第6話 緊急事態
新しいレンジャー隊員を育てるレンジャー養成訓練。そのクライマックスと言える山地機動訓練の期間中、猪頭曹長は背中に救護装備を背負っていた。
学生が大きな怪我をした場合、このような山の中では救急車を呼ぶことはできない。
最悪の場合はドクターヘリを要請することになるが、それでもヘリが降りられる場所までは、怪我をした学生を移動させる必要がある。
その際、速やかに応急処置を行い、搬送できるように、救急品や折りたたみ式担架、さらにはAEDまで、彼の背嚢には入っていたのだ。
さらに驚いたことに、無事に山を下りて訓練が終了したとき、彼は、
「お前ら、よくやった。味わって飲めよ」
と言って、背嚢から冷えた缶ビールを取り出したのだ。
彼は、背嚢の底に保冷剤と人数分の缶ビールまで入れていたのである。
「皆、ご苦労さん。車両の操縦手と車長はコーラで我慢してくれよ」
さらに、教官や教官助手たちにも同じ物が配られていく。
これには、学生たちだけでなく指導部も驚いてしまった。
「猪頭さん、あなたって……」
「ハハハハッ、どうした? 冷たいうちに飲めよ。ハハハハッ」
皆が呆れ、呆然としているなか、猪頭曹長の豪快な笑い声だけが響いていた。
そのとき、村上士長は心の底からこう思った。
この人みたいになりたい……いや、絶対になってやる。
もっとも、後日、その一部は修正され、ジャングル・ファイヤーだけは継承しなかった。
202X年4月1日1230
東南アジア某国首都の自衛隊宿営地に、ジャングル内でゲリラが確認され、遺跡ツアーのマイクロバスと連絡が取れなくなったという報告が入った頃。
姫野恵茉は危機に瀕していた。
ゲリラがうじゃうじゃいるジャングルの中で独りぼっちになっているだけではない。彼女は、生理現象によっても追い詰められていたのだ。
彼女がゲリラに捕まらなかったのは、一人だけ別行動を取り、トイレに入っていたからだ。
そう、彼女は膀胱内に溜まった液体を、早急に排出する必要に迫られていたのである。
ゆっくりと遺跡の石壁からジャングルの中へ移動しながら、彼女はそのことを思い出していた。
「ヤバい」
ゲリラに撃たれるのも捕まるのも嫌だが、この歳でお漏らしをするのはもっと嫌だ。
かといって、トイレには失神している二人のゲリラを放り込んである。
そもそも、ドアが外れているため、鍵もかからない。
「本当にヤバい……」
額に脂汗がにじむ。
今までは緊張状態が続いていたため、忘れていたのだが、銃撃を無傷で生き延びたことで、緊張が少し緩んだのかもしれない。
とりあえず、日本の演習場でも何度か大自然の中で用を足したことはある。
ここでもできるはずだ。
そう考え、茂みの奥へと進んでいく。
万が一、ゲリラに発見されても、すぐに身を隠せる窪地がいい。
低い姿勢を保ち、音を立てないように静かに移動する。しかし、その姿勢が、かえって下腹部を圧迫する。
「頑張れ、私。もう少し、もう少しだけ耐えて」
そう呟いたとき、頭の中にまた、あの声が響いてきた。
『いいか、姫野。限界ギリギリまで我慢してから出すショ〇ベンは最高だぞ。しかし、気をつけろよ。糖分が混ざっていると、蝶々の大群が殺到することになるからな』
私、尿に糖分が混ざるほど不健康じゃありません!
