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第22話

煤煙が喉を焼き、焦げた木の匂いが鼻腔をつく。


砕け散った正面玄関の瓦礫を踏み越え、人間側の兵士と筋骨隆々の魔族兵たちが次々と雪崩れ込んできている。かつては敵同士だったはずの連中が、歪な笑みを浮かべながら肩を並べていた。彼らの瞳にあるのは、略奪への飢えと、規格外の者たちを数で押し潰すことへの醜い愉悦だけだ。


俺は右手に握った剣の柄を握り直した。だが、連戦の疲労と、宿を守りながら立ち回った代償は重い。膝の関節が軋み、思わず微かに身体が傾ぎかけた。


「ははっ、見ろよ! あの剣聖様がよろめいてやがるぜ!」


「たかが地下の掘っ立て小屋一つに命を張るからだ。まとめて叩き潰せ!」


先頭の兵士が下卑た笑い声を上げ、長槍を突き出そうと踏み込んだ。


その切っ先が俺の胸元に届くよりも早く、横合いから銀色の閃光が走った。


甲高い金属音が迷宮の天井に反響する。槍の穂先が宙を舞い、砕かれた破片が床に散らばった。


「……なっ!?」


狼狽する兵士の視線の先に立っていたのは、ボロボロになった白銀の鎧を纏う青年だった。全身に無数の擦り傷を負い、包帯からは血が滲んでいる。だが、その両足は微動だにせず、床を力強く踏みしめていた。


クライドだ。


彼は切っ先を侵入者たちへ真っ直ぐに向け、喉も張り裂けんばかりの声で吠えた。


「貴様ら、それ以上この敷居を跨ぐな! ここは戦場ではない! 俺たちにとって……誰にも邪魔されずに羽根を休める、かけがえのない大切な憩いの場だ! 貴様らのような無粋な輩に、荒らさせてたまるものか!」


息を荒らげながらも、その瞳には一点の曇りもない。


かつては迷宮の掟に縛られ、使命感だけで空回りしていた熱血騎士が、今は己の意志で剣を構え、俺の隣に並び立っていた。


「クライド、お前……まだ身体が動くのか」


「店主殿、背中はお任せを。ここで受けた恩を、ただ寝て見過ごすほど俺は落ちぶれていません!」


生真面目すぎるその横顔に、俺は思わず口元を緩めそうになる。


だが、侵入者たちの数はあまりにも多い。クライドの一撃で怯んだのは先頭の数人だけで、後方からは怒号とともに次なる一隊が押し寄せてくる。


「小僧が調子に乗りおって! まとめてミンチにしてくれるわ!」


魔族の大男が巨大な棍棒を振り上げた。


その瞬間、宿の奥――食堂へと続く通路から、凍りつくような冷気を孕んだ鋭い声が響き渡った。


「ええい、やかましいですわね! 人の至福の時間を、一体何だと思っていらっしゃるの!」


ばあん、と扉が勢いよく蹴破られた。


現れたのは、フリル付きのエプロンをドレスの上に羽織ったセレナだった。その手にはフォークが握られている。だが、そのフォークの先に乗っていたはずの焼き菓子は、爆風の揺れで無残にも床へ落下していた。


彼女の美しい顔立ちが、かつて戦場で幾千の敵を恐怖させた魔王軍幹部のそれへと豹変している。


「わたくしが! 今まさに! 最高の焼き加減で仕上がったタルトを口に運ぼうとしていたその刹那に! 貴様らはなんという無作法を働いてくれたのですか!」


「ヒッ……せ、セレナ様!? なぜ貴女がこのような人間の味方を……」


侵攻軍の中にいた魔族たちが、その姿を認めて青ざめた。


だが、激怒したセレナに言い訳など通じるはずもない。彼女が苛立ち紛れに指先を鳴らすと、宿の広間全体が紫色の濃密な魔力光で満たされた。


「言い訳は地獄で聞き届けて差し上げますわ! 吹き飛びなさい、無粋な羽虫ども!」


展開された魔法陣から、暴力的なまでの暴風と雷撃が螺旋を描いて解き放たれた。


破壊の奔流が玄関から迷宮の通路へと一直線に吹き荒れる。先陣を切っていた数十人の兵士と魔族が、悲鳴を上げる間もなく木の葉のように宙を舞い、外の岩壁へと叩きつけられていった。


