第81話 ノイラ
地の底には、恐ろしいものがいる。
もしも地上の者が私たちを見たなら、きっと、そう思うだろう。長く尖った耳。闇のような艶やかな漆黒の体。その体には無数の星のような光の模様があり、まるで星空のようだ。
私の名はリド。私たちは自分たちの事をノイラと呼んでいる。
今、私はある1つの命題に取り組んでいる。それは、私たちの起源。私たちはどのようにして生まれたのか。またはどこから来たのか。
地の底と言っても、暗く冷たい穴ではない。私たちがいる場所はノイル。地の底の空間に私たちが造り上げた都市。建物や井空間の天井部分は淡い光を放っていて、ノイルはやわらかな光に満ちている。
地上の2つの太陽の恵みなど、私たちには要らない。あの光は私たちの体には猛毒だからだ。だから私たちは、光を自らの手で作った。このノイルの全てが、私たちの思考から生乱されたものだ。
私はまだ若い。歴史学を専攻している。師のヴェナのもとで、来る日も来る日も、命題と向き合っている。ノイラの起源。それを解き明かすことが、私に与えられた務めだった。
その日も、私は評議の間にいた。
円形の広間には、幾人もの歴史学者が集っていた。
「起源について、新たな仮説を得た」と1人が発言した。「我らは、地上のポヨンヌから分かれ出た者。この4角い骨格が、ポヨンヌとの類縁を物語っている。遥かな昔、一群のポヨンヌが地の底へ迷い込み、2度と地上に戻れないまま、複合光を絶たれ、幾万代をかけて、まったく別の姿に変わった」
「それは第4万7千208番の仮説と、根を同じくする」とすかさず別の1人が返す。
「迷い込んだだけの一群が、ここまで姿を違え、なお絶えずにきたその道筋が、説明されていない。反証を試みる」
こうして議論が始まっていく。1つの仮説に無数の反証。反証への再反論。私たちは思考の海に潜っていく。深く、深く。
1つの問いから枝分かれした無数の道をたどっていく。ある道が行き止まれば別の道へ。それが交われば、また新たな道へ分かれる。
私たちの頭の中では、何億という思考が絶えず生まれ、ぶつかり、消えていく。
1つの結論に飛びつくことは、私たちの流儀ではない。あらゆる可能性を余さず吟味し、比べ、なお疑う。深く考え抜くこと。それだけが私たちの誇りであり、規範だった。
だが、正直に言えば、私はときどき考えてしまう。この方法は正しいのだろうか。
無数の可能性をすべてたどる。それは、いちばん賢いやり方に思える。
けれど、あまりに多くの道を同時に抱えるあまり、いちばん近い、まっすぐな一本を見落としてはいないだろうか。
そんな考えが頭をよぎるたび、私はそれを愚かな迷いとして思考の隅へ押しやった。
単純さは、私たちノイラとって軽蔑すべきものだったから。
その日も、1人の学者が古い問いを持ち出した。もし地上の知性ある者が、この起源の謎を解こうとしたら、どこから手をつけるだろう。
みんなはいっせいに思索の海へと潜った。
地上の者の思考を、私たちなりに再現しようというのだ。
だが、うまくいかなかった。
私たちの思考は、あまりに速く、あまりに多くの枝へ分かれてしまう。
地上の者が、たった1つの筋道を、ゆっくりと、まっすぐにたどるさまを、私たちはどうしても、うまく思い描けなかった。
「単純すぎて、かえって再現しがたい」誰かが言った。皆が、静かに同意した。
私たちにとって、まっすぐな1本道ほど、捉えがたいものはなかった。
それが、私たちの弱みだとは、そのときは誰も思わなかった。
ヴェナが静かに言った。「これまでに立てられた起源の仮説は、50万を超えた。いずれも決定的ではない。だが無駄ではない。ひとつひとつが、真実の輪郭を少しずつ削り出している」
私はその言葉に深く頷いた。
50万の仮説。地上の者が聞けば、気の遠くなる数だろう。だが私たちにとって、思考とはそういうものだった。
私にも温めている仮説が1つある。50万1番目に当たるそれを、私はまだ誰にも語っていない。
まだ、証も立てられていない、ただの仮説だ。それでも私は、その考えを手放せずにいた。
