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第20話

吹き込む冷たい風を遮るように、俺は重い木扉をゆっくりと閉ざす。

蝶番が軋む音が、静まり返った広間に異様に大きく響き渡る。

意識を失ったクライドを背負い、俺は彼を慎重に床へと寝かせた。

常連客たちは誰一人として口を開くことができず、重苦しい沈黙だけが場を支配している。

外からは、ザイードの率いる軍勢の気配がひしひしと伝わってくる。

圧倒的な暴力の予感が、宿全体を真綿で首を絞めるように包み込んでいた。


「しっかりしろ。傷は浅い」


血に染まった鎧の留め具を外し、清潔な布で傷口を圧迫する。

息はある。だが、心身の消耗は激しい。

頼みの綱だった騎士すら、赤子の手をひねるように一蹴される現実。

俺は倒れたクライドを抱き起こしながら、外の闇を睨みつける。

剣聖としての力を使えば、あの狂人を斬ることはできるかもしれない。

だが、それはこの宿を再び血で汚し、戦場に変えるということだ。

俺が最も恐れている、忌まわしい過去への逆行。

抗う手段は、本当にそれしか残されていないのか。


誰もが絶望に沈む中、店の奥にある隠し通路の扉が不意に開いた。

転がり込んできたのは、見知らぬ数人の影だ。

豪奢なローブを纏った魔界の重鎮らしき者たちと、傷だらけのSランク冒険者たち。

彼らは外の包囲網を避け、迷宮の別ルートからこの場所の噂を頼りに逃げ込んできたらしい。

息も絶え絶えに床へ倒れ込み、荒い呼吸を繰り返している。


「ここが、安全地帯という宿か……」


呟く冒険者の一人が、顔を上げる。

だが、彼らの視線の先に魔族の姿が映った途端、空気は一変した。


「なぜ魔族がここにいる! 貴様ら、外の軍勢の回し者か!」

「人間どもめ、我らを罠に嵌める気か!」


極限状態のストレスが爆発し、双方が武器を構える。

一触即発の殺気が、静かな広間に充満した。

俺はクライドの血を拭った布を置き、ゆっくりと立ち上がる。


「武器をしまえ」


低く、腹の底に響く声で告げた。

全身から剣気を放ち、彼らの動きを縫い留める。


「ここは休息の場だ。店内で剣を抜くなら、俺が相手になる」


圧倒的な威圧の前に、新参者たちは顔を青ざめさせ、次々と武器を取り落とした。

争う気力すら奪い去るのが、この宿の掟だ。

俺は威圧を解き、厨房へと歩き出す。


「腹が減っているだろう。飯にするぞ」


温かい肉入りの汁物と、焼きたてのパン。

それを無言で平らげた彼らを、俺は露天風呂へと案内した。

湯煙の上がる広い岩風呂。

最初は互いに距離を取っていた人間と魔族も、湯の温もりに触れるうちに肩の力を抜いていく。

既存の常連客たちも湯に浸かり、言葉少なに杯を交わし始めた。

敵対する者同士が同じ湯を共有し、奇妙な連帯感を育む。

この宿が持つ憩いの機能は、まだ失われていない。


「少しでも時間を稼ぎます」


脱衣所の入り口で、白いローブ姿のノアが淡々と告げた。

彼女は迷宮の管理者権限にアクセスし、宿を覆う特区結界の出力を引き上げていく。

青白い光が壁面を走り、外からの圧力を跳ね返そうと脈打つ。

これで少しは持ちこたえられる。

そう安堵しかけた時、ノアの無表情な顔が微かに歪んだ。


「……権限が、書き換えられています」


彼女の指先が虚空を叩くが、青白い光は不規則に明滅し始める。

外にいるバルテルが、古代の魔導具を起動したのだ。

迷宮のシステムが外部からハッキングされ、ノアの持つ管理権限が次々と奪われていく。


「防げないのか」

「干渉の規模が大きすぎます。私の権限が、システムから切り離されていく……」


ノアの声に、初めて焦りが混じった。

直後、耳障りな亀裂音が響き渡る。

宿を覆っていた絶対安全圏の結界に、巨大なヒビが入ったのだ。

ガラスが砕けるような音と共に、光の壁が崩落していく。


五十階層に渦巻く狂暴な魔物たちの気配。

そして、ザイード軍のどす黒い殺意。

それらが遮るものを持たず、宿の中へと直接流れ込んでくる。

平穏の象徴だった露天風呂の湯が、急速に冷え始めた。

湯気を失い、ただの冷たい水へと変わっていく。


俺は腰の剣に手を当て、暗闇に包まれた入り口を睨みつけた。

結界が消え去ったこの場所に、果たして何が押し寄せてくるのか。

抗う術を持たぬまま、静かな絶望だけが足元から這い上がってきた。


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