第89話 リング
2つの気球はエボンヌの街へゆっくり降下し始めていた。
石と煉瓦の家並みが、アカとシロの複合光を反射して幻想的な風景を醸し出していた。
川原さんと高橋は、初めて見る眼下の街並みに目を奪われていた。
気球がトアの発着場に着くと、桃矢は一旦、籠から降りた。
ここから先へ進むのは、5人だけだ。桃矢、麗華、陽翔、山崎、山田さん。武田たちから、地の底の者たちを守るために。
残る6人は、この街で別の戦いに挑む。
エボンヌの薬や毒の知恵を借りて、ウイルスに対抗する道を探るのだ。
「3人のことはお願いします」と桃矢は川原さんに頭を下げた。
「任せて。あなたたちこそ、無茶をしないでね。ちゃんと、帰ってくるのよ」
帰ってくる。その言葉に、桃矢はすぐには頷けなかった。
武田を追って、どこまで行くことになるのか、自分でも見当がつかなかったからだ。
それでも桃矢は「はい」と虚勢を張った。
鈴木は高橋の手を握ったまま、じっと桃矢たちを見ていた。もう、泣いてはいなかった。隣に葵がいる。それだけで、鈴木の顔は明るさを取り戻していた。
「行ってらっしゃい」と高橋が言った。
「わたしたちは大丈夫。芽依ちゃんのことは、わたしがそばで見てるから」
大沢さんも真剣な顔で頷いた。
「必ず、糸口を見つけます。だから」。そこで言葉を切り、まっすぐに桃矢を見た。
「星野くんたちも、必ず、帰ってきてください」
『大遺跡の近くまでは、私の気球で送る』
トアの呼びかけに桃矢たちは、再度、気球に乗り込んだ。
籠がゆっくりと地面を離れる。街に残る6人の姿がみるみる小さくなっていった。
高橋と小林が、こちらを見上げて並んで手を振っている。桃矢は、その姿が見えなくなるまでずっと見ていた。
隣で麗華が決意じみた表情とともに静かに言った。「いよいよだね、桃矢くん」
桃矢は頷いた。
気球は険しい山なみを幾つも越え、あの荒れた岩肌の見える場所まで桃矢たちを運んだ。
桃矢たちは、トアに礼を言うと気球は空へと上がっていった。
大遺跡。前回は8人で入り、大切な1人を失った場所だ。
桃矢は乾いた岩の上に降り立ち、黒い巨大な遺跡を見上げた。
胸の奥が、ぎゅっと重くなる。ここで、朽名は死んだ。あの日の光景が、まざまざと蘇ってくる。
もう、あんな思いはしたくなかった。
一行は前回入った遺跡の横の崩れた隙間の入口へと向かった。
入口は前回と変わらず、瓦礫の横にポッカリと口を開けていた。
桃矢は、4人の顔を順に眺め、静かに言った。
「……行こう」
5人は灯火具をかざし、遺跡の中へと足を踏み入れた。
外の光がみるみる遠くなる。前方の数m先の光だけで進んでいく。
「前に来た時より、ずっと奥へ行くんだよな」と山田さんが声をひそめて言った。
「うん」と桃矢は頷いた。
あの日、武田はあの広間のもっと奥へと消えていった。だから、追うなら同じ道をたどって更に奥へと進むしかない。
慣れた道と言うほどでは無いが、2回目となると、前回よりも速いペースで進んだ。何層もの階段を降り、柱の並ぶ通路を抜け、長い長い道のりを進んだ。
やがて、道が左右に分かれた場所に着いた。ここを右へと進めばあの大広間だ。
ひたすら下る道を進むと、目の前に大きな開口部が見えてきた。
あの大広間だ。
広間の奥には武田たちが入っていった通路があった。
その通路に入る。
ここからは初めての場所となる。本来ならば、もっと慎重に進むべきなのだが、なぜか桃矢は焦っていた。急がなくてはいけない。そんな思いで頭の中はいっぱいだった。
少し早足で進むと、あの大広間よりも更に大きな広間に出た。
そこは途方もなく広い空間だった。天井は、灯火具の光は届かず、闇に包まれている。
そして、広間の中央にそれはあった。
人の背丈の何倍もある、巨大なリング状の構造物。金属のような濃い緑色の材質で造られたリングの表面は、闇の中で脈打つように淡い光を放っていた。
