8話 鬼
通亜梨沙との会話、そして接触して消えた黒蝶の事に頭を悩ませているうちにその日の授業は終了した。ちなみに、亜梨沙はその後ずっと顔色も良く、昼までの体調の悪さは全く無くなっていたようだ。
伊澄が教室に戻った後、一番には「家に帰ったら話したい事がある」とだけ伝えている。学校であの話をするには限界が有りそうだと思ってのことだった。一方的にそう伝えられただけの一番は何か言いたそうではあったが人目がある中で返事が出来ない事を理由に何も言わない事を貫く。尚、次の授業では真面目に聞く姿勢は取っているが、考えなければいけない事の多さから教師の話は右から左に流れて行った。
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―― あれほど気をつけて下さいと申し上げましたのに!
「いや、普通目の前に虫が飛んできたら身を庇っちゃうでしょ」
学校での授業を終え、少し足速に帰宅路を歩く伊澄はスマホを耳元に近づけ、側から見ると通話をしているように見える。しかし、その実誰とも電話はつながっておらず、自分にしか声の聞こえない一番と手っ取り早く会話をする為のカモフラージュだ。
―― 戻られてからやけに妖気を感じると思ったらこの有様!神が何という体たらく…
「私今は普通の女子高生なんだってば、ていうかやっぱりあの蝶って悪いものなの?」
表情や仕草は分からないがその口調や声から、一番がプリプリと怒っている様子が見なくても伊澄には伝わってきた。
―― 悪いものとは言い切れませんしこれは憶測ですが…。その妖気からは「鬼」の気配がします
「鬼って…聞くだけでも怖そうだし悪そうなんだけど…」
―― 人間が思っている程、鬼は悪いものでは有りません。妖怪とされる種族の中でも地位や能力が高い種族ではあるのでその分皆に恐れられてはいますが
一番が言うには、鬼だからと言って一概に害をもたらす訳では無く、地位の高い妖怪だからこそ秩序を守るものも存在するらしい。ただ力が強い分、耐性が無い人間や位の低い妖怪には体の毒となってしまうようだ。故に亜梨沙は弱ってしまっていたのだろう。
―― あの黒蝶は伊澄様で言う所のこの私めのような使いとしての存在なのでしょう。あとは何故あの学校で、あの女子生徒に纏わりついていたのかですが…引き続き用心する事は続けて下さいませ
「そうだね、私も色々気になるし何かあっても嫌だし…」
話している内に、伊澄の自宅の前まで辿り着いた。駐車場に車が無かったので今日は仕事に行っている父に加え母も不在のようだ。マメな母の事だから夕飯も作り置いた状態で出かけているだろう、と予想しながら玄関の扉の前まで辿り着いた。今日も色々あって疲れたし早く水でも飲もうと扉を開けた瞬間だった。
ぽん、と音を立ててマスコットから蛇の姿に戻った一番が何らかの気配を感じ取ったらしい。焦った様子で伊澄に声を掛けた。
「伊澄様、あの黒蝶が家の中に!」
その言葉に驚き、伊澄は靴を脱いでいた所、顔を上げる。
確かに一番の言う通りそこには学校で姿を消した黒蝶が居た。いや、もしかしたら別の個体なのかもしれないが、一番の焦りようからもあの蝶と同等のものである事は分かる。そして蝶の存在もそうだが、家の中に何か異様な空気を伊澄ですらも感じた。
どんなにこの一番という神の使いという蛇と話せても、前世が神であろうと今の伊澄は人間でしか無いが、それでも感じる悪寒のようなものや禍々し空気。只事では無いのが瞬時に理解できた。
「というか何で家に?」
「そんな事は二の次です伊澄様。鬼が家の中に居ます、それも恐らく位の高い鬼です」
「えっ!?何でこんな所に!」
真剣な一番の言葉に伊澄は身構える。
噂をすれば何とやら。だろうか。
