第24話
包丁の刃先をまな板に当て、等間隔に刻む乾いた音だけが厨房に響いていた。
大鍋の中では、根菜と獣肉がじっくりと旨味を溶け込ませながら煮立っている。漂う出汁の香りを鼻腔に吸い込みつつ、俺は耳を澄ませた。
宿の外、迷宮の広間に通じる通路から、鈍い破壊音と怒号が重なって伝わってくる。
「ええい、どいつもこいつも役に立たん! 魔導兵器の安全弁をすべて解除しろ!」
通路の奥から響いてきたのは、聞き覚えのある甲高い喚き声だった。人間国の討伐隊長、バルテルだ。手柄と権力に目が眩んだ男の焦燥が、声の端々から滲み出ている。
「五十階層ごと吹き飛ばして構わん! あの忌々しい元剣聖もろとも、宿を瓦礫の山に変えてしまえ!」
青白い閃光が通路の壁を照らし出した。迷宮の構造そのものを歪めかねない、強引な魔導励起の不協和音が空気を震わせる。
あの出力をまともに開放されれば、この空間そのものが落盤を起こす。
だが、俺が包丁を置く必要はなかった。
「……うるさいですね。仕込みの邪魔です」
冷ややかな呟きが、バルテルの背後、影の濃淡から不意に染み出した。
「なっ、貴様、いつの間に――」
バルテルが振り返る暇すら与えられなかった。
黒装束を纏った男、ジンだ。皿洗いで培った無駄のない足運びで間合いを詰めた彼は、手にした短剣の柄頭で、過熱する魔導具の中枢核を正確に穿った。
硬質な金属音が響き、過負荷を起こしかけていた結晶体が粉々に砕け散る。
「ヒッ、私の魔導具が!?」
「店主が『飯の前に大きな音を立てるな』と言っていました。あんたの喚き声も、これの唸り声も、実に耳障りだ」
ジンは感情を交えない瞳でバルテルを見下ろし、足元に転がった残骸を無造作に踏み砕いた。背後を断たれた討伐隊の兵士たちが浮き足立ち、隊列が目に見えて崩れていく。
兵器という最大の切り札を潰されたバルテルは、顔を真っ青にして後退り、尻餅をついた。
「バ、化け物め……! ザイード殿! 前線の掃討はどうなっているのですか!」
バルテルの悲鳴に応じるように、重い金属の擦れる音が地鳴りのように響いた。
「どけ、無能どもが」
黒い禍々しい甲冑に身を包んだ巨漢が、味方の兵を乱暴に払いのけながら大股で歩み出てくる。
魔王軍過激派の将、ザイード。その身から放たれる禍々しい闘気配が、迷宮の冷えた空気を一瞬で塗り替えた。
「人間と馴れ合い、腑抜けた貴様らに、魔族を名乗る資格などないわ!」
ザイードが手にした大剣を一閃させる。
大気が軋み、漆黒の斬撃波が宿の前庭を薙ぎ払った。
「くっ……!」
正面から受け止めたクライドの白銀の盾が、甲高い悲鳴を上げて火花を散らす。歴戦の騎士である彼の足が、石畳を削りながら数歩後退させられた。
「クライド、下がって!」
後方からセレナが叫び、幾重もの障壁魔法を展開する。しかし、ザイードの凶暴な力任せの連打は、展開された魔力壁をガラス細工のように次々と叩き割っていく。
「無駄だ! 脆弱な小細工ごと微塵に砕け散れ!」
ザイードの咆哮とともに、黒甲冑から溢れ出した魔力が渦を巻く。その巨体から繰り出される連撃は重く、鋭く、一撃ごとにクライドの防御を削り取っていく。
クライドの膝がわずかに折れ、セレナの詠唱が息切れを起こしかけた。
力こそが全てと信じ込む狂気。対話を拒絶し、すべてを暴力で塗り潰そうとする純粋な悪意が、二人に覆いかぶさる。
だが、彼らの瞳から光は消えていなかった。
厨房の換気口から、熱気を帯びた香りがふわりと流れ出た。
じっくりと火を通した甘辛いタレの匂い。香草の爽やかな刺激。そして、炊きたての米が放つ、人を無条件で安心させる豊かな湯気。
その香りは、殺伐とした鉄と血の臭いに満ちていた前庭へと、迷いなく広がっていった。
「……まったく、騒々しい客ばかりだな」
俺は煮込み鍋の火加減を調整し、カウンターの小窓から外へ声を張り上げた。
「おい、お前ら! 飯が冷める前に片付けろ! 出来立てを食わせるのが、ここの決まりだ!」
俺の怒声交じりの呼びかけに、前庭の空気がわずかに跳ねた。
クライドが盾を構え直し、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「……承知いたしました、店主殿! 冷めた料理をいただくなど、騎士の名折れですからな!」
「ふん、言われなくても! 私の特等席を泥靴で汚した連中に、きっちり請求書を回してやるわ!」
セレナの杖の先から、先ほどまでとは比べ物にならないほど濃密な火炎の魔力が渦を巻いて立ち上る。
背後から戻ってきたジンも短剣を逆手に構え、ザイードの死角へと滑り込むように位置取った。
守るべき日常があり、戻るべき温かい食卓がある。
その単純で揺るぎない実感が、疲弊しかけていた彼らの肉体に最後の力を注ぎ込んでいた。
「貴様ら……死に損ないの分際で、そのふざけた余裕は何だ!」
苛立ちを爆発させたザイードが、大地を踏み砕きながら大剣を振り上げる。
対するクライドは一歩も引かず、セレナの放った紅蓮の炎が巨漢の視界を奪う。その隙を突き、ジンの影が黒甲冑の継ぎ目へと正確に迫る。
敵の戦力は確実に削られ、強大な魔導兵器も失われた。勝利への道筋は、確実に切り拓かれつつある。
だが、全身を怒りに染め上げたザイードの闘気は、未だ衰えを知らずに前庭を圧迫していた。
全員が笑みを浮かべ、最後の激突へと足を踏み出す。




