第88話 再びエボンヌの街へ
明日の旅立ちの支度がひと段落したころ、桃矢は村はずれの、少し高くなった草の上に腰を下ろして、明日からの事をもう一度整理していた。
地の底の者たちに近づけるのは、体にウイルスを持たない者だけだ。あの穏やかな声は、はっきりと言っていた。保菌者がそばにいるだけで、ウイルスは伝染し、あの者たちを死に至らしめる。
斉藤たちは、あの遺跡には連れていけない。
だが、置いていくだけでは駄目だ。3人の体のウイルスは、放っておけば変異して本人を蝕みはじめる。治す道を探さなくてはいけない。
当てはなかった。ウイルスを直に取り除くことは、あの声にも許されていない。この星に生まれたものには、直に手を下せないのだという。
でも、あの声によると道は確かにあるらしい。その道はエボンヌの街にあるかもしれないと桃矢は考えていた。
3人の状態をトアに話した時、街には薬や毒に詳しい者がいると教えてくれた。
もしかしたら、これが答えかもしれない。
3人をエボンヌの街へ連れて行き、看護師の川原さんと医学生の大沢さんに3人の健康管理と治療法を探してもらう。
自分たちは、武田を追う。
これでいこう。
そう決めた時、後ろから呼びかけられた。
「桃矢くん」
振り返ると、麗華が立っていた。
「また独りで考え込んでる」
麗華は言いながら桃矢の隣に腰を下ろした。
「独りで考えこむのが癖になってるよ」
「すみません」
桃矢は苦笑しながら、いま決めたことを麗華に話した。
「それぞれが出来ることをする、今はそれしかないね」
同じ答えに麗華もたどり着いていた。桃矢は、それが少しだけ心強かった。
「今からみんなに話しましょう。僕等だけで決めることじゃない。3人の気持ちも聞かないと」
「そうだね」麗華は微笑んだ。「2人で話そう」
桃矢と麗華は再びみんなを集めた。
桃矢と麗華は、代わる代わる、明日からのことを話した。先ず、エボンヌの街まで気球で向かうこと。そして街で、3人の治療をするチームと遺跡へ武田を止めに行くチームに分かれること。
「川原さんと大沢さんは、エボンヌの街で斉藤さんたちの治療法を探して欲しい。トアの話では、街には毒や薬に詳しい者がいるそうです。その方を探し、協力して治療法を探してください。3人を医療関係者のお二人にお任せします。斉藤さん、太田さんと、鈴木さん、川原さん、大沢さん、この方針でお願いできますか」と桃矢は3人と川原さんたちを見て言った。
「わたしたち……迷惑ばかりかけて」
斉藤がうつむいたまま言った。
「そんなことないよ」と麗華がやさしく続けた。
「みんな仲間じゃ無い。困ったときは助け合う。当然のことだよ」
川原さんが静かに頷いた。
「任せて。日々の健康管理は私の仕事。大丈夫。治療法はきっと見つかるから」
言いながら、隣に座る太田の背をそっとさすった。
「僕も」と大沢さんが力強い声で言った。
「知識しかない、半人前だけど。僕の願いは人を助けられる人になること。だから3人を助けてみせる。この星の薬のことや治療技術をエボンヌの人たちから学んで、必ず、糸口を見つけます」
「……わたしも、行く」
小さな声がした。高橋だった。
「葵ちゃん?」と鈴木が驚いたように見た。
「エボンヌの街に私も一緒に行く」と葵はまっすぐに芽依を見て言った。
「ずっと拠点にいたのはね、ポヨンヌのみんなにマフラーをせがまれてたから。でも、もう全員の分を編み終わったの。だから、これ以上拠点にいる理由は無いんだ」
高橋は鈴木の手を両手でそっと握った。
「今度は、芽依のために何かしたい。私、お医者さんみたいなことはできないけど。そばにいることならできる。芽依が心細くないように。ずっと一緒にいる」
鈴木の目から涙が溢れ出てきた。
「……葵ちゃん」それ以上言葉にならなかった。
ただ、握られた手を握り返していた。
せっかく再会できた親友とまた離れずにいられる。治すあてもないまま、不安の中に置き去りにされるのではない。隣に葵がいてくれる。これほど心強いことは無かった。
「儂は」とそれまで黙って聞いていた中嶋さんがぼそりと口を開いた。
「今度は拠点で待っとる。萌ちゃんや年寄り連中を守ってな。お前さんたちが帰ってくる場所だけは、ちゃんと守っとく。それが、儂の役目じゃ」
桃矢は深く頭を下げた。「お願いします、中嶋さん」
