともに濃厚な香りが鼻腔をくすぐった。
ぐつぐつと微かな音を立てて煮込まれているのは、五十階の岩肌に群生していた発光キノコと、じっくり下茹でした魔導牛のすね肉だ。あのキノコは本来、青白い燐光を放ちながらピリピリとした痺れ毒を蓄えている厄介な代物だが、適切な塩抜きと薄皮の剥離を行えば、信じられないほどの極上出汁を放つ。
木べらですくい上げ、味見をする。まろやかなコクの中に、わずかに抜ける爽やかな森の香り。文句なしの出来栄えだった。
「……よし、味は決まったな」
俺は息を吐き出し、煮込み用の火を極弱火に落とした。
厨房からラウンジへと足を踏み出すと、そこには少し前までの激戦の名残が色濃く残っていた。壁の板材には焦げ跡が走り、床のあちこちに補修用の当て木が打ち付けられている。だが、空気そのものは刺々しさを完全に失っていた。
中央に並べられたのは、ドランが廃材を組み合わせて即席で仕立てた長机だ。
「おいおい、店主! まだかよ、胃袋が背中にくっつきそうだぜ!」
工具袋を床に投げ出したドランが、太い腕を組みながら吠えた。顔中煤だらけだが、その表情に疲壮感はない。卓上には羊皮紙と炭の鉛筆が無造作に置かれており、壊れた扉や窓枠の修繕見積もりが殴り書きされていた。
「今運ぶところだ。急かすな、美味いもんは焦ると味が濁る」
「へっ、職人に段取りを説くたぁいい度胸だな。だが、その鍋から漂ってくる匂いには一本取られた。建材の買い出し費用に色をつけてやりたくなる美味さの予感がしやがる」
ドランが豪快に笑うと、隣に座っていたジンが冷めた視線を向けた。
「……ドラン、うるさい。せっかく片付けた皿に唾が飛ぶ」
黒装束の袖をまくり、手際よく木製の椀を並べていたジンが、淡々とした口調で釘を刺す。彼の足元には、先刻の騒乱で使われた煙幕筒やワイヤーの残骸が綺麗に分別されてまとめられていた。暗殺者としての手腕を、今はすっかり宿の裏方作業と皿洗いに注ぎ込んでいる。
「なんだと小僧! ワシが壁を突っ張り棒で補強してやらなきゃ、お前の大事な洗い場ごと崩れてたんだぞ!」
「それは感謝している。だが、料理を待つ態度としては三流だ」
「こんの……!」
「二人ともそこまでにしとけ。ほら、皿を回してくれ」
俺が大鍋を木台の上に据えると、二人は示し合わせたように口を噤み、真剣な眼差しで鍋の中を見つめた。立ち上る湯気が、ラウンジに集まっていた連中の視線を一気に吸い寄せる。
長机の端では、包帯を巻いたクライドが背筋を伸ばして座り、その向かいではセレナが魔導書のページを閉じて小さく喉を鳴らしていた。少し離れた床掃除を終えたポルクも、雑巾をバケツに放り込んで小走りで席へと駆け寄ってくる。
「はいよ、特製シチューだ。熱いから気をつけろ」
椀にたっぷりと注ぎ分け、各自の前に置いていく。発光キノコ特有の淡い黄金色がスープに溶け込み、柔らかく煮崩れた肉の塊がごろりと顔を覗かせていた。
「いただきます……!」
クライドが礼儀正しく木匙を取り、熱々のスープを口に運ぶ。その刹那、青年の目が見開かれた。
「……美味い。なんだこれは……身体の奥から力が湧いてくるようだ。ただ濃厚なだけじゃない、すっと染み渡るような滋味がある」
「ふふ、キノコの風味が絶妙ね。余計な雑味が綺麗に消えて、旨味だけが残ってる。これなら幾らでも食べられそうだわ」
セレナもふうふうと息を吹きかけながら匙を動かし、緩みきった笑みを浮かべた。さっきまで大軍勢を相手に苛烈な迎撃魔法を放っていた大魔道士とはとても思えない、無防備な顔つきだった。
ジンも静かに椀を持ち上げ、一口含むと小さく頷いた。
「……完璧な火入れだ。繊維が完全に解けているのに、形が崩れていない。塩加減も、労働後の身体にちょうどいい」
「だろ? 職人の舌を唸らせるには、こういう手間の掛かったもんが一番なんだよ」
ドランは椀ごと抱え込むようにして豪快にシチューを流し込み、熱さにハフハフと息を吐きながら親指を立てた。見積もりの羊皮紙はいつの間にか脇へと押しやられ、ただ目の前の料理を貪る音だけがラウンジを満たしていく。
彼らの少し離れた場所、ラウンジの隅の頑丈な柱には、二人の男が背中合わせで縛り上げられていた。
