始まりの日
蛇口から流れる水をまたしても眺める男が一人。
ただ茫然と排水溝を見ていた。
男は目線を鏡まで上げる。
先程までの金髪で柔らかい表情をしていた優男とは異なり、大きく顔のパーツが異なっているわけではないが、眼光は鋭く髪色も黒になっており全体的に暗い印象を見る人に与える。
これが石邏時羅師本来の姿であり、仕事着でもある。
洗面所から離れる。
リビングへ行くとソファに樺が座っていた。
「準備できました?」
そう言うと羅師の方を見る。
先程とは大きく違う羅師の姿を見て寧ろ安心したような表情を見せる。
「やっぱり先生はその姿じゃないと違和感がありますね」
軽く笑いながら言う。
その言い草に羅師は少し不満そうに返す。
「優しい俺は変ってか?」
「いいえ?そう言うわけじゃないんですけどね。さ、準備できたならさっさと行きましょう」
樺は立ち上がり玄関の方へ歩く。
その後ろ姿に羅師は一つ質問をする。
「一応、本当についてくるのか?俺に依頼された仕事だからわざわざついてこなくても問題は」
「私が弱いからですか?」
振り返ることなく食い気味に樺が言う。
「いや、ただ昨日が初めてでこんな早くに二回目ってのはメンタル的に」
「それなら問題ないです。それに今回は本当に付いてくだけですし、何か起きない限りしっかり外で待ってますよ」
そう言うと玄関を開けて外に出ていった。
その様子を見て羅師はため息をつく。
「少し過保護が過ぎるか…」
玄関に行く前に羅師は自室へ入る。
机とベットのみの広さの割に物がほとんどない部屋。
ファイルが幾つか立てかけてあるだけの机の引き出しから一つの箱を取り出す。
指紋、虹彩認証でロックを解除すると刃渡りが5センチ程で刃まで黒く塗られたナイフが数本仕舞われていた。
その中から一本を取り出すとコートの袖部分に仕込む。
二重構造になっている箱をスライドさせると拳銃が一丁仕舞われているため手に取る。
慣れた重みに安心感すら湧いて出る。
弾倉の中身を確認し、一発薬室に送り込んでおく。
羅師は黒光する拳銃を見て、打つことがなければいいなと思いながらコートにしまう。
「銃よし、ナイフよし、準備よし」
羅師は自室を出て玄関へ向かう。
履き慣れた靴を履いて外へ出ると待ち侘びたように樺がこちらを見ていた。
「お待たせ」
「お待たせられました、紙袋はいいんですか?」
前回していた紙袋を持っていない羅師に問う。
「今回は見られても別に問題ないし良いかな」
エレベーターが来る。
そのまま地下駐車場へ向かい、車へ乗る。
「それにしても先生。依頼ってこんなに高頻度で来る物なんですか?」
車を出してからしばらく経った頃樺が聞く。
ナカシマの邸宅は郊外にあり、都市の中央部にある羅師の自宅からだとそこそこ遠い。
「いや、平均して半年に一回あるぐらいで月に一回あったらかなり多いって感じ。ま、でも今回みたいに地続きの依頼なら連続して数人ってこともある。かなり珍しいけど」
「そうなんですね。…ちなみになんですけど先生っていくつなんですか?私が物心着く頃には保護者として一緒に暮らしていたわけですけど、私の記憶が確かならずっと二十代後半ぐらいの見た目なんですが…」
樺は聞きづらそうに質問する。
それを聞いて羅師はケラケラと笑う。
「あー、そんなこと?寧ろなんで今まで聞いてこなかったか不思議に思ってたんだけどな」
「なんか申し訳ないじゃないですか、それにそんなこと考える暇ないぐらい訓練がキツかったですし」
「そう?そうかー。今いくつか、ね?聞きたかったら俺を殺せるぐらい強くなりなさい」
その羅師の答えに樺は呆れる。
「それができるなら苦労はしませんよ…」
樺は拗ねたようにフードを深く被り窓の外を見始めた。
そのまま車内は静かのままナカシマの邸宅に到着した。
「着きましたね、それじゃあ私はこのまま車内に待機しているので」
「うん、行ってくるよ」
羅師は運転席から降りて、正面玄関へ向かう。
当然監視カメラがあるが気にも留めない。
