第25話
厨房の寸胴鍋から立ち上る、じっくり煮込んだ骨付き肉と香味野菜の香気が、戦場の血生臭さを塗りつぶすように広がっていく。
「行くぞ、悪漢ども! 我が剣は、この至高の香りと安らぎを守るためにある!」
クライドが銀の甲冑を軋ませ、雷光を纏った大剣を一閃させた。
鋭い斬撃が過激派の先鋒たちを弾き飛ばし、硬い迷宮の床に転がす。普段は独善的で思い込みの激しい男だが、剣の腕とまっすぐな気迫だけは本物だ。その背中を頼もしく感じている自分が少し可笑しかった。
「調子に乗るなよ、人間の小僧がぁ!」
魔王軍過激派の兵たちが怒号を上げ、槍を構えて殺到する。だが、彼らが間合いに踏み込むより早く、頭上から凄まじい熱波が降り注いだ。
「ええい、鬱陶しい羽虫どもが! わたくしの極上ハーブティーとスコーンの時間を台無しにした罪、万死に値しますわ!」
セレナが真紅のドレスを翻し、真紅の魔導杖を振り抜く。
放たれた火炎球は前庭で炸裂し、突撃してきた魔族の部隊を壁際まで一網打尽に吹き飛ばした。仲間であるはずの魔族に対しても、一切の容赦がない。甘味の時間を奪われた彼女の怒りは、天災に等しかった。
「ええい、不甲斐ない奴らめ! どけ、俺自らが叩き潰してくれる!」
部下たちの無様な敗走に業を煮やし、巨漢の魔族――将軍ザイードが地響きを立てて前に進み出た。
身の丈を優に超える禍々しい黒漆の大剣を構え、全身からどす黒い闘気を噴出させている。人間との共存など断じて認めないという、剥き出しの敵意と破壊衝動がその巨躯から渦巻いていた。
「たかが宿屋の飯と風呂に絆された腑抜け共が……まとめて塵にしてやる!」
ザイードが地面を蹴った。巨体からは信じられない速度で間合いを詰め、渾身の一撃をクライドめがけて振り下ろす。
「くっ……!」
クライドは大剣を交差させて受け止めたが、凄まじい衝撃波が石畳を粉砕し、銀の鎧が悲鳴を上げた。足がじりじりと後退し、膝が屈服するように震える。純粋な膂力と闘気の総量では、百戦錬磨の魔王軍幹部が一枚上手だった。
「死ねい、人間の蛆虫が!」
ザイードがさらに体重を乗せ、クライドを両断せんと力を込める。
「誰が死ぬと言ったかしら? そいつはわたくしの大切な『話し相手』なのよ!」
鋭い詠唱とともに、セレナの放った圧縮火炎弾がザイードの側頭部に直撃した。
轟音とともに黒甲冑の兜が弾け、巨漢の首が強引に横へと薙ぎ倒される。ザイードの剣圧が僅かに緩んだ瞬間を、クライドは見逃さなかった。
「はあぁぁっ!」
下からの強烈な掬い上げでザイードの凶刃を弾き返し、大きく体勢を崩させる。
「小癪な真似を……貴様ら、魔族の誇りをどこへ捨てた!」
ザイードが激高し、踏み止まって大剣を構え直そうとした。しかし、その足元でカチリと硬質な金属音が鳴る。
「ひ、ひえぇぇっ! 踏んじゃいましたね! 僕が磨いたピカピカの床を土足で汚すからですよ!」
物陰からモップを抱えたポルクが叫ぶ。
彼が仕掛けていたのは、迷宮のフロア清掃用に調合された高粘度スライム油のトラップだった。さらに、廃棄された武具の部品を組み合わせた拘束ワイヤーが、ザイードの足首に幾重にも巻き付く。
「ぬぐっ……なんだこの下らん細工は!」
「下らんとは心外です! 宿の掃除を舐めないでください!」
ポルクが引っ張ったロープに連動し、天井から巨大な木樽が落下した。中からぶち撒けられたのは、厨房の生ゴミと油が混ざり合った特製粘着液だ。全身に悪臭と粘液を浴びたザイードは、完璧に視界と足場を奪われて激しくよろめいた。
「おのれぇぇぇっ!」
視界を塞がれたザイードが狂ったように大剣を振り回すが、その大振りな軌道はジンに完全に見切られていた。
影のように背後へ滑り込んだジンが、逆手に持った短剣で黒甲冑の関節部にある革ベルトを的確に切断する。装甲が剥がれ落ち、隙だらけになった巨体へ、クライドの強烈な体当たりとセレナの爆風魔法が同時に叩き込まれた。
凄まじい轟音とともに、ザイードの巨体が吹き飛び、宿の前庭に転がった。
「ぐ、あ……馬鹿な……この俺が、このような寄せ集めの烏合の衆に……!」
ザイードは血を吐きながら膝をつき、信じられないものを見る目で彼らを見上げた。
そこには、互いに背中を預け合い、肩で息をしながらも鋭い視線を向ける人間と魔族の姿があった。本来なら殺し合うはずの者たちが、ただ一つの「日常」を守るために完璧な連帯を見せている。
俺は木べらを置き、湯気の立つ鍋に蓋をした。
外へ出て木刀を振るう必要など、最初からなかったらしい。彼らにとって、ここはもはや誰かに与えられるだけの場所ではなく、自分たちの手で守るべき帰る場所になっていたのだ。
「もう終わりにしろ、ザイード」
クライドが大剣の切っ先を突きつける。
だが、打ち倒されたはずの巨漢は、瞳の奥に狂気の炎を宿したまま、不気味に喉を鳴らして笑い始めた。
「……く、くく……認めん……断じて認めんぞ……! 魔族と人間が馴れ合うなどという汚らわしい妄執、この手で根こそぎ消し去ってくれる!」
ザイードの全身から、これまでとは次元の違う禍々しい黒紫色の魔力が噴き上がり始めた。
甲冑の隙間から溢れ出る光は、彼の肉体そのものを蝕み、崩壊させながら膨れ上がっていく。それは敗北を悟った者が選ぶ、自らの命を薪にした最後の自爆術式だった。
「貴様らも、この忌まわしい宿も……階層ごと消し飛ぶがいい!」
前庭の大気が異様な重圧で軋み、迷宮の岩壁に亀裂が走り始める。
追い詰められた魔将の狂気配が、一瞬にして宿全体を破滅の予感で包み込んでいた。




