第30話
大鍋を磨き上げ、きれいに並べられた深皿を眺めながら、俺はふと数日前の騒ぎを思い出していた。
あの夜、条約の草案がまとまった直後のことだ。宿の噂を聞きつけた人間側の愚かな強硬派と、前線拠点を奪い取ろうと目論んだ魔王軍の過激派が、あろうことか手を組んでこの迷宮深層へと大軍で押し寄せてきた。
『剣聖を兵器として回収する!』
『軟弱な魔族ども諸共、このふざけた拠点を焼き払え!』
そんな怒号を上げ、土足で玄関の扉を蹴破ろうとした連中を前に、俺は調理用の木べらを置いて立ち上がろうとした。
だが、俺が動く必要など爪の先ほどもなかった。
『貴様ら……! 人がせっかく、美味い夜食を食って極上の気分に浸っていたというのに……!』
銀の甲冑をガチャリと鳴らし、凄まじい形相で立ち上がったのはクライドだった。普段の生真面目さはどこへやら、邪魔をされた怒りで全身から青白い闘気を噴き上げている。
『わたくしの至福のデザートタイムを台無しにした罪、万死に値しますわよ!』
セレナが紅蓮の業火を両手に灯し、瞳を吊り上げた。普段の高飛車なお嬢様ぶりをかなぐり捨て、床を揺らすほどの魔力を練り上げる。
さらに厨房の影からは、ジンが無言で無数の暗殺用ワイヤーを展開し、侵入者の足元を完璧に封じ込めた。逃げ惑う兵たちの足元には、ポルクが念入りに散布した特製スライム油のトラップが待ち構えており、押し寄せた大軍勢は宿の敷居を一本跨いだだけで完全に瓦解した。
怒り狂った常連たちによる一方的な掃討劇は、ものの数分で幕を閉じた。誰一人として宿の柱に傷をつけることすら許されず、過激派の連合軍はボロボロの雑巾のように転がされることになったのだ。
後日、知らせを聞いて真っ青になった各国の首脳陣や、魔王本人が直々に謝罪へとやってきた。彼らは最初こそ恐る恐る足を踏み入れたものの、俺の作った温かい煮込み料理を口にし、湯気の立つ大浴場に浸かった途端、すっかり毒気を抜かれて骨抜きになってしまった。
結果として、この宿を起点とした完全な不可侵条約は、誰の異論も挟まる余地なく正式に結ばれることとなったのだ。
「店主、床の乾拭き、全部終わりました!」
小気味よい声が響き、俺は回想から引き戻された。
緑色の肌をした小柄な少年――ポルクが、額の汗を拭いながら自慢げに胸を張っている。彼が雑巾がけを終えたばかりの廊下は、まるで鏡のように淡い光を反射していた。
「ああ、助かったよ。いつも通り見事な仕事だ」
「えへへ、僕にかかればこれくらい朝飯前ですよ! もっと磨く場所はありますか?」
褒められてあからさまに鼻を高くするポルクに、俺は苦笑を交えて頷いた。
「いや、十分だ。少し休んで水分でも取ってきな」
「はーい!」
元気に返事をしてラウンジへと駆けていくポルクの後ろ姿を見送る。かつて戦場から逃げ惑い、怯えていた脱走兵の面影はもうどこにもない。
視線を洗い場へと戻すと、そこでは黒ずくめの男――ジンが、一切の無駄のない動きで陶器の皿を洗い、清潔な布で水滴を拭い取っていた。暗殺者としての卓越した指先の精密さを、彼は今や皿洗いの技術として完璧に昇華させている。
「ジン、そっちの仕込み用のボウルも頼んでいいか」
「……言われなくても終わっている。刃物の研ぎ直しも済ませておいたぞ」
ジンは鋭い眼光を崩さないまま、しかし極めて丁寧に手入れされた調理器具を指し示した。相変わらず愛想はないが、料理への敬意と裏方としての仕事ぶりは職人そのものだ。
「サンキュ。助かる」
「別に礼を言われる筋合いはない。俺はただ、美味い飯を食うための環境を整えているだけだ」
ぶっきらぼうにそう返し、ジンは再び静かに手元へと意識を戻した。彼にとっても、この厨房が何者にも脅かされない居場所になっているのが伝わってくる。
厨房を出て、吹き抜けのラウンジへと足を運ぶ。
柔らかな木漏れ日のような魔導光が差し込む広間では、すでに宿泊客たちが思い思いの朝の時間を過ごしていた。