「玄関のロックは電子のみか、ちゃんと物理キーもつけた方がいいぞナカシマくん」
そう言うとポケットからカードを取り出す。
それをロックにかざすと簡単に解錠される。
「お邪魔しまーす」
小声でそう言うと玄関をくぐり中へ入る。
ツン、と鼻に刺激が走る。
不快感を覚える腐乱臭と、酸化して錆びた鉄のような匂いが極小さく、だが確実にした。
仕込んでいたナイフを構え匂いのする方へ向かう。
資料によるとリビングの方向から匂いは発せられているようだった。
足音がしないように長い廊下を歩く。
道中にも部屋は幾つもあったが見るまでもなくそのどれからも人がいる気配がしない。
そもそもこの家に人がいる気配がない。
玄関には三足の靴が並んでいたこと、車庫にも車が停められていたことから出かけているのは考え難い。
「さて、何が起きたのやら」
リビングの扉を勢いよく開ける。
十数人でパーティを開いても余裕があるほど広くリビングには壁掛けの巨大なテレビと5、6人掛けのソファ、傍には観葉植物だろうか、3人暮らしには持て余すほど大きな机それら全てに赤黒い血が付着していた。
窓が閉まっておりリビングは暗くなっているが明らかに二名の遺体が床とソファに転がっていた。
おそらく女性のものと思われるそれは上半身が大きく変形しており身元はわからないが恐らくナカシマの妻であろうと推察できた。
ソファに寝るように転がっている子供のそれは女性のものと比べると損傷は少ないが下腹部に大きな穴が空いていた。
血の海となった床の血をどうにか避けながら遺体へ近づく。
「こりゃひどい。誰かが恨み持ってやった感じか?この調子だとナカシマ本人も」
床に転がった女性の遺体に近づき状態を見ようとしゃがみ込んだところで気づく。
テレビの方から何か感じる。
血を踏むのも構わず大きく距離を取る。
部屋の隅、全体的に暗かったためであろう観葉植物だと思っていたそれは、全身をボロボロの布で覆い頭にはバケツのようなものを被った二メートルほどある人型の何かであった。
とても人間には見えないが、よく見ると身体的構造は人間であることがわかる。
「お前か?これやったのは」
ナイフをコートの裾へ仕込み直し、わざと両手を見せるようにおどけて聞く。
するり、と流れるような無駄のない所作でそれは動く。
バケツで目は見えないが恐らくこちらを見ているのであろうそれは、顔を覆っているとは思えないほど澄んだ低い声で返事を返す。
「ああ、そうだ。その二人は我に敵意を向けてきた。そのためこうした」
その声にはこちらに対する敵意はないようであった。
とりあえず話が通じることに安堵した羅師は続けて聞く。
「そうか、ところでなんだがナカシマテツヤって男のこと知ってるか?この家に住んでるはずなんだが」
その問いに少し考えるような動作をとってからそれは答える。
「ああ、それはこの体の名前だな」
羅師はその返答を聞き切るより早くそれとの距離を詰めていた。
コートに仕込んだナイフを滑らすように取り出し構える。
正面に立って尚、不意打ちとして成立する程の速さ。
バケツから覗く首にナイフを突き刺す。
金属同士がぶつかるような音がリビングに響く。
人体であれば例え骨であろうと両断する羅師のナイフが皮一枚断ち切ることもできずに弾かれる。
羅師は驚きで目を見開く。
もう一撃入れようと体勢を整えようとしたが体に大きな衝撃が走る。
爆音を立てて壁に激突する。
見ると大男の腕が横に振り抜かれていた。
振り払うような動作で端から端まで吹き飛ばされたようだった。
大男は緩慢な動作で吹き飛ばされた羅師の方をみる。
「お前も敵か」
羅師は立ち上がり体の様子を確かめる。
幸い、筋肉が幾つか切れただけのようで激痛はあれど骨は折れていないようであった。
おそらくあの状態になることが薬の作用なのだろう。
性格、それどころか人格そのものが変わっているように思える。
そもそもアレはナカシマなのだろうか。
そういった疑問が羅師の頭によぎる。
写真で見た外観は、今目の前でこちらを見ている大男とは大きく異なる。