話が終わり、みんなはそれぞれの寝床に入った。
桃矢はなかなか寝つけずに、まだ外で立っていた。
「眠れないの?」
声に振り返ると、麗華だった。今度は驚かなかった。
「川嶋さんこそ」
「わたしも眠れなくて」と麗華は隣に立った。
2人でしばらく星を見上げていた。
「怖いんです」
桃矢は自分でも意外なほど素直に心の内を麗華に打ち明けた。
「武田を止められるのか。地の底の人たちを守れるのか。3人を治せるのか…」
「何1つ、当てなんてない。偉そうにみんなにこれからの事を言ったくせに。俺、本当は不安でしかたないんです」
麗華は桃矢の横顔を見た。それから静かに言った。
「怖くてもいいんだよ」
桃矢は顔を上げた。
「怖いけどそれでも行く。それが、強いってことだと思う。武田くんはね、たぶん、怖いのを認められなかった。だから、あの声につけ込まれたんだと思う。でも桃矢くんは違う。ちゃんと、怖いって言える。だから、大丈夫」
夜風が2人の頬をなでていた。
かつては憧れていたものの、遠い存在だと諦めていた麗華。そんな麗華が今は身近な存在となった。それだけじゃ無い。言葉を交わす度に2人の心が近づいている気がした。
以前の桃矢だったら、心臓の鼓動が高まり、固まって言葉も出なかった。
でも、今は違う。
桃矢は隣の麗華の横顔を見ながら、この人は自分にとってかけがえのない存在であり、彼女が隣にいるだけで、どれほど自分が勇気づけられるか、はっきりと自覚していた。
「ありがとうございます。川嶋さんが隣にいてくれたから、俺、ここまで来られました」
麗華は答えなかった。ただ、ほんの少し、頬を赤らめてうつむいていた。
ただ、隣に桃矢がいる。それだけで、麗華の胸は熱くなっていた。
この人とこれからも同じ道を歩く。険しい道を。それでも、隣にこの人がいるなら、と麗華は思う。どんな道でも、きっと歩いていける。
好きだという想いは、胸の奥にそっとしまったままだった。
今は言うときではない。武田を止め、3人を治して、地の底の者たちを守って。全部が終わって、この人と笑い合える日が来たら。その時に伝えよう。
今は、隣を歩けるだけで十分だった。
寝床へ行く途中、陽翔がひとり地面に座りこんでいるのに気がついた。
桃矢はそっと近づいて、隣に腰を下ろした。しばらく、2人とも無言だった。
「もも」やがて陽翔が低い声で言った。「明日から、武田を、追うんだよな」
「ああ」
「もし」陽翔は暗がりを見たまま言った。
「もし、あいつに、追いついたら。…お前はどうするんだ」
「止めたい。声から引き戻したい。あいつも被害者だから」
陽翔は何も言わなかった。ただ、その横顔には、強い決意のようなものが浮かんでいた。結菜を奪った男を許せるはずがない。その想いを陽翔は隠そうともしなかった。
桃矢は胸が痛んだ。武田に対する自分の思いと陽翔の思いは、逆だった。
俺たちが再び武田の前に立った時、陽翔にたいして俺は…
「陽翔」
桃矢は言いかけてやめた。今は何を言っても、届かない気がした。
ただ、幼なじみの肩にそっと手を置いた。今はそれが精いっぱいだった。
アカが東の丘から昇り、村を金色に照らしだした。
出発の朝を迎えた。
トアとフウが、2つの気球の準備をして空き地で待っていた。
村じゅうのポヨンヌが見送りに集まっていた。
ルウが落ち着かなげに、桃矢たちのあいだを行き来している。それから、葵の前で立ち止まった。首にかけているマフラーを、まるい手でそっと持ち上げた。特別な日にだけ着ける、大切なマフラーだった。
葵はルウのハラシロに、やさしく手をかざした。
「行ってくるね、ルウ。必ず戻ってくる」
ルウのハラシロが、無事を祈るように暖かく光った。
長田さんが車椅子から立ってみんなの前に来た。
「いってらっしゃぃ」
ただ、その一言だったが、その言葉には皆を気遣うやさしさが伝わってきた。
中嶋さんが「無理だけはするなよ」と言って桃矢の手を強く握りしめた。
みんなに見守られ、気球の籠に乗りこんでいく。
桃矢は、みんなが籠に乗り込んだのを確認すると、大きく息を吐いた。
「行きましょう」桃矢の声に、隣で麗華が頷く。
気球はゆっくりと浮かび上がり始めた。
拠点に残る人達や村のポヨンヌたちの姿が次第に小さくなっていく。桃矢は、遠ざかる村を目に焼きつけた。




