第15話
「誰が来ようと、ここは俺の宿だ。それだけは変わらぬ」
ガストンが呆れ顔で肩をすくめ、迷宮の上層へと続く転移門の方へ歩き出す。
その後ろ姿を見送った俺は、静寂を取り戻したラウンジへと視線を向けた。
そこには、魔王軍幹部の威厳など微塵も感じさせない女が一人。
セレナは露出度の高いドレスの裾をだらしなく崩し、ふかふかのソファに深く沈み込んでいた。
テーブルの上には、ガストンが置いていった高級茶葉で淹れた紅茶と、俺が試作したフルーツの焼き菓子が並んでいる。
芳醇な茶の香りが、甘いバターの匂いと混ざり合って空間を満たしていた。
「ああ……この甘みと酸味の絶妙な調和。わたくしの美貌をさらに輝かせる至福のひとときですわ……」
彼女はうっとりと頬を押さえ、完全に骨抜きになっている。
魔王軍の任務など、頭の片隅にも残っていないのだろう。次のおやつは何が出てくるのかと、そればかりを気にしている様子だ。
「あんた、少しは危機感を持ったらどうだ。一応、幹部なんだろう」
俺が呆れ気味に声をかけると、セレナは不満げに唇を尖らせた。
「あなたね、こんな極上のスイーツを前にして、野暮なことを言わないでちょうだい。わたくしは今、この焼き菓子の層を一枚ずつ味わうという重要な任務で忙しいのよ」
忙しいと言いながら、彼女は二つ目の焼き菓子に手を伸ばしている。
指先に付いた粉を舐め取る仕草は、どこからどう見てもただの食い意地の張った女だ。
やれやれと息を吐き、俺は厨房へ戻って夕食の仕込みを再開した。
最近の宿は、セレナのような常連が居座る一方で、さらに騒がしさを増している。
店を開けた最初の日にやってきた魔族の猛将が、どうやら同胞たちに噂を広めたらしい。魔界の重鎮や名だたる魔物たちが、次々と休養を求めて五十階まで降りてくるようになったのだ。
それだけではない。
迷宮攻略を目指す人間側の現役勇者アリスや、各地で名を馳せるSランク冒険者たちも、この特異な安全地帯を発見し、足を運ぶようになっている。
過酷な環境であるはずの深層に、規格外の強者たちが集結しつつある。
当然、陣営の異なる者同士が顔を合わせれば、平穏無事とはいかない。
今日もまた、厄介な事態が起きた。
入り口の重い扉が軋み、血の匂いを漂わせたSランク冒険者のパーティーが足を踏み入れた直後のことだ。
彼らは満身創痍でありながらも、鋭い眼光を保っていた。だが、その視線の先に湯上がりの魔族の重鎮が腰を下ろしているのを発見し、空気が一変する。
「なぜこんな深層に魔族が……! 構えろ、討伐するぞ!」
冒険者たちが鋭い声と共に武器を抜き放つ。
対する魔族もまた、不快げに目を細めて強烈な殺気を膨れ上がらせた。
一触即発の空気がラウンジを満たし、他の客たちも息を呑んで事態を見守る。
だが、俺は手元の布巾を配膳台に置き、静かに彼らの間へ歩み出た。
「武器をしまえ。ここで暴れるなら、即座に叩き斬る」
言葉と共に、ほんの僅かだけ剣気を解放する。
空気が凍りつき、冒険者たちの顔から一瞬にして血の気が引いた。魔族の重鎮もまた、冷や汗を流して動きを止める。
肌を刺すようなプレッシャーが、彼らの闘争心を強制的に押さえ込んだのだ。
「ここは休むための場所だ。従えないなら帰れ」
俺の低い声に、彼らは震える手で武器を収めた。
相手が誰だろうと、休息を求めるなら等しく迎え入れる。それが俺のやり方だ。
いかなる諍いも許さないという絶対の掟を、圧倒的な力で分からせる。