そう心の中でツッコミを入れる。
曹長の格言(?)を思い出したせいで、彼が近くにいるような気がしてしまった。
そういえば、演習場で彼女が我慢していると、彼がスッと近づいてきて、
「どうした、トイレか? よし、あそこの茂みでさっさと済ませてこい。ここで俺が誰も近づかないように見張っておいてやるから」
と言って、彼女が用を足すことに専念できる程度の距離を取り、ほかの隊員たちを追い払ってくれたことが何度かあった。
「曹長って、そういうときは頼りになるのよね」
そんなことを考えながら、しばらく進んでいくと、ジャングルの中にちょうどよさそうな窪地を見つけた。
「た、助かった」
そう言いながら中に入り、周囲を警戒しつつ、手に持っていたAK47を窪地の縁に置く。
そして、ズボンに手をかけ、膝まで下ろした。
しかし、そのとき……何か違和感を覚えた。
「?」
何かに見られているような気がするのだ。
もう一度立ち上がって周囲を見回すが、誰もいない。念のため木の上にも目を向けたが、結果は同じだった。
そのとき、視線が下から向けられているような気がした。
まさか……ね。
恐る恐る足元に目を向けると……そこに人間の目があった。
「!!!!????」
悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえる。
そして、窪地から這い上がろうとしたが、膝まで下ろした半ズボンのせいで足を滑らせ、再び中へ転げ落ちてしまった。
そのとき、彼女はようやく気づいた。
この窪地は自然にできたものではなく、人間によって掘られたものだったのだ。
そして、その底には、あちらこちらに人間の体の一部がのぞいていた。
先ほど恵茉が見つけた目も、埋められた人間の顔の一部が地表から見えていただけだった。
「これって……」
落ち着いて周囲を見回すと、同じような窪地がいくつもある。
「人間が埋められている。それも、たくさん……」
驚くと同時に、激しい吐き気がこみ上げてきた。
匂いがあまりしないところを見ると、ここに人が埋められてから、それほど時間はたっていないのだろう。
しかし、それでも数十人、いや、数百人もの人間がここに眠っている。
「これを全部、あのゲリラたちが?」
吐き気を必死にこらえながら、そう呟いた。
もしかしたら、恵茉たちより前にここを訪れたツアー客たちかもしれない。
そうだとすれば、ソム・チャイやほかのツアー客たちも危ない。
そのとき、遺跡の方からゲリラたちの声が聞こえてきた。
「女だ! 女にいきなり襲われた!!」
どうやら、トイレの中に放り込んでおいた二人のゲリラが見つかったようだ。
「どんな女だ?」
「そ、それは……」
二人は、恵茉の姿をほとんど見ていない。
「ムキムキの化け物みたいな女だ!! 全身血まみれで、毒蛇をくわえていた!!」
そのため、とんでもないことを言い出した。
「ふざけるな! こんな華奢で可愛い女の子に向かって!」
パンツ丸出し状態の恵茉が、拳を握りしめて小声でそう言った。
そして、この状態では安心して用を足せないと判断し、半ズボンを引き上げてベルトを締め直した。
AK47を再び手に取ると、声のする方向から距離を取るように、静かにゆっくりと移動を始めた。
しかし、
「いたぞ、あそこだ!!」
ジャングルの外から、そう叫ぶゲリラの声が聞こえてきた。
それに続いて、複数のゲリラたちの声や、銃を構える音も聞こえてくる。
どうやら、彼らは手にしたAK47の安全装置を解除しているようだ。
「しまった」
ゲリラたちは、長年このジャングルに身を潜め、戦ってきたのだ。
つまり、密林戦闘のプロと言える。
彼らは、人体が草木に触れたときに生じる微かな音を聞き取り、靴跡や踏まれて折れた草木の跡をたどることができた。
「捕まえろ! 殺しても構わない!!」
ふざけるな!!
そのとき、またしても猪頭曹長の声が頭の中に響いた。
『敵に情けは無用だ。死ぬか、白旗を上げるまで徹底的にやれ』
今回は、素直に体が反応した。
「イエッサー!!」
なぜか英語で返事をすると、AK47の銃口をゲリラたちの声が聞こえてきた方向に向け、安全装置を解除する。
そして、迷うことなく引き金を引いた。
ダダダダダッ!!
甲高い発砲音が響き、発射された銃弾がジャングルの枝を折り、葉に穴を開ける。
相手の姿が見えていないため、弾が当たるはずもなかったが、それでも構わない。
自分たちが一方的に狩る側ではなく、自分たちも狩られるかもしれないと分からせてやればいいのだ。
それだけで、相手の行動は慎重になり、追跡の足も鈍くなる。
ジャングルの外では、ゲリラたちが慌てて伏せたり、逃げ回ったりしているのが分かった。
「伏せろ!!」
「あいつ、撃ってきやがった?!」
「くそ、ゴリラ女め!!」
「誰がゴリラだ!!」
最後の台詞を口にした男のいる辺りに、さらに銃弾を叩き込む。
弾倉が空になると、それを抜いて投げ捨て、すぐに次の弾倉を装填した。続けて槓桿を引き、初弾を薬室に送り込む。
そして、そのままジャングルの中を駆け抜けた。
こちらの位置がばれている以上、もう足音を忍ばせる必要はない。
それよりも、相手が混乱している間に少しでも距離を稼ぐべきだ。
呼吸が荒い。小枝や草の葉が顔や足に当たって痛い。
何より、おしっこがしたい!!