答えのない問いを抱えて眠るのは、ノイラにとっては、いちばん幸福な悩みだった。
評議のあと、私はヴェナとノイルのはずれを歩いた。
私たちのノイルは美しい。地上には、蔓と枝で組んだポヨンヌの村や石とレンガと材木で築かれたエボンヌの街があると聞く。だが私たちのノイルは、そのどちらともまるで違う。
私たちは、思考をそのまま形にする。だからこのノイルには、無駄な物は1つもない。
天井は高く、淡い光を宿している。地の底だというのに、穏やかな光に包まれ、どこまでも澄んだ静けさに満ちていた。
滑らかに湾曲した通路が幾重にも交差し、空中には何本もの光の柱が浮かび、私たちの歩みに合わせて、そっと明るさを変えてくれる。
住まいの形は、住む者の好みに応じてそれぞれだ。角張った家もあれば、水滴のように丸い家もある。
私たちの技術は、地上のどんな技術とも違う。全て思考が解決する。
歩きながら私はノイルを見渡した。ここには、私たちが欲するものがすべて揃っている。知りたいことを問う相手。考えを深める静けさ。
通りの至る所で、若い者たちが静かに議論を交わしている。光の文字を空中に描き、互いの考えを示してぶつけ合う。争うためではない。少しでも遠くへ、思考を進めるためだ。
私たちのノイルには、そういう静かな熱が、いつも満ちていた。
「ヴェナ」と私は尋ねた。「1つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「私たちは、なぜ、こんなにも……短命なのでしょう」
「二つの太陽の恵みを受けられぬからだ。地上の者たちは、あの光を浴びて体を保つ。傷を癒やし、老化もゆるやかだ。あの光そのものが、彼らを護っている」
「だが、我らはその光の下では生きられない。太陽の恵みを受け取れない。だから我らの体は早くに衰える。それが、この地の底に生きる者の定めなのだ」
私はうつむいた。師のヴェナは、もう老いている。ノイラの生は、余りにも短い。生まれ、学び、考え、そしてあっけなく終わる。私が今向き合っている起源の問いも、私の生のうちには解けないかもしれない。
「哀しいか」とヴェナが言った。
「……はい」と私は正直に答えた。
「哀しむ必要は無い」とヴェナは穏やかに言った。
「短いからこそ、我らは考えることをやめない。限られた時のなかで、1つでも多くの真実に近づこうとする。長い生は、時に思考を鈍らせる。急がぬからだ。だから我らの思考は、速く、深い。それは短さと引き換えに、我らが得た宝だ」
その言葉に、私は胸の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。
ヴェナはいつも穏やかだった。ノイラは誰もがそうだ。声を荒らげる者も、力で何かを奪う者も、このノイルにはいない。私たちにとって、争いは無意味だった。
奪い合う必要は無い。何でも思考から生み出せる。
ノイルのいちばん高い展望から、私たちは遥か頭上を仰いだ。
そこには淡い光を放つ天井がある。だが、そのはるか上には、太陽の光に包まれた世界があることを私たちは知っている。私たちが決して、その身では立てない場所。
「地上へ行ってみたいと思うことはありますか」
「行こうと思えば行ける」とヴェナは答えた。
「光を遮る装置を作ろうと思えば、造作もない。だが我らは、作らない」
「なぜですか」
「意義がないからだ」とヴェナはあっさりと言った。「わざわざ死の光の下へ、身を鎧ってまで出ていく。そこに何の意義がある。我らの世界はここで完結している」
それからヴェナはほんの少し、声のトーンを落とした。
「……ただ」
「ただ?」
「1度でいい。光の世界の誰かと言葉を交わしてみたいとは思う。互いの考えを交わし合えたら。それは我らの起源を解くのとは、また違った面白さがあるだろう」
私は立ち上がり、自分の住まいへと戻っていった。壁が私の帰りを察したように、入口を開き、内側から淡く灯った。
明日も私は考えるだろう。私たちがどこから来たのか。何のためにこの短い生を与えられたのか。答えの見えない海に深く潜っていく。それが私たちノイラの日常だった。