凄まじい広範囲魔法の威力に、宿の壁がビリビリと震える。


「ちょ、ちょっと待てセレナ! 宿の中でそんな大魔法をぶっ放すな! 建物が保たん!」


俺が慌てて怒鳴ると、彼女はふんと鼻を鳴らし、乱れた髪をかき上げた。


「これでも手加減いたしましたのよ、店主。外壁の修理代はあちらの連中の懐から毟り取ればよろしいでしょう。それより、わたくしのタルトの仇を討つのが先決ですわ!」


高飛車に言い放つ彼女の背後から、さらに二つの気配が音もなく滑り出してきた。


「おいおい、派手にぶっ壊してくれたもんだな」


黒ずくめの軽装に身を包んだジンが、両手に細身のダガーを構えながら、低く冷ややかな声を漏らした。その腰には、皿洗いの最中だったのか、まだ湿った布巾がぶら下がっている。


「ジンさん、準備できました! いつでもいけます!」


その後ろから、小柄なポルクが木製のレバーを抱えて駆け寄ってきた。怯えたように耳を震わせてはいるが、その目には確かな覚悟が宿っている。


「ポルク、合図とともに一斉起動だ。厨房と客室を汚した落とし前は、きっちり払わせる」


「了解ですっ!」


ポルクが勢いよくレバーを引き倒した。


カチリ、と小さな金属音が響いた直後、侵入者たちの足元――宿の前庭から玄関にかけての床面から、無数の仕掛けが一斉に作動した。


迷宮の硬質粘土を利用した拘束トラップが敵の足首を捕らえ、天井付近に仕込まれていた発光粉末が炸裂して兵士たちの視界を奪う。さらに、ジンが素早く投擲した無数のクナイが、敵の関節や武器の結合部を寸分の狂いもなく射抜いていった。


「ぐわっ!? 足が動かん!」


「目が、目が見えねえ! 罠だ、伏兵がいるぞ!」


怒号と混乱が敵軍の隊列を急速に崩していく。


「よし、引っかかったな。……ここは俺たちの職場だ。土足で踏み荒らして無事で済むと思うなよ」


ジンは鋭い眼光で敵を射すくめ、影のように素早い身のこなしで前線へと飛び込んでいった。ポルクもまた、手にしたモップを槍のように構え、足止めされた敵の武器を的確に叩き落としていく。


人間も魔族もない。


かつては互いに殺し合っていたはずの客たちが、誰に命令されたわけでもなく、ただ己の安らぎを守るために手を取り合っていた。


傷だらけのクライドが剣で敵の斬撃を受け止め、その隙をセレナの精密な氷結魔法が穿つ。ジンが敵の背後を乱し、ポルクが機転を利かせて退路を塞ぐ。


見事なまでの連携だった。


「貴様ら……一体何の真似だ!」


後方で指揮を執っていたバルテルが、顔を真っ赤にして喚き散らしている。


「魔王軍の幹部が人間の小僧と組み、誇り高き騎士が魔族の肩を持つだと!? 正気か! そんな化け物じみた宿など、滅ぼさねばならんのだ!」


その叫びに対し、クライドが一歩前へ踏み出し、凛とした声で返した。


「正気ではないのは貴様らだ! 互いの立場を脱ぎ捨て、ただ温かい飯を食い、湯に浸かり、疲れた身体を休める……その尊さを理解できぬ貴様らこそ、戦の亡霊に憑りつかれた哀れな愚者だ!」


「よくぞ言いましたわ、騎士の坊や! 聞きましたこと、あのお粗末な指揮官? わたくしたちの至福を邪魔する者は、神だろうと魔王だろうと叩き潰すのみですわ!」


セレナの指先から、再び強烈な魔力の光弾が放たれる。


敵の第一陣は完全に瓦解し、宿の前庭には押し返された兵士たちが折り重なって倒れていた。圧倒的な数で蹂躙するはずだった侵攻軍の足並みは完全に止まり、前線の兵士たちの顔には明らかな動揺と恐怖が広がっている。


俺は息を整えながら、彼らの背中を見つめた。


かつて前線で戦っていた頃、俺はずっと一人だった。背負わされた期待と重圧の中、ただ剣を振り続けることしかできなかった。


だが、今ここにいるのは、道具として戦う戦士たちではない。


ただ自分の居場所を愛し、平穏な日常を守ろうとする、一癖も二癖もある愛すべき厄介な客たちだ。


「……やれやれ」


俺は小さく息を吐き出し、木刀の柄を軽く叩いた。


「客にここまで働かせちゃ、宿屋の親父として名折れだな」


敵軍の包囲網に生じた僅かな綻び。反撃の狼煙は確かに上がった。


だが、通路の奥にはまだ夥しい数の過激派軍勢が控えており、ザイードの凶悪な魔力も消えてはいない。全面的な解決には程遠く、戦況は依然として綱渡りの状態だった。


それでも、胸の奥底に燻っていた冷たい重圧は、いつの間にか消え去っていた。

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