常連客であるアリスは、「新顔さん、親父さんを怒らせると迷宮のボスより怖いよ」と笑いかけ、セレナも「ええ、わたくしのティータイムを邪魔するなら、灰にして差し上げますわ」と同意するように紅茶をすすっていた。
強制的に争いを鎮圧された彼らは、やがて同じ空間で過ごすことを余儀なくされる。
夕食の時間。俺が用意した大皿の肉料理を前に、人間も魔族も関係なく席についた。
香草で焼き上げた分厚い肉から、食欲をそそる匂いと肉汁が溢れ出している。
俺は追加のパンとスープをテーブルに置き、彼らの様子を静かに見守った。
最初は互いに警戒し合い、視線を逸らしていた新顔たち。
だが、極上の食事を口に運ぶうちに、その強張った表情は次第に緩んでいく。
「……美味いな、これ」
冒険者の一人がぽつりと呟くと、向かいに座っていた魔族が鼻を鳴らした。
「ふん。人間の分際で、味覚だけはまともなようだな」
憎まれ口を叩きながらも、魔族の皿はすでに空になっている。
食後は露天風呂だ。湯煙の中で裸になれば、種族の壁や立場の違いなど意味をなさない。
地下空間でありながら、天井に群生する発光キノコが星空のような淡い光を落としている。その幻想的な光景の中で、彼らは武器を置き、ただの疲れ果てた者として湯に身を委ねていた。
広い湯船に浸かりながら、かつての敵同士が短い言葉を交わす。
「お前さん、いい剣筋だったな。迷宮の道中で見かけたぜ」
「貴様こそ、悪くない魔法の腕だ。少しは骨がありそうだな」
湯船の縁に並んで寄りかかり、彼らは互いの傷跡を指差して笑い合っている。
陣営のしがらみを忘れ、ただの戦士として湯に浸かるその横顔に、先ほどの殺気はもうない。
俺は脱衣所に新しい手拭いを補充し、静かにその場を離れた。
だが、この平和な箱庭を快く思わない者もいる。
ガストンがもたらした情報によれば、地上では強硬派のバルテルという男が苛立ちを募らせているらしい。
彼が放った暗殺者からの連絡が完全に途絶えたことで、焦りを感じているのだろう。俺を排除しなければ自分の立場が危うくなると考え、水面下で討伐隊の組織を進めているという。
その証拠に、迷宮の通路の奥から、微かな気配が近づいてくるのを感じ取った。
バルテルが放った偵察兵だろう。隠密行動に長けた者の、足音を殺した動きだ。
俺は厨房の窓から、暗い通路の方へ視線を向ける。
俺の感覚は、暗闇に潜むその微かな震えを正確に捉えていた。
偵察兵は宿の敷地の手前までやってきた。
だが、そこでピタリと足を止める。
無理もない。宿の周囲には、勇者や魔族の重鎮たちが放つ圧倒的なオーラが渦巻いているのだ。
さらに、迷宮自身がこの場所を特別な領域として認識し、不可視の結界を張っている。
少しでも敵意を持って近づけば、ただでは済まないという圧迫感が、周囲の空気を重く沈ませていた。
地上の権力闘争に明け暮れる者たちには、この深層の異常さは理解できないだろう。
偵察兵の気配は激しく動揺し、やがて弾かれたように踵を返して逃げ去っていった。
俺はそれを追うこともなく、静かに見送る。
手出しを諦めて引き返したという事実は、ひとまずの防衛成功を意味している。
だが、逃げ帰った者の報告を聞けば、地上の強硬派はさらに過激な手段に出るかもしれない。
バルテルは次に、どのような手を打ってくるのか。
不穏な予感は拭えない。
それでも、俺のやるべきことは一つだけだ。
「さて、明日の仕込みをするか」
俺は厨房に戻り、静かに包丁を握り直した。
極上の食事と安らげる寝床を用意し、訪れる者たちを癒やす。
誰が来ようと、ここは俺の宿だ。
その平穏を脅かす者が現れたなら、ただ斬り捨てるだけのことである。




