第23話
怒号と爆音、そして金属がぶつかり合う甲高い衝撃音が、迷宮の広大な空洞を震わせていた。
煙塵が巻き上がる中庭で、バルテル率いる討伐部隊と魔族の強襲班が足並みを乱し、次々と後退を余儀なくされている。
先陣を切っていた重装兵たちが、吹き荒れる突風と鋭い魔力の余波に煽られて無様に転がり、後続の兵士たちを巻き込んで隊列を崩していた。
「な、なんだこれは……ッ! なぜだ、なぜ貴様らのような魔族と人間の落ちこぼれが、息を合わせて動いている!?」
後方で指揮を執っていたバルテルが、顔面を紅潮させて叫ぶ。その声は激しい狼狽と苛立ちに震えていた。
彼の目の前では、傷を負いながらも気迫に満ちたクライドが剣を構え、そのすぐ背後でセレナが詠唱を完了させ、次なる術式を展開していた。
本来ならば出会った瞬間に殺し合うはずの二人が、互いの死角を完璧に補い合っている。右から迫る魔族の戦士をクライドが弾き飛ばし、左から回り込もうとしたバルテルの私兵をセレナの氷塊が足止めする。
「あり得ん……あり得んぞ! 魔族は人類の仇敵だ! それを庇い、共に刃を振るうなど正気の沙汰ではない! 貴様ら、誇りというものがないのか!」
バルテルが唾を飛ばしながら喚き散らす。
だが、その言葉に耳を貸す者は誰一人としていなかった。
「うるさいわね、この羽虫! せっかくの極上シフォンケーキを台無しにされた私の怒りを思い知りなさい!」
セレナの鋭い叱責とともに、幾条もの紫電が地面を走り、敵陣の足元を爆砕する。巻き込まれた兵士たちが悲鳴を上げて散り散りになった。
混成軍の兵士たちは、常連客たちの猛烈な連携の前に完全に浮足立っていた。種族も陣営も違うはずの者たちが、まるで何年も共に戦ってきた戦友のように呼吸を合わせ、迷宮の狭小な地形を巧みに利用して防衛線を押し返しているのだ。
「くそっ、陣を立て直せ! 退くな、数ではこちらが圧倒しているのだぞ!」
バルテルがヒステリックに剣を振り回すが、一度恐怖に呑まれた兵士たちの足を止めることはできない。ザイードの放つ凶悪な魔力も、前線を取り囲む混乱の渦に遮られ、的を絞りきれずにいた。
戦況は確実に傾きつつあった。
敵の包囲網は乱れ、力任せの進軍は頓挫している。
だが、宿の損害も決して小さくはなかった。
砕け散った敷石、黒く焦げた前庭の木々、そして半壊した外壁の残骸が散らばる中、甲高い金づちの音が規則正しく響き始めた。
「おらおら、そこどきな! 職人の仕事場をウロウロすんじゃねえぞ!」
ドランが太い腕を振るい、迷宮の硬質岩で作られた巨大な角材を軽々と担ぎ上げていた。
腰に下げた工具袋から巨大な釘を取り出すと、粉々になりかけた宿屋の正面柱へ勢いよく打ち込んでいく。ドスン、と鈍い音が響き、傾きかけていた梁がピタリと安定した。
「まったく、手荒に扱ってくれやがって! 店主の頼みで最高の木材を選りすぐって組んだ壁なんだぞ! おいノア、そっちの補強板を支えろ!」
「了解しました。物理強度の低下を検知。魔力による構造補強術式を並行して展開します」
白いローブを翻し、瓦礫の山に立ったノアが淡々と応じた。その双眸は青白い光を帯びており、壊れかけた防護壁の亀裂へ向けて細かな魔導文字を高速で流し込んでいる。
「外部からの過負荷により、迷宮階層の術式回路に百分率で三十五の損壊を確認。ですが、基幹コアの保護には成功しています。即座に応急処置を完了させます」
感情を交えない平坦な声のまま、ノアは指先を滑らせていく。崩れかけた外壁の表面に淡い光の膜が張り直され、煙と火花が瞬く間に鎮火していった。
「へっ、仕事が早くて助かるぜ! おい店主、見ての通り建物の骨組みは俺がガッチリ繋ぎ止めてやる! お前さんの宿は、この程度の小競り合いで潰れちまうほどヤワじゃねえ!」
ドランは太い腕で額の汗を拭うと、間髪入れずに次の補強材へと大槌を振り下ろした。
