第16話
翌朝。厨房で仕込みを終えた俺は、ラウンジの方から聞こえてくるやかましい槌の音に耳を傾けていた。
ドランが客室の増築やラウンジの拡張に精を出しているのだ。
「店主、こっちの壁もぶち抜いて広げといたぞ。これだけ客が来りゃ、元の広さじゃ手狭だからな」
木屑まみれのドランが、上機嫌で顔を出した。
彼の太い腕がハンマーを振り下ろすたびに、迷宮の硬い岩盤がいとも容易く崩れ落ちていく。
さすがは超一流のドワーフ職人だ。
「助かる。あんたの仕事は相変わらず早いな」
「へっ、俺の腕を舐めるなよ。それに、俺が作った宿がどんどんデカくなっていくのは、職人として最高の気分だからな。美味い酒とつまみさえ用意してくれりゃ、いくらでも働いてやるぜ」
ドランはそう言って、腰に下げた工具袋を叩いた。
実際、宿の客は日に日に増えていた。最初の客だった大男の口コミが広がったのか、最近では魔界の重鎮や、人間側の現役勇者アリス、Sランク冒険者たちまでもが、次々とこの五十階層の安全地帯に休養を求めて訪れるようになっていたのだ。
過酷な環境であるはずの深層に、規格外の強者たちが集い始めている。
かつての戦場ではあり得なかった光景だ。
人間と魔族が、同じ屋根の下で休息を求めている。
この奇妙な状況がいつまで続くのか、俺にも分からなかった。
だが、彼らが疲れ果ててこの場所を訪れる限り、俺は極上の飯と寝床を提供するだけだ。
そして、懸念していた事態は昼下がりに起きた。
ラウンジの奥のテーブルで、魔界の重鎮である角の生えた老魔族が茶をすすっていた時のことだ。
入り口の扉が重々しい音を立てて開き、アリスたち人間側のパーティーが足を踏み入れた。
彼らは迷宮の過酷な道のりを越えてきたばかりで、全身に疲労の色を濃く滲ませている。
だが、ラウンジの奥に座る老魔族の姿を認めた瞬間、アリスの空気が一変した。
「……魔族!」
アリスが鋭い声を上げ、瞬時に剣の柄に手をかけた。
老魔族も目を細め、手元の杖を握り直す。
「ふん。人間の小娘が、我らの休息を邪魔する気か」
一瞬にして、ラウンジの空気が張り詰めた。
一触即発。互いの放つ魔力と闘気がぶつかり合い、空間がビリビリと震える。
「ま、待て! ここでは……!」
近くにいたクライドが慌てて止めに入ろうとするが、両者の殺気はすでに頂点に達しようとしていた。
俺は厨房からゆっくりと歩み出た。
「そこまでだ」
低く、しかしラウンジの隅々にまで届く声で告げる。
同時に、俺は自身の気をわずかに解放した。
空気が凍りつき、アリスも老魔族も、息を呑んで硬直する。
「ここは俺の店だ。中で暴れるなら、どっちの陣営だろうが即座に叩き斬る」
俺は二人の顔を交互に見据えた。
「飯を食って休む気がないなら、今すぐ出て行け」
圧倒的な力の差を前に、アリスは唇を噛み、ゆっくりと剣から手を離した。
老魔族も舌打ちをして、杖をテーブルに置く。
「……失礼した、店主。血の気の多い若造を見ると、ついな」
「私も……取り乱しました。ごめんなさい」
平和な宿屋の運営を脅かす争いは、こうして強制的に鎮圧された。
絶対の中立地帯。それが、この宿の唯一のルールだ。
強制的な中立ルールの下、彼らは同じ空間で過ごすことになる。
夕食の時間。ジンとポルクが忙しく立ち働き、大皿に盛られた肉料理や焼き菓子を次々と運んでいく。
最初は互いに距離を取り、睨み合っていたアリスと魔族たちだが、料理を一口食べるとその表情が目に見えて緩んだ。
「……美味しい」
アリスが目を丸くして呟く。
「うむ、この味付けは悪くない。素材の旨味が引き立っておる」
老魔族も満足げに頷いた。
食事が進むにつれ、張り詰めていた空気は次第に和らいでいく。
「お前さん、なかなかいい剣筋をしているな。先ほどの身のこなし、見事だったぞ」
「あなたこそ、その杖の魔力……ただ者じゃないわね」
敵対勢力同士が同じ釜の飯を食い、言葉を交わす。
さらに、ドランが作った自慢の露天風呂が、彼らの距離を決定的に縮めた。
湯船に浸かりながら、クライドと魔族の戦士が「お前、なかなかいい筋肉してるな」「貴様もな」などと、裸の付き合いを通して奇妙な連帯感を育んでいる。
俺は厨房から、その賑やかな光景を静かに眺めていた。
終わりの見えない戦いに疲れていた俺にとって、この温かい居場所は、心から「これも悪くない」と思えるものになっていた。
夜。営業を終え、静寂に包まれた宿のカウンターで、俺は愛用の剣を手入れしていた。
刃こぼれ一つない刀身を布で拭いながら、静かな決意を固める。
この平穏な日常を脅かす者が現れたなら、今度こそ自分の意志で剣を振るって守り抜く。
だが、俺の知らぬところで、事態は動き始めていた。
◆ーーーー◆
地上の王都。薄暗い執務室で、強硬派のバルテルは忌々しげに報告書を叩きつけた。
「あの宿のせいで、迷宮攻略が完全に停滞しているだと……!」
そこに、影の中から声が響く。
「同感だな、人間。我ら魔王軍にとっても、あの腑抜けた空間は目障りだ」
現れたのは、魔王軍過激派のザイードの使者だった。
人間と魔族。本来なら殺し合うはずの過激派同士が、宿という共通の標的を前に結託しようとしている。
不穏な気配が、静かに膨れ上がっていた。