窓際の席では、非番の騎士であるクライドが、甲冑を脱いだ身軽な私服姿で深々と革張りの椅子に身体を沈めていた。手には湯気の立つハーブティーのカップが握られている。
「ふう……生き返るな。王都の詰め所にいると、書類仕事と派閥の小競り合いばかりで頭が痛くなるが、ここに来ると肩の荷が下りる」
「あら、相変わらず世俗の争いに追われて見苦しいことですわね」
向かいのソファで優雅に足を組み、冷たいパフェグラスをスプーンで突いているのはセレナだ。魔王軍の幹部であるはずの彼女は、朝から甘味を堪能することに全霊を注いでいる。
「貴様に言われたくない。そっちこそ、魔王城での派閥争いはどうなったんだ」
「あんな下らない騒ぎ、知ったことではありませんわ。わたくしは今、店主が開発したこの新作タルトの風味に集中したいのですから」
セレナは恍惚とした表情で焼き菓子を口に運ぶと、蕩けるような溜息を漏らした。
「んん……サクサクの生地に、この濃厚な木の実のクリーム……! 完璧ですわ。争いなどしている暇があるなら、この味を永遠に噛み締めていたいですもの」
「……それには同意せざるを得ないな。昨夜のスープも絶品だった」
「おかわり、いただけますこと?」
空になったグラスを掲げる魔族幹部に、騎士が呆れたように息を吐きながらカップを傾ける。
俺はその光景を静かに見渡し、自然と口元を緩めた。
厨房の奥、頑丈な鍵がかけられた収納棚の前に立つ。
扉を開くと、そこには長年俺の相棒として数多の命を奪い、血を吸い続けてきた一振りの名剣が横たわっていた。かつて「人類最強」などと持て囃され、終わりのない戦火へと駆り立てられる原因となった忌まわしい象徴だ。
俺は鞘に手を触れ、静かに目を閉じる。
もう、この刃を抜くことは二度とないだろう。誰かの命を奪うためではなく、誰かを休ませるために生きる。その決意を確かめるように、俺は棚の扉をゆっくりと閉め、しっかりと鍵を下ろした。
代わりに手にしたのは、ジンが手入れしてくれたばかりの、銀色に輝く真新しい万能包丁だった。
手にしっくりと馴染む重み。指先に伝わる鋼の冷たさは、かつて握ったどの名剣よりも心地よかった。
調理台の前に立ち、手際よく野菜を刻んでいく。
トントントン、とリズミカルな音が静かな厨房に響き渡る。大鍋からは、じっくりと時間をかけて煮込んだスープの優しい香りが立ち上り、宿全体を満たしていく。
過酷な戦いに明け暮れ、擦り減っていた日々。権力者たちの都合で振り回され、血と泥に塗れていた過去。それらすべてを捨て去り、この迷宮の底に辿り着いた時は、ただ静かに眠りたかっただけだった。
だが、今ここにあるのは、ただの逃避場所ではない。
疲れた者が鎧を脱ぎ、武器を置き、温かい飯を食って眠るための、かけがえのない居場所だ。
種族も立場も関係ない。ここにやってくる者は皆、ただの腹を空かせた客であり、休息を求める旅人だった。
カラン、コロン。
重い木の扉が押し開かれ、迷宮の冷気とともに乾いた足音が踏み込んできた。
ジンが手を止め、ポルクが入り口へと視線を向けた。ラウンジのクライドやセレナも、わずかに視線を動かすが、そこに敵意や警戒の色はない。ただ、新しい客を迎える緩やかな興味だけがあった。
俺は手元の包丁をまな板の上に置き、清潔な布巾で手を拭った。
作務衣の袖を軽くまくり直し、厨房から受付のカウンターへと顔を出す。
扉の向こうに立っていたのは、ボロボロのマントを羽織り、戦いに疲れ果てた表情を浮かべた旅人だった。こちらを恐る恐る窺うその瞳には、かつての俺自身と同じ、深い疲労が滲んでいる。
俺はぶっきらぼうに、だが心の底からの温もりを込めて、その男へと声をかけた。
「いらっしゃい。疲れたろ。まずは美味い飯でも食って、ゆっくり休んでいきな」
深層の静寂に包まれた宿屋に、今日も温かな日常が続いていく。




