↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
21/30

第21話

地響きが、床板を通して骨の髄まで伝わってきた。


冷え切った露天風呂の向こう、深層の暗がりから無数の足音が押し寄せてくる。靴底が岩肌を削る硬い音と、魔族特有の重い爪音が混ざり合っていた。かつて戦場で何度も耳にした、大軍勢の進軍音そのものだ。


「……数にして、三桁はくだらないな」


俺は息を吐き出し、腰の剣の柄に指を添えた。握り慣れた革の感触が、掌に嫌な汗を滲ませる。こんなものを握るために、迷宮の奥底に引っ込んだわけじゃなかった。


「店主様、敵の魔力反応が宿の周囲を完全に包囲しています」


青白い光を失ったノアが、壁に背を預けたまま報告を寄越す。その声にはいつもの冷徹な響きがなく、わずかにかすれていた。古代の魔導具による干渉は、迷宮の管理者としての彼女を極限まで消耗させているらしい。


「わたくしの甘味の時間を台無しにしてくれた不届き者は、どいつですの……!」


ロビーの奥から、セレナが肩を怒らせて歩み出てきた。艶やかなドレスの裾を翻し、両手にはすでに紅蓮の魔力を宿らせている。だが、その顔色は決して良くない。先の戦闘や結界の異常で、彼女自身も万全とは言えない状態だった。


「セレナ、客は奥へ引っ込んでろ。ここは俺の管轄だ」


「何を呑気なことを言っていますの! あんな品性の欠片もない連中に、この宿を好き勝手させろとおっしゃるの!?」


「客に戦わせる宿屋がどこにある」


短く遮り、俺は玄関の扉へと歩みを進めた。


その時、轟音とともに宿の正面窓が砕け散った。


鋭利なガラス片がロビーじゅうに撒き散らされ、冷たい風が室内に吹き込んでくる。外壁の木材がめりめりと音を立てて裂け、土煙が視界を遮った。


「ハハハ! 見ろ、これが剣聖とやらが作った情けない掘っ立て小屋か!」


煙の向こうから、聞き覚えのある甲高い笑い声が響いた。豪華な毛皮の外套を羽織った男――バルテルだ。その後ろには、帝国製の重装鎧に身を包んだ討伐隊の兵士たちが、長槍を構えて整列している。


「勝手に前線を放棄して隠居気取りとはな、レオン。貴様のその身勝手な振る舞いのせいで、私が中央でどれだけ恥をかいたか分かっているのかね?」


バルテルは歪んだ笑みを浮かべ、手にした指揮杖で宿の柱を指差した。その杖の先端には、怪しく脈動する古代の魔導具が嵌め込まれている。


「貴様を討ち、この迷宮深層の拠点を奪取すれば、私の地位は確固たるものとなる。貴様の首は、皇帝陛下への最高の献上品だ」


「相変わらず、くだらない出世欲で頭がいっぱいらしいな」


俺が吐き捨てると、バルテルの横からさらに巨大な影が踏み出してきた。全身を刺々しい黒甲冑で包んだ大男。その身体から立ち上るどす黒い魔力は、周囲の空気を重く淀ませていた。


「人間風情の利権争いなどどうでもいい」


地獄の底から響くような声だった。魔王軍過激派の将、ザイード。巨大な戦斧を軽々と肩に担ぎ、獰猛な瞳で俺を睨みつけている。


「ヴァルガスどもを骨抜きにし、魔族の誇りを奪ったこの忌まわしき巣窟を灰にする。弱者どもに休息など不要。力なき者は全て死あるのみだ」


人間と魔族。決して交わるはずのない二つの勢力が、宿を破壊するという一点のみで手を組んでいた。かつて俺が戦場で嫌というほど見せつけられた、醜悪な欲望と闘争心の塊がそこにある。


「おいおい、勝手に他人の家を壊しといて、随分と威勢がいいな」


俺は一歩、土間に降り立った。柄から手を離さず、切先をわずかに下げる。


「ここは宿屋だ。武器を捨てて金を払う気がないなら、今すぐ立ち去れ」


「フン、死に損ないの元剣聖が、まだ吠えるか!」


バルテルが杖を振るうと同時に、討伐隊の魔導弓兵が一斉に矢を放った。それと呼応するように、ザイードの号令で魔族の精鋭たちが突撃を開始する。


空を覆い尽くす魔力光の矢。地を揺るがす黒甲冑の群れ。


俺は無意識に息を止め、剣を抜き放った。


銀の軌跡が一閃する。


放たれた矢のすべてが、俺の周囲数メートルで綺麗に両断され、床に落ちて消滅した。間髪入れずに踏み込み、先頭の魔族戦士の武器だけを正確に叩き折る。返す刃で兵士たちの足元を払い、戦闘不能へと追い込んでいく。


かつて人類最強と呼ばれた技は、衰えてなどいなかった。間合いに入った敵は、誰一人として俺の切先を捉えることすらできない。


だが――。


「……ッ!」


守るべきものが多すぎた。


背後には、手傷を負った客たちがいる。ノアが、セレナが、壊れかけた宿の中にいる。俺が敵の突撃を防ぐために前へ出れば、宿の側面から回り込もうとする別動隊を止められない。俺が宿の壁を背に守りを固めれば、外からの魔導砲撃が建物を直接削り取っていく。


「死ねぇッ、剣聖!」


ザイードの戦斧が、空気を裂いて頭上から振り下ろされた。俺は剣の腹で受け流すが、その凄まじい質量と衝撃波が、宿の正面玄関を完全に吹き飛ばした。


土煙が舞い上がり、梁が悲鳴を上げて軋む。


「どうした、人間最強! 守りながら戦うことの不条理を味わうがいい!」


ザイードの猛攻を捌きながら、俺は視界の端で討伐隊の魔導兵が宿の外壁に火を放つのを捉えた。赤黒い炎が、丹精込めて磨き上げた木の壁を舐め上げていく。


「やめろ……!」


俺は叫び、ザイードを弾き飛ばして火元へ駆けようとした。だが、その隙を突いて放たれたバルテルの魔導砲撃が、宿の軒先を直撃した。


バキバキと凄まじい破壊音が深層の空間に木霊する。


宿の象徴として、入り口の上に掲げていた木彫りの看板――開店の日に自分の手で彫り上げたあの看板が、真っ二つにへし折れて地面に転がり落ちた。


乾いた音を立てて、泥と瓦礫の中に埋もれていく看板。


「ああ……」


喉の奥から、掠れた声が漏れた。


誰にも邪魔されない場所を作りたかった。血生臭い争いから離れ、ただ疲れた者を温かい飯と寝床で迎えるだけの、ささやかな場所を守りたかった。


だが、目の前で燃えているのは、俺が積み上げてきた平穏そのものだった。


押し寄せる軍勢の足音は途切れることがない。人間たちの傲慢な嘲笑と、魔族たちの凶暴な咆哮が、煙の中に満ちていく。どれだけ敵を切り伏せようとも、多勢に無勢の暴力は容赦なく宿を削り取り、侵食していく。


「終わりだ、レオン! 貴様の偽善の城も、貴様の命も、ここで燃え尽きるのだ!」


バルテルの勝ち誇った叫びが響く。


足元には折れた看板。背後からは建物の崩壊する音。そして、冷たく凍りついた空気が、傷口のようにぽっかりと空いた玄関から吹き込んできた。


剣を握る右手が、ひどく重かった。

一人きりで振るう刃の限界を突きつけられたような、底知れぬ無力感だけが、冷たい泥のように胸を満たしていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。