第90話 残された者たち
桃矢が光の渦の中に消えた。
その光景を陽翔は視界の端で捉えていた。だが、彼が意識は別の者に向けられていた。
目の前の床に無防備に転がった男。
武田。結菜を奪った男。
陽翔は武田に向かって走り出していた。
「陽翔っ、よせ!」
山崎が背後から陽翔を羽交い締めにした。陽翔はその腕の中で暴れ回った。
「放せ。放してくれ。あいつを、あいつだけは、この手で」
頭の中は復讐心に埋め尽くされていた。結菜を奪った男を許さない、その想いにとらわれ、周りのことは見えていなかった。
その時だった。
地の底から響くような獣の咆哮が響いた。
田崎だった。血走った目でこちらへ突進してくる。手に持った槍の先はこちらに向けられていた。
「山田さん!」
山崎は陽翔を離すと、田崎の前へ躍り出た。突き出された槍を体をかわして避ける。
追いついた山田が、田崎の腕へ渾身の体当たりをした。槍が乾いた音を立てて床に転がった。
だが、田崎は痛みを感じていないかのようにぐるりと向きを変え、山田をにらみつけた。
陽翔は床に片膝をついたまま、その光景を見ていた。山崎と山田は、田崎を抑えるので精いっぱいだ。
誰もこちらを見ていない。
誰ももう止められない。
ゆっくりと視線を武田に戻した。
山崎と山田は連携して田崎を押さえようとしていた。しかし、人間とは思えないほどの馬鹿力をふるう田崎の攻撃をかわすので精一杯だった。
武田の腰巾着で、いつもへらへらと調子よく笑っていた田崎。それが今は、こんな姿になって襲ってくる。肉を食べ続けたせいで精神も肉体もおかしくなった、その果ての姿。石原もそうだった。
自分もあの時の選択を間違っていたら、こうなっていたかもしれないと、田崎の攻撃をかわしながら、山崎は武田たちと一緒にいた頃の事を思い出していた。
「田崎! 目ぇ覚ませ! お前、田崎だろうが!」
どんなに叫んでも、届かない。田崎はヘラヘラと笑いながら大ぶりのパンチを山崎に浴びせた。
山崎は上体を反らしてかわすと、渾身の力で拳を田崎の脇腹へと突き入れた。
並みの人間なら、それで終わる。だが、田崎は倒れなかった。痛みなど全く感じていないかのようだった。
山崎は奥歯を噛みしめた。こうなる前に、こいつを引き戻せたはずだった。あの日、俺がもっと早く声をあげていれば。武田じゃなく、こいつらに手を伸ばしていれば。
後悔の念が山崎をよぎる。
「山田さん! 足だ! 足を狙え!」
山田は田崎の背後に回り込むと、田崎の足に自分の足をかけて田崎の背中を押した。田崎の体が、バランスを崩して前のめりとなる。すかさず山崎が、腕を掴んで背中に回し、壁際へと押し込んでいく。2人がかりで、なんとか押さえつけつつあった。
山崎は田崎の対処に必死だった。
だから、山崎は気づかなかった。背後で、陽翔が音もなく立ち上がったことに。
陽翔はゆっくりと武田のそばへ歩み寄った。
武田は床にへたりこんだまま、動かなかった。荒い息をつき、虚ろな目で宙の一点を見つめている。その口が、時々、何かに応えるようにかすかに動いていた。陽翔には聞こえない声が、まだ、この男を操っているのだ。
陽翔は足元に転がっていた拳大の石を拾い上げた。
これで殴れば。この男の頭をこれで力任せに殴りつければ。この男は2度と誰かの大切なものを奪えなくなる。
それで、少しは。少しは、この胸の穴が、埋まるのか。
陽翔は石をゆっくりと振りかざした。
武田が顔を上げた。虚ろな目が陽翔を捉える。
だが、今の状況が分かっていないようだった。
その時、一瞬、武田の目に光が戻った。
「すまなかった」
武田はそれだけ言うと、目をつぶった。殺れよと言うかのように。
その言葉に、陽翔の腕が止まった。
結菜の顔が脳裏に浮かんだ。いつもみんなに笑顔を振りまいていた結菜。争いごとを誰より嫌っていた結菜。困っている者がいれば、放っておけなかった優しい結菜。
もし、結菜が今の俺を見たら。この石を振り上げた、俺を見たら。
どんな顔をするだろう。