「黒蝶がここに居る鬼の使いだとすれば、貴女に触れて消えた事も全て知っているかもしれません。即ち、あの蝶を通してずっと伊澄様の事を見ていたと言っても過言では有りません…先程から身体がビリビリするほどの妖気を感じますが…もしかしてこれは…」
「一番、知ってるやつってこと?友達?」
「友達だなんて恐れ多い事言わないでください!しかし、私の予想が合っていれば…」
一番が恐る恐る前に進み始めた時だった。家の中から人の足音のような物と、布が擦れる音がした。家族も不在な家の中に誰かが居ることへの恐怖に合わせて一番の説明への不安から伊澄は掌をぐっと握りしめた。
「いつまで突っ立っとるつもりじゃ、自分の家ならばさっさと入ってこんか」
老人のような口調に反して美しい女性の声。その姿は見目麗しい女性そのものである。
普段見掛けることの無い質の良い着物を身に纏い、艶やかな黒髪は腰の辺りまで伸びている。身長は伊澄よりも高いであろう、その頭の部分には一本の赤い角のような物が生えており、彼女が人間では無い事が外見からも見てとれる。恐らく彼女が一番の言っていた鬼なのだろう。
ただ、掛けられた言葉自体にあまり悪意や敵意などは感じられない。緊張と驚愕から固まって動けない伊澄の姿を見て鬼は返事を待たず、会話を続けた。
「全く、暫く見ないうちに弱々しい小娘になりおって。水神の名が聞いて呆れるのう?」
「…はぁ?何で私の事」
「この儂に対して『はぁ?』と口が利ける生意気な所は相変わらずか…記憶も失くしている様じゃが、命の器は変えても叩き込まれた性根は変わらんな」
伊澄の前世の事も、その性格すらも把握している様子の鬼はやれやれ、と首を振って次に足下にいる一番に視線を移す。
「お前もそうは思わんかや、使いの白蛇くんよ」
そう言って着物の袖を口元に当て、鬼はくすくすと笑う。妖怪だという事も分かりながら、明らかに自分をからかっている様子に伊澄は少しむっと眉間に皺を寄せた。
そして彼女に声を掛けられた一番は大人しいと思っていたら、以前伊澄にもそうしてみせたのと似た様子で会釈のような動きをした。
「お久しぶりでございます、鬼の族長様」
一番の言葉を聞いて伊澄は暫くの間思考がストップした。
鬼の族長?鬼の種族を治める長だというのか?何でそんな奴がこの家に、と伊澄の頭の中を疑問の羅列がぐるぐると回る。
「族長様、など堅い事言うで無い。最近は基本的に平和じゃから、族長としての務めなぞ殆どしておらんでのう…今の儂には身に余る称号じゃよ」
「しかし私は神に使える者と言えど、何の地位も持たぬ妖ですので…」
「生真面目じゃのう…そうじゃ、丁度良い。生娘となってしまったこの水神様への挨拶も兼ねて、自己紹介と行こうか」
そう言いながら伊澄の目の前までやってきて鬼の彼女は姿勢を真っ直ぐに伸ばし、伊澄を真正面から見据えた。
「儂の名は憂子、と申す。こんなに可憐で美しく儚い姿をしておるが、これでも鬼の種族の長をやっておる」
目を細めて微笑む彼女は確かに美しい。外見に厳しい伊澄が思わず見惚れてしまう程だったが、何故だか正直にそう言うのも悔しかったので口をついて出たのはぶっきらぼうな返しであった。
「そんな族長様が今更私に何の用?ていうかあの黒い蝶は何なの、何が目的?」
「ちょっと伊澄様!今世では初対面なのですから…!」
憂子に対して強気に返す伊澄の姿に、一番は焦る。我が主ながらなんて無礼なのだろうと思ったが逆鱗に触れかねないのでそれは黙っていた。
不信感を露わにしている伊澄に対し、憂子はまたくすくすと笑いながら家の中を歩き始める。家の中を色々と物色している様であった。
「まぁそんなに怒るでない、今回は人間じゃからあまり眉間を詰めると皺になるぞ、“女子高生の伊澄ちゃん“や」