その手前に2つの人影が立っていた。
武田と田崎だった。
「武田っ!」
桃矢は思わず叫んでいた。武田がゆっくりとこちらを振り返る。
その顔を見て桃矢は言葉を失った。
頬はげっそりとこけ、目は落ちくぼんでいる。だが、何より恐ろしかったのは、武田の目だった。虚ろな表情に対し、目だけが何かに憑かれたように、ぎらぎらと光っている。
《来たか》
冷たい声が、桃矢の頭の奥へ直に入ってきた。
《だが、もう遅い。もうすぐ全てが終わる》
桃矢に悪寒が走った。あの声は言っていた。地の底の者を皆殺しにするため、武田を地の底へ送り込むと。このリングこそが、そのための仕掛けなのだ。
「武田!」
桃矢は、ありったけの声で呼びかけた。
「その声を聞くな! おまえは、騙されてるんだ! そいつは、力なんかくれない! それ使ったら、おまえは何の罪もない大勢の命を奪うことになるんだぞ!」
武田の肩が、びくりと震えた。
「……うるさい」
武田の口から、掠れた声が漏れた。
「うるさい、うるさい! おまえに、何が分かる! 俺は……みんなを連れて地球に帰るんだ!」
その隣では、田崎が獣のように低く唸っていた。かつての面影は、もうどこにもない。落ちくぼんだ目には、理性の光はなく、戦いの衝動だけに駆られていた。
田崎は手製の木の槍を高く振り挙げ、今にも襲ってきそうな感じだった。
武田には桃矢の声など、どうでも良かった。自分は為すべきことを為す。それが自分の為でもあり、みんなの為でもある。そう信じていた。
武田の足がリングに向かって、ひとりでにずるずると動きはじめた。
自分の意思なのか、そうでないのか、武田自身にも分からなかった。
リングの脈打つような光が次第に強さを増していく。やがて、その中央にぐるりと光の輪が生まれた。渦を巻き、見る者を吸い込むような、まばゆい青白の光。
武田がその光の輪の中へ入ろうと、さらに一歩を踏み出した。
その瞬間、桃矢理解した。武田があの光の中へ入れば終わりだ。武田の体に巣くうウイルスが、地の底の者たちのもとへ運ばれてしまう。そして、みんな死ぬ。
考えるよりも先に、体が動いていた。
「やめろぉっ!」
桃矢は床を蹴った。光の輪へ踏み込もうとする武田の体へ、真横から渾身の体当たりを叩き込む。
にぶい衝撃が肩に走った。武田の体が光の輪から弾き飛ばされ、脇へともんどりうって転がっていく。
間に合った。そう思った、次の瞬間だった。
叩きつけた反動で桃矢はバランスを崩した。倒れかけた桃矢の背中は、渦巻く光の輪の目の前にあった。
「あっ」
足が、滑った。
引き込まれる。
桃矢の体は光の渦の中に飲み込まれていった。
「桃矢くん!!」
麗華の悲鳴が聞こえた。
光の渦の中で、桃矢が最後に見たのは、こちらへ向かって、ためらいもなく身を投げ出してくる、麗華の姿だった。
「麗華!」
叫ぼうとした声は、光の奔流に呑まれ、消えていった。上も下も分からない。ただ、桃矢の体の周りをまばゆい光が流れていった。余りの眩しさに桃矢は目を閉じ、流れに身を任せた。
その頃、床に転がった武田めがけて、陽翔が走り出した。
「陽翔っ、よせ!」
山崎が叫びながら、陽翔を追いかけた。
山田さんは、一瞬、桃矢たちの方を見てから、はじかれたように山崎を追った。
どれほどの時間が経ったのか分からない。もしかしたら一瞬だったのかも知れない。
ふと、桃矢は背中に堅いものを感じた。まぶた裏には柔らかな光を感じる。
桃矢は、そっと目を開けた。
石の様な床の上に倒れていた。ゆっくりと身を起こす。
すぐ隣に麗華も倒れていた。桃矢が身じろぎすると、麗華は小さく呻いて、うっすらと目を開けた。
「川嶋さん。大丈夫ですか」
「うん」。麗華は掠れた声で答え、ゆっくりと身を起こして、あたりを見回した。
「ここは、どこ」
桃矢も周囲を見渡し、そして、息を呑んだ。