悲しむに決まっていた。きっと、泣きそうな顔で俺を見るだろう。
陽翔の喉から、声にならない呻きが漏れた。振り上げた腕が、わなわなと震えている。
憎い。殺したいほど、憎い。
だが。
この石を振り下ろせば、俺はこいつと同じになる。憎しみに我を忘れ、目の前の相手から力ずくで、全てを奪う側に。結菜がこの世でいちばん嫌った者に。
桃矢ならきっと、こう言うだろう。「もも、やめとけ」
だが、その桃矢はもう、ここにはいない。今、この拳を止められるのは、自分だけだ。
「……ちくしょう」
陽翔は呻いた。そして、震える腕をゆっくりと下ろした。
握っていた石が、指の間からこぼれ落ちる。乾いた音を立てて、床を転がっていった。
「俺は……」
陽翔は絞り出すように言った。
「俺は、お前とは、違う。お前なんかと、同じには、なってやらねえ」
その時、武田がゆっくりと立ち上がった。武田はのろのろと奥の通路に向かって歩き出した。
「武田!」
陽翔は思わず手を伸ばした。だが、その手は届かなかった。
武田は操られているかのように通路の奥へと遠ざかっていった。
異変は、壁際で起きた。
山崎と山田は2人がかりで田崎を押さえ込んでいた。
突然、田崎の体から、すっと力が抜けたのだ。暴れていた腕が、だらりと垂れる。
「……おい」
山崎が戸惑ったように力を抜いて、田崎の顔を覗き込んだ。
次の瞬間、田崎の体は支えを失って、どさっと床に崩れ落ちた。それっきり、動かなくなった。
山崎は息を荒げたまま駆け寄り、膝をついた。田崎の手首を取り、しばらくじっとしていた。それから、静かに首を横に振った。
役に立たなくなった器は、あっさりと見捨てられた。あの声にとって、この男は連れていく価値すらないということだった。武田だけを拾い上げて、田崎はここへ置き捨てる。
その、あまりの冷たさに、陽翔は背筋が寒くなった。人を道具のようにしか見ていない。あれと戦うということが、どういうことなのか。陽翔は、今、思い知らされた気がした。
広間は静まりかえっていた。
巨大なリングは、いつのまにか光を失い、ただの冷たい構造物に戻っていた。
陽翔はリングへと歩み寄り、その冷たい表面に手をついた。
「もも。川嶋さん」
どこかへ、2人は行ってしまった。追いかける術も、呼び戻す術も、ありはしない。無事なのか。生きているのかさえ、分からなかった。
陽翔の胸に後悔が滲んだ。
ももは、地の底の者たちを守るために、武田を弾き飛ばした。その反動で、光に呑まれたのだ。あいつが、たった1人で正しいことをしていた時、俺は何をしていた。
憎しみに目を眩まされ、武田に飛びかかることしか、頭になかった。ももが引き込まれていくのを、気にもせず、武田しか見ていなかった。
「やめとけ」
山崎の声だった。いつのまにか、陽翔の隣に立っていた。
「自分を責めても、しかたない。桃矢はな、地の底の連中を守るために、武田を止めたんだ。その結果だ。誰のせいでもない。あいつは、そういうやつだろう。お前だって、分かってるはずだ」
陽翔は唇を噛んだ。分かっている。分かっては、いるのだ。それでも、胸をえぐるこの痛みは、どうにもならなかった。
山田さんも、田崎の亡骸にそっと手を合わせてから、2人のそばへ来た。
3人とも、しばらくのあいだ、無言でリングを見つめていた。
「戻ろう」
やがて、山田さんが言った。
「ここにいても、出来ることは無い。先ずは地上に戻ってみんなと今後の事を相談しよう」
エボンヌの街には、ウイルスと戦っている、川原さんたちがいる。拠点では中嶋さんたちが、帰る場所を護っている。みんな自分に出来ることを精一杯やっている。自分たちも出来ることを見つけなければいけない。桃矢と麗華のために。
陽翔は環に置いた手を、ゆっくりと離した。
「……ああ」
3人は来た道を引き返しはじめた。とてつもなく長い、上りの道だった。
陽翔はもう、振り返らなかった。ただ、こぶしを固く握りしめ、地上の光を目指して一歩ずつ、暗い道を登っていった。