「はー、気にしたって無駄だな」
大きく息を吐き、もう一度ナイフを構える。
「次は殺すぞ」
忠告するように大男が言う。
「できるもんなら」
羅師は台詞を言い切らずに駆けた。
羅師のナイフの射程内、つまり大男の腕の射程内に入った羅師はもう一度同じ位置を狙ってナイフを振るう。
ナイフが届くよりも早く大男の腕が羅師へ襲いかかる。
かなり早いがそれを警戒している羅師からすれば対処するのは簡単なことであった。
飛んでくる拳に対してナイフの刃を当てがう。
人の皮膚と対峙しているとは思えない金属音が鳴り響くが先程とは異なり吹き飛ばず、受け流す。
流れ、無防備となった首筋目掛けてナイフを振り下ろす。
金属音が家全体に響き渡る。
羅師は確かな手応えを感じ、大きく今日を取る。
大男は首筋を抑えその場から動かない。
羅師の手元から異音が聞こえた。
見るとナイフがひび割れていた。
「マジか」
思わず呟く。
この状態では刺すことだけでなく、ある攻撃を受け流すことすらできないだろう。
「どうする?このまま一思いに殺されるか、足掻いて苦痛に苦しみながら死ぬのか」
動き出した大男が言う。
首筋には先ほどまでなかった皺のようなものが出来ていた。
「足掻かせてもらおうかな」
「そうか」
そう言うと大男の姿がブレた。
反射的に左へ避けると凄まじい勢いで腕が通過する。
その風圧で床に投げ出される。
反撃のタイミングをどうにか探りながら、連撃を間一髪のところで避け続ける。
しかしその状況はそう長く続かなかった。
ついに羅師は大男の攻撃を避け損じる。
あまりの衝撃に動きが止まる。
その隙を逃すわけもなく、止まった羅師の心臓目掛けて拳が迫る。
なんとか位置を数センチずらすことしか羅師には出来ず、もろに食らう。
最初に食らった打撃と違い、骨は粉々に砕け左の肺が完全に潰れる。
壁にぶつかり床へと落ちる。
「ごぷ、こは」
弱々しく息を漏らそうとするが肺から逆流した大量の血によって息を吐くことすらできない。
「即死しないとは恐れ入った。その状態は辛いだろう。今楽にしてやる」
慈悲すら感じるその声色に怒りと殺意を覚えながら薄れゆく意識の中、羅師は睨みつける。
「大した度胸だ、認めようお前は我最大の」
銃声が響く。
羅師は右手で構えた拳銃を見せつけるように前に突き出しながら、小馬鹿にするように笑う。
「ばーか」
羅師の放った弾丸は皺になった首部分を正確に撃ち抜いていた。
傷つけることはできないと思われていたその肌に一筋の血が伝う。
その様子を見た羅師は満足したように笑うと、拳銃の重みに負けたように腕を下ろす。
大男は羅師を見下ろす。
その視線に慈悲はなく明確な殺意が込められていた。
羅師の心臓はまだ動いている。
風前の灯となった羅師を吹き消そうと大男が手を伸ばしたその時。
家の中を走る音が玄関から聞こえてきた。
リビングの扉が蹴り破られる。
「先生!」
そう言いながら入ってきたのは樺であった。
急いで来たのだろう。
フードは外れており、綺麗な金髪が赤黒いこの空間で浮いていた。
樺の目に大男と、羅師の姿が映る。
手に握られた大型の拳銃を大男目掛け発砲した。
予想外のことが起こると人間の動きは止まる。
それは大男も例外ではなく、銃撃を避けることはできなかった。
放たれた弾丸はバケツの真ん中を貫通し壁に弾痕をつける。
肉片と思われるものが飛び散り、大男は大きく仰け反る。
頭を撃ち抜かれたと言うのに倒れない様子を見た樺は構えを解くことなく、ゆっくりと羅師の方へ歩く。
「なるほど」
大男が話し出す。
倒れないどころか話し出した大男に樺は恐怖を覚えた。
「流石にこの状態でやり合うのは無理だ。命拾いしたな女」
そう言うと大男は窓へ走る。
「待て!」
樺はすぐに発砲するが振り払われた大男の腕に弾かれる。
「はぁ!?」
その様子に驚愕したような樺を尻目に大男は窓を破り外へと逃げた。
急いで窓までかけるが既に姿は無かった。
「先生!」
樺は投げるように拳銃を捨て、羅師に駆け寄った。




