246-2巻発売記念SS アンジーさんの憂い
穏やかな日差しが色とりどりの花を包み込むように照らしている。お邸の庭には奥様が選び抜かれ、バランスを考えて植えられた花がいつも咲いている。小さな白い蝶々が、花の中をヒラヒラと飛んでいる。
その間にある小道をトコトコと歩く坊ちゃん。しかも掛け声付きだ。
「いっちに、いっちに」
何度も行ったり来たりして、小道を歩いている。天気の良い午前中はいつも繰り返されている光景だ。
「いっちに、いっちに」
「らうみぃ、みみは、たいくつみゃ」
ラウ坊ちゃんに付きそうように、すぐそばを飛んでいる使い魔のミミだ。小生意気な精霊だ。だが、この精霊は天才らしい。俺はその天才さを見たことがないのだけど。
「とぶほうが、はやいみゃ」
「いっちに、いっちに」
ラウ坊ちゃんはそんなミミの言葉をスルーだ。飛ぶ方が早いって、人が飛べるわけないじゃないか。
「ふふふふ」
「なんスか、殿下」
「この世にこんなに可愛いものがあるのかと思うな」
「あー、そうッスか」
いつも部屋の窓からこっそりとラウ坊ちゃんを見て、にやけている。『氷霧公爵』なんて二つ名があるのに、どこが氷なのか。あっても氷なんてとっくに溶けてしまっている。とにかく奥様と坊ちゃまにはデレデレで激甘な殿下だ。
こうしてラウ坊ちゃんを見ていると、赤ちゃんだった頃を思い出す。あの頃も毎日毎日お邸の廊下をハイハイで爆走していた。これってまるで鍛練じゃないかと思ったことを覚えている。
3歳になった今もハイハイからあんよに変わっただけで、毎日毎日ラウ坊ちゃんはああして庭を歩いている。短い手を振って、掛け声を掛けながら。これってやっぱ、鍛練じゃね? と思ってしまう。
「みみ、きょうしょうら!」
「みゃ!? みみのほうが、はやいみゃ!」
「よーい、どん!」
そう言って、ラウ坊ちゃんがトコトコと走り出した。
「ふぉッ!」
殿下は変な声を上げて、両手で顔を覆った。
「殿下、なんッスか?」
「見てみろ、あの天使のラウを!」
「ああ、はいはい。可愛いッスね」
短い手を一所懸命振って、トコトコと走っている坊ちゃん。まあ、可愛いッスけど。殿下は大袈裟だ。ちびっ子ってみんなあんなもんじゃないのか?
ラウ坊ちゃんが走っている前を、ピューッと飛んで行くミミ。容赦ないな。そんなの絶対にミミが早いだろう。
「まてー!」
「みみには、かてないみゃ!」
こうして見ると、とっても可愛らしい光景なんだけど。
「みみ、もういっかい!」
「みゃ!」
クルリと折り返して、またトコトコと走る。それを何度も繰り返している。ほら、これって絶対に鍛練だよ。ラウ坊ちゃんの乳母であるフクさんが、すぐそばで見守っている。微笑ましいと思いながら見ているのだろうけど、どうして気が付かないかな?
そういえばフクさんは、坊ちゃんがハイハイで爆走している時も微笑みながら見ていたっけ。これは全然気付いてないな。
「殿下、あれってラウ坊ちゃんは鍛練してるんじゃないッスか?」
試しに言ってみた。父親の殿下なら気付いているかな? て思ってさ。
「アンジー、何を言う。あんなに可愛らしい鍛練があるものか」
ああ、気付いていない。まだラウ坊ちゃんは庭の小道を何度も行ったり来たりしながら、走っている。
「はあはあ、あー、みみは、はやいね~」
「あたりまえみゃ、みみはてんしゃいみゃ」
「よしッ! もういっかい!」
「みゃ!」
ほら、まだ走るつもりだ。もう肩で息をしているのに、まだ続けるのか? フクさん、そろそろ止めたらどうだ?
「ラウ坊ちゃん、そろそろ水分を摂っておきましょう」
「ふく、しょう?」
「はい、汗をかかれましたから」
「わかった」
そうそう、止めてくれ。まだ3歳なのに、あんなに鍛練する必要なんてないぞ。
フクさんに手を引かれて四阿に移動するらしい。そこで奥様が待っていた。
「ラウ、休憩しなさいな」
「あい、かあしゃま」
それを見ていた殿下が立ち上がった。あ、これはまずい。絶対に行くつもりだ。
「殿下、まだ書類が残ってるッスよ」
「何を言うか! そんなものより大事だろう!」
何がだよ!? そう思う俺の気持ちなんて、無視だ。スクッと立ち上がった殿下は何を思ったか、窓の方へ歩いて行き窓枠に足を掛けた。
「殿下! せめて普通にドアから出ましょう!」
「アンジー、ここは3階だぞ。ドアから出て長い廊下を行き階段があるじゃないか」
「当たり前ッス」
「そんなもの、面倒だ! とぉッ!」
「ああぁーッ! 殿下ぁーッ!」
3階の窓から飛び降りてしまった。もう、本当に止めてほしい。俺の心臓がいくつあっても足りないぞ。仕方なく俺はドアから部屋を出て庭を目指す。3階から躊躇なく飛び下りられるのなんて殿下くらいだっての!
「とうしゃま! しゅごいれしゅ!」
「まあ、あなたったら」
そんな声が聞こえてくる。いやいや、奥様も注意してくれよ。この家族はどうなっているんだ?
0歳から鍛練する坊ちゃんも坊ちゃんだけど、面倒だからと言って3階から飛び降りる殿下も殿下だ。いや、さすが親子なのか? まさかこんな人だったなんて想像もしなかった。
俺って就職先を間違えちゃったか? そう思ってしまう。
庭に出て、走りながら殿下を呼ぶ。
「殿下ぁーッ! 窓から飛び降りるのは止めてくださいよーッ!」
「なんだ、アンジー。遅いな」
「遅くないッス!」
もう、意味が分からない。すっかり落ち着いて、奥様やラウ坊ちゃんと一緒にお茶を飲んでいる。
「殿下、まだ書類が終わってないッス!」
「そんなものは、すぐに終わる」
それを終わらせてからにしようって話なんだ。
「ふふふ、アンジーも座りなさい。フク、アンジーにもお茶を出してあげてちょうだい」
「はい、奥様」
なんで奥様も平静なんだ? 普通驚かないか? 3階だぞ? 3階の窓から飛び降りたんだぞ。見ていたよな?
「アンジーは鍛練が足らないぞ」
「いやいや、3階から飛び降りるなんて殿下だけッス」
「あら、そうかしら?」
「そうッス!」
なんだか言うのも馬鹿らしくなってきた。
「アンジーさん、どうぞ」
「あ、すんません。いただきます」
もういいや。好きにしてくれ。この親子は普通じゃないってことで。
俺はいつまでこんな心配をするのだろう?
「あんじーしゃん、くっきーもあるよ」
「お、いいッスね」
ラウ坊ちゃんが可愛いから癒される。まあいいや。こんなのきっと俺くらいしか務まらないだろうし。
ただ、もう少し大人しくしてくれたら助かるけど。
フクさんが入れてくれた美味しいお茶を飲み、ラウ坊ちゃんが勧めてくれたクッキーを食べる。
「ああ、美味いッスね」
「ねー、おいしいよねー」
せめてラウ坊ちゃんは普通に育ってほしいと願う。まあ、もう普通じゃないんだけど。
今日も良い天気だ。薄い水色の空を、ヒラヒラと蝶々が飛んでいた。