「やばい、漏れる……」
彼女は映画が好きで、ハリウッドのB級作品もよく観ていた。
しかし、どの主人公も大怪我をしたり、最後に命を落としたりすることはあっても、お漏らしをしているところだけは見たことがない。
はっきり言って、そんな事態になるくらいなら、自ら命を絶つ!!
ジャングルの中を走る恵茉の速度は、どんどん上がっていった。
そんな彼女に向けて、ゲリラたちも発砲してきた。
ただし、ジャングルの草木が邪魔で恵茉の姿は見えないため、音がする方に銃口を向け、引き金を引いているだけだ。
そのような撃ち方で、そうそう弾が当たるはずもない。だが、撃たれている側としては、かなり怖い。
ヒュン、と時折、風切り音がして、見えない何かが傍らを飛び抜けていく。
木に弾が当たると木片が飛び散り、地面に当たると土煙が上がる。
普通なら、恐怖で足がすくみ、その場に伏せてしまうところだ。
しかし、恵茉は止まらなかった。
銃弾に当たる恐怖よりも、差し迫った緊急事態の方が重大だったからだ。
もう時間がない。
選べる手段は三つ。
一つ目は、ゲリラたちから逃げ切り、安全を確保してから用を足すこと。
二つ目は、反撃に出てゲリラを全滅させてから用を足すこと。
最後の手段は、速やかに武器を捨てて降伏し、その後、ゲリラたちに事情を説明してトイレに行かせてもらうことだ。
「駄目、二つ目と三つ目は無理」
そんなことができるのなら、こんなに悩んだりはしない。
特に三つ目は、いきなり縛り上げられ、すでに捕まっているツアー客たちのところへ連れて行かれて終わりだろう。
そうなれば、彼女は死ぬよりも辛い屈辱的な姿を、さらに多くの人たちに見られることになる。
「つまり、逃げ切るしかない……」
しかし、こちらは自衛官とはいえ、便利で綺麗な日本の街で生まれ育った現代っ子だ。
ジャングルで生まれ育ち、長年そこで戦ってきたゲリラたちに勝てるはずがない。
そのとき、突然、視界が開けた。
「しまった?!」
そこは、恵茉たちの乗ったマイクロバスが遺跡までやってきた道路だった。
おまけに、タイミングの悪いことに、ゲリラたちが乗ったピックアップトラックがすぐそばまで迫ってきている。
車体の前面にTOYOTAのエンブレムをつけたその車は、何か用事を済ませて遺跡に戻るところだったようだ。
運転席と助手席に一人ずつ、さらに後ろの荷台に二人。合計四人が乗っている。
運転手は、突然ジャングルから飛び出してきた恵茉に驚き、急ブレーキを踏んだ。
それに気づいた彼女は、咄嗟にピックアップトラックへAK47を構え、引き金を引いた。
銃口が跳ね上がるのを力ずくで抑え込みながら連射すると、フロントガラスに穴が開き、乗っていた四人が慌てて頭を下げた。
ピックアップトラックが恵茉の手前約三メートルの位置で完全に停止すると、運転席と助手席のドアが開き、二人が転がり落ちるようにして逃げていった。
さらに、荷台に乗っていた二人も、それを見て慌てて逃げ出した。
「ラッキー!!」
逃げていく四人のゲリラたちを警戒しながら、恵茉はボンネットに飛び乗った。そこからフロントガラスの割れた運転席へ滑り込む。
かなり古い車体で、今の日本では貴重なマニュアル車だ。
さらに左ハンドルのため違和感があるが、エンジンはかかったままだし、何より恵茉は運転免許を持っている。もちろん、オートマ限定ではない。
「Uターンをして……」
これで首都まで逃げることができる。
急がなければ、ツアー客やソム・チャイもゲリラたちに命を奪われるかもしれない。
しかし、バックミラーを見た彼女は驚いた。
先ほど車から逃げた四人のゲリラたちが、恵茉が一人だと知り、慌てて駆け戻ってきている。
さらに、その向こうには別のピックアップトラックがあり、道を完全に塞いでいた。
「あ~、もう!!」
こうなったら、遺跡の前にある広場まで進むしかない。
クラッチを踏み、ギアを入れると、アクセルを踏み込んだ。