人間側の強硬派であるバルテルと、魔王軍過激派のザイードだ。
全身の魔力を封じる縄で幾重にも巻かれた二人は、床に転がされたまま、信じられないものを見る目で長机の光景を凝視していた。
「……貴様ら、正気か……」
ザイードが掠れた声で唸るように呟いた。漆黒の甲冑は砕け散り、歴戦の巨躯は無残な傷に覆われている。かつて魔族の軍勢を率い、絶対的な力による蹂躙を信じて疑わなかった男の瞳には、激しい動揺と困惑が渦巻いていた。
「人間と魔族が……同じ卓を囲み、平然と飯を食うなど……あってはならん。それは……戦士としての矜持を捨てる行為だぞ……!」
「黙れ……」
隣でうなだれていたバルテルが、力のない声で遮った。高級な仕立てだった衣服は泥と煤で汚れ、かつての傲慢な権力者の面影はどこにもない。
「あれを見ろ、ザイード。あいつらの顔を……。あれが、力で屈服させられた者の顔に見えるか……?」
バルテルの視線の先では、魔族の戦士と人間の冒険者が、シチューのおかわりを巡って軽口を叩き合っていた。殴り合うでもなく、刃を抜くでもなく、ただ美味いものを前にして笑い合っている。
「我々が率いた軍勢は……ここを破壊するために来たはずだった。だが、連中は自らの意思で、この場所を守るために手を取り合ったのだ……。我々の政治も、思想も、最初からこの空間には何の意味も持たなかったのだ……」
バルテルの呟きに、ザイードは言葉を失った。漂ってくる芳醇なシチューの香りが、彼の鼻腔をも否応なく刺激する。空腹を訴える腹の虫が小さく鳴ったのを、ザイードは屈辱そうに歯を食いしばって押し殺した。
自分たちが命を懸けて信奉してきた対立の構図が、たった一杯の温かい飯と、それを囲む平穏の前に、あまりにもあっけなく色褪せていく。その敗北の重みが、二人の毒気を芯から抜き去っていた。
俺は木椀を二つ手に取り、柱の元へと歩み寄った。
床にしゃがみ込み、二人の前に椀を置く。
「……何の真似だ、店主。敗者への侮辱か」
ザイードが警戒を解かずに睨みつけてくる。だがその声には、先ほどまでの凶暴な覇気は残っていなかった。
「侮辱する暇があったら鍋を洗う。うちは宿屋だ。どんな奴だろうと、武器を捨てて敷居を跨いだ以上は客として扱う。食うなら縄を少し緩めてやるが、どうする」
「ふざけるな。俺は魔王軍の将だ、敵の施しなど受けるか」
「腹が減ってるなら関係ない。冷めると油が固まって不味くなるぞ」
俺が淡々と告げると、バルテルが小さく息を漏らし、弱々しく首を縦に振った。
「……貰おう。恥も外聞もないが……その匂いに抗えるほど、私は出来た人間ではないようだ」
ジンの手によって腕の自由だけを許された二人は、震える手で木匙を握った。そして、恐る恐る口へと運ぶ。
一瞬の静寂の後、二人の表情から強張りが消えた。熱いスープが胃袋に落ちるたび、張り詰めていた肩の力が抜け、ただ純粋な温もりに包まれていくのが見て取れた。
「……美味いな」
バルテルがぽつりと零した。
ザイードは何も言わなかったが、二口目からは無心で匙を動かし、あっという間に椀を空にした。その横顔には、戦場でしか生きられなかった男の、拭いきれない疲労が滲み出ていた。
「おかわりはあるからな」
そう言って立ち上がると、ラウンジの方からドランの呼ぶ声が響いた。
「おい店主! 外壁の補修プランが固まったぞ! 五十階の硬質石材を切り出して、前より頑丈なエントランスにしてやるからな!」
「頼む。代金はツケにしておくから、しっかり働いてくれよ」
「ガハハ! 美味い飯と酒がついてるなら、タダ働きでも構わねえくらいだ!」
笑い声が吹き抜けの天井へと吸い込まれていく。
かつて血で汚れていた迷宮の深層は、今や誰もが肩の荷を下ろせる場所に変わっていた。大仰な理想や大義名分などいらない。ただ腹を満たし、温かい湯に浸かり、泥のように眠る。それだけで人は、また明日を生きる気力を取り戻せるのだ。
俺は空になった椀を回収し、再び静かな厨房へと戻った。
鍋底に残ったシチューをすくいながら、壊れた宿をどう直していくか、明日の朝食には何を出そうかと思いを巡らせる。
外の世界でどれほど争いが続こうとも、この扉の内側だけは変わらない。静かで、満ち足りた日常が、ここには確かに息づいていた。