宿の機能はまだ死んでいない。
彼らは戦場の中で、日常の砦をその手で繋ぎ止めようとしていた。
俺は木刀を下ろし、深呼吸を一つした。
肺を満たす焦燥と硝煙の匂い。だが、それ以上に強く伝わってくるのは、この場所を護ろうとする奴らの頑なな意志だった。
かつて、俺は戦場で一人だった。
誰かの期待を背負い、誰かの命令に従い、敵の首を刎ねることだけを求められていた。刃を振るうことだけが自分の存在価値だと信じ込まされ、それ以外の生き方を知らなかった。
だが、今は違う。
俺はもう、誰かに命じられて敵を殺すための兵器ではない。
ここは俺が選んだ場所であり、俺の宿だ。
そして外で泥まみれになって踏ん張っている連中は、世界を救うための駒ではなく、ただ腹を空かせて暖を取りにやってくる、俺の大切な客たちだ。
「……そうだな」
俺は木刀を帯に差し戻した。
前線で剣を振るうことだけが、俺の役割じゃない。
奴らが命懸けでこの場所を守ろうとしているなら、俺には宿屋の親父として果たすべき、もっと重大な義務がある。
背を向け、きしむ音を立てる木製の扉を押し開けて宿の中へと足を踏み入れた。
外の喧騒が、分厚い扉によって僅かに遠のく。
薄暗い店内に漂う、削りたての木材と微かな香辛料の香り。散乱したグラスや傾いたテーブルを横目に、俺は迷うことなく厨房へと向かった。
手洗い場で冷たい水を出し、両手を丁寧に洗う。
白い布巾で水分を拭い取り、清潔な前掛けの紐を腰の後ろでキュッと固く結んだ。
調理台の上には、先ほどまで下ごしらえをしていた食材が並んでいる。
迷宮の清らかな地下水で洗った新鮮な野菜、じっくりと熟成させて旨味を閉じ込めた魔導獣の赤身肉、そして深層の岩肌から採れる滋養強壮に優れた香草。
俺は使い込まれた包丁の柄を握った。
手の中に吸い付くような、冷たくも馴染んだ重み。かつて血を吸い続けた名剣よりも、この道具の方がずっと俺の性に合っている。
トントントン、と軽快な音が厨房に響き渡る。
迷いなく食材を刻み終え、熱した大鍋に油を引く。叩き潰した香草を放り込むと、パチパチと弾ける音とともに芳醇な香気が立ち上った。
赤身肉を鍋に投入し、強火で一気に表面を焼き固める。ジューッと肉汁が跳ねる音と立ち上る白煙が、戦場の嫌な臭いを塗りつぶしていく。
外で戦っている連中は、全身全霊で力を振り絞っている。
魔力を使い果たし、筋肉を酷使し、極限の緊張感の中で泥にまみれているはずだ。
そんな奴らに今必要なのは、勇ましい言葉でもなければ、血なまぐさい加勢でもない。
戦いが終わった瞬間に腹の底から染み渡る、温かくて、圧倒的に美味い飯だ。
すりおろした根菜と秘伝の調合タレを鍋に流し込み、たっぷりの出汁を加えて煮立たせる。アクを丁寧に掬い取りながら、弱火に落として味をじっくりと染み込ませていく。
別の平鍋では、炊きたての白米を香ばしく炒め合わせ、具材の旨味を余すところなく吸わせる準備を進める。
湯気の中に顔を近づけ、味見用の小匙で煮汁を一口すする。
濃厚な肉のコクと、香草の爽やかな風味が舌の上で完璧に調和していた。胃袋を温め、すり減った気力を芯から回復させるだけの力が、この一杯に確かに宿っている。
「待たせるわけにはいかないからな」
俺は鍋蓋を閉じ、弱火を維持しながら、大皿をカウンターの上に次々と並べ始めた。
外の戦闘は、まだ終わっていない。
通路の奥には依然として敵の気配が蠢いており、ザイードの凶刃も、バルテルの執念も完全に潰えたわけではない。
戦局はなおも予断を許さない綱渡りが続いている。
だが、俺の心にはもう一片の迷いもなかった。
彼らが戦い抜き、泥だらけの足でこの扉を開けたその時、最高の笑顔で「おかえり」と言ってやれるように。
俺は再び包丁を手に取り、次なる仕込みへと取り掛かった。




