第18話
血の匂いが染み付いた布を、ジンが水桶で静かに洗っている。
水が赤黒く濁っていくのを、俺は腕を組んで見下ろしていた。
ガストンの寝息は浅く、時折苦しげな呻き声を漏らしている。
バルテルの私兵に襲われ、命からがら逃げ込んできた彼の体には、無数の刃傷が刻まれていた。
「熱は下がってきた。だが、目を覚ますにはまだ時間がかかるだろう」
ジンが濡れた手を拭いながら、低い声で告げる。
「ああ。手当ては十分だ。あとは本人の体力を信じるしかない」
俺は無言で頷き、厨房の奥にある貯蔵庫へと足を向けた。
冷やりとした空気の中、木箱の中身を確認する。
干し肉が数ブロック、根菜が少し、小麦粉の袋が半分。
地上からの物資ルートが絶たれた今、これが俺たちの命綱だった。
「切り詰めても、持って三日というところか」
胃の奥に冷たい石を飲み込んだような感覚が広がる。
圧倒的な武力があっても、空腹を満たすことはできない。
剣を振るえば敵は死ぬが、パンを生み出すことはできないのだ。
真綿で首を絞められるような焦燥感が、じわじわと宿全体を侵食し始めていた。
◆ーーーー◆
翌朝。
ジンとポルクが、裏口から迷宮の通路へと足を踏み出した。
「俺とポルクで、少しでも食えるものを探してくる」
ジンが黒ずくめの軽装を整えながら言った。
「周辺に生えている淡く光る菌類なら、毒抜きすればスープの具になる。運が良ければ、迷い込んだ魔物の肉も手に入るはずだ」
「気をつけて行ってきてくださいね……僕、戦うのは苦手ですから」
ポルクがびくびくしながらジンの背中に隠れるようにして続く。
二人は裏口から迷宮の通路へと足を踏み出した。
俺は厨房に残り、残された食材の計算を続ける。
だが、一時間も経たずに彼らは手ぶらで戻ってきた。
ジンの表情は険しく、ポルクは涙目になっている。
「どうした。何かあったか」
「駄目だ。上層へ続く階段は完全に塞がれている」
ジンが忌々しそうに舌打ちをし、腰の短剣から手を離す。
「黒い甲冑を着た魔族の部隊が、隙間なく陣取っていました……見つかったら殺されます」
ポルクが青ざめた顔で震え、長い耳をぺたりと伏せた。
ザイードの私兵たちだ。
迷宮の入り口はバルテルの手下に、五十階層の周辺は魔王軍の過激派に包囲されている。
完全に袋のネズミだった。
外の空気を吸うことすら許されない閉塞感が、厚い壁となって立ちはだかっている。
◆ーーーー◆
昼過ぎ、重い扉が乱暴に叩かれた。
転がり込んできたのは、見覚えのある一般の冒険者たちだった。
「助けてくれ! 帰ろうとしたら、上の階層で魔族の軍勢に襲われたんだ!」
彼らは全身傷だらけで、息も絶え絶えだった。
俺は彼らを空き部屋へ運び、傷の手当てをした。
さらに数時間後。
今度は、四天王の男の噂を聞きつけて休養にやってきた魔界の重鎮たちや、迷宮攻略を目指していたSランク冒険者たちが、次々と逃げ込んでくる。
彼らもまた、ザイードの封鎖網に阻まれ、命からがらこの安全地帯へ逃げ延びてきたのだ。
普段なら絶対に交わることのない強者たちが、狭いロビーにひしめき合う。
極限の緊張状態。
傷ついたSランク冒険者の一人が、隣に座り込んだ魔界の重鎮を見て剣を抜いた。
「なぜ魔族がここにいる! 貴様ら、俺たちを罠に嵌めたな!」
「黙れ人間。我らも同胞に裏切られ、追われている身だ」
魔族側も殺気を放ち、爪を立てる。
一触即発。
俺は調理台の奥から歩み出た。
鞘に収めたままの剣の柄に手をかけ、床を強く踏み鳴らす。
空気が凍りついた。
「ここで暴れる奴は、俺が即座に叩き斬る。座れ」
静かな、だが一切の反論を許さない声。
圧倒的な威圧感を前に、人間も魔族も顔を引きつらせ、武器を下ろした。
「店内での争いはご法度だ。相手が誰だろうと、休みたい奴は公平に扱う」
◆ーーーー◆
夜。
ジンが残り少ない備蓄と、わずかに採集できた野草を煮込んでスープを作った。
具材はほとんどない。
だが、温かい湯気がロビーに漂うと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「食料は限られている。だが、ここにいる間は客だ。残さず食え」
俺が器を配ると、敵対していたはずの人間と魔族が、同じテーブルで無言のままスープをすすり始めた。
食後、彼らは連れ立って露天風呂へと向かう。
湯船の端と端で睨み合っていた者たちも、やがて疲労に勝てず、深く息を吐いて湯に沈んだ。
「外に出れば殺し合いだが、今は同じ囚人か」
Sランク冒険者が自嘲気味に呟くと、魔族の重鎮が鼻で笑う。
「違いない。あの黒甲冑の狂人どもをどうにかせねば、我らも干からびるだけだ」
強制的な中立ルールの下、同じ釜の飯を食い、一緒に湯船に浸かる。
閉塞しきった状況が、彼らの間に奇妙な連帯感を生み出していた。
だが、根本的な問題は何も解決していない。
俺は厨房の奥で、空になりかけた木箱を見つめた。
食料はあと三日分。
外に出ることも、物資を得ることもできない。
真綿で首を絞められるような、じわじわと迫り来る孤立感。
客たちの安らぎの場所は、確実に死の淵へと追いやられている。
この閉塞状況を、一体誰が打破しようというのか。
重苦しい沈黙だけが、迷宮の底に澱み続けていた。




