第8話 最初の夜
橙色の光が地平線に近づくにつれ、空の色はますます深みを増していった。橙の光が空を覆い、地球では見たことのない、燃えるような茜色の空が広がっていた。その光景に何人かが思わず息を呑んでいた。
「綺麗だね」
誰かが、ぽつりと呟いた。恐怖と隣り合わせの状況の中で、それでも目の前の景色に心を奪われてしまう。人間というのは、不思議な生き物だと桃矢は思った。
橙の光が沈んであたりが暗闇に包まれた頃でも、気温は思っていたより下がらなかった。むしろ、明るかった時間の蒸し暑さの名残が、暗闇の中に残っているような感覚だった。
それでも、何人かは火の周りに集まった。誰かと火を囲んでいるというだけで、不思議と心が落ち着く。
火を囲みながら、ぽつぽつと会話が生まれ始めていた。普段なら絶対に話すことのなかったような組み合わせ、今泉さんと一橋さん、太田と大沢さんが不安を紛らわせるように言葉を交わしている。極限状況は、人と人との距離を思いがけない形で縮めるのかもしれない。
「87年、生きてきたけどねえ」と長田さんが、車椅子の上から火を見つめたまま言った。「こんな夜は、初めてだよ。私の主人はね、会社をやっていたの。それなりに大きな。でも、お金も肩書きも、ここじゃ何の役にも立たない」
「その分、私がいます」と、大葉さんが軽く返した。「奥様のお世話、もう10年ですよ。星が変わったくらいで、辞めませんから」
「75にもなって、まさかこんな冒険をするとはなあ」と、三浦さんが苦笑して、その輪に加わった。
少し離れた場所では、今泉さんが自分の分の果実をあっという間に食べ終えて、手に残った果実の匂いを嗅ぎながら残惜しそうに眺めていた。
「わたし、昔から燃費が悪くて」と、誰かの視線に気づいて、恥ずかしそうに笑った。
「独身寮に帰っても誰も待ってないから、朝ごはんは毎日、バスでパンって決めてたんです」
武田は少し離れた場所で、山崎や石原と小声で何か話し込んでいた。明日以降の動き方について相談しているのだろう。その横顔には、安堵と疲労が入り混じったような表情が浮かんでいた。1日中、誰よりも気を張り続けていたのだろうと、桃矢は遠目にその様子を見ながら思った。
麗華は友人たちと共に火のそばに座り、今日1日のことを振り返るように、静かに言葉を交わしていた。時折、こちらに視線を向けることもあったが、桃矢はそのたびに目が合う前にさりげなく視線を逸らした。
桃矢は少し離れた場所で、陽翔と並んで座っていた。
「なんか、ゲームの中にいるみたいだな」
陽翔がぽつりと言った。
「ほんとだよな。でも、これ、リセットできないやつだから」
「だよな。でも、お前がいてくれて良かったよ。火や寝床のこと、あの状況では誰も気づかないって」
「いや、別に大したことじゃ…」
桃矢が言葉を濁すと、陽翔は小さく笑った。
「相変わらず謙遜か、お前」
その軽口に桃矢も小さく笑い返した。こんな状況でも、いつも通りの陽翔との掛け合いが不思議と心を軽くしてくれた。
「みなさん」武田が火を囲む一同に向かって声をかけた。
「夜の間、誰かが起きて見張りをした方がいいと思います。何が出るか分からないし、火も絶やさない方がいい。2人一組、2時間ずつの交代で。見張りは俺たち高校生と山田さんにお願いしたい。女性や高齢の方はゆっくり休んでください」
武田の提案に異論を唱える者はいなかった。むしろ、誰かが見張っていてくれるという安心感の方が大きかった。山崎と田崎が最初の見張りを買って出て、その後の順番も武田が手早く割り振っていった。
「私もやるよ」
麗華が、ふいに手を挙げた。
「麗華は無理しなくていいよ。怖くないのか」
武田が少し意外そうに言うと、麗華はきっぱりと言い返した。
「怖いに決まってるじゃない。でも、女子だからって理由でやらないのは違うでしょ。できることはやる」
その物怖じしない返しに武田は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに小さく笑って頷いた。
「そうだな。分かった、頼む」
誰もが不安に押し潰されそうな中で、はっきりと自分の意志を口にできる人間は、そう多くない。その芯の強さに、車内の何人かが思わず麗華に見入っていた。
麗華は友人の女子生徒と組むことになった。桃矢と陽翔も深夜過ぎの時間帯を任されることになった。
「俺たちもひと仕事かよ」
陽翔が苦笑しながら言うと、桃矢も小さく頷いた。それでも、何もせずただ守られているよりは、自分にできることがある方が気持的には楽だった。
眠る場所もそれぞれで分かれることになった。市バスの座席は、当然ながらどれもリクライニングしない。
横になれるのは、唯一横長になっている最後部の座席しかない。
「最後部の席は、高齢の方優先で」
武田の提案で、長田さんと一橋さん、三浦さんが、交代で最後部の座席を使うことになった。それ以外の座席では、せいぜい浅く腰掛けて座ったまま体を休めるくらいしかできない。大葉さんと川原さんは高齢者たちのそばに座り、何かあればすぐ動けるよう、座席にもたれかかるようにして目を閉じていた。
残りの面々の多くは、外で過ごすことを選んだ。
地面に上着や鞄を敷き、互いの体を寄せ合うようにして、できるだけ寝心地を確保する。地面に直に近いとはいえ、不自然な姿勢で硬い座席に座り続けるよりは、よほどましだった。
桃矢や陽翔、武田たち比較的若い面々は、そうやって外の火のそばに横になった。
地面の硬さも、夜風の湿った匂いも、何もかもが慣れないものばかりだった。それでも、不思議と眠気はやってきた。知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのかもしれなかった。
もっとも、誰もがすんなり眠れたわけではなかった。
慣れない硬い座席に座ったまま、うとうとしては目を覚ますことを繰り返す者。地面の感触に落ち着かず、何度も寝返りを打つ者。火のはぜる音に驚いて目が覚めてしまう者。
今泉さんは座席にもたれたまま、何度も寝返りを打つようにして座り直していた。
眠れないというだけのことが、これから先、じわじわとそれぞれの心を蝕んでいくことに、この時はまだ誰も気づいていなかった。
桃矢は火のそばに横たわりながら、空を見上げた。橙の太陽はとうに沈み、青白い色の太陽もまだ昇ってこない。今は、この星が見せる、もっとも暗い時間なのかもしれない。
地球では見たことのない星々が、その暗闇の中で、ひときわ鮮やかに無数に瞬いていた。
遠くで、何か虫の鳴き声とも鳥の声ともつかない音が断続的に響いていた。
地球の夜とはまるで違う音色だったが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、その音は、まるで子守唄のように、桃矢の意識をゆっくりと眠りへ誘っていく。
明日は、どうなるんだろう。
そんな漠然とした不安を抱えながらも、桃矢の意識はいつの間にか深い眠りに引き込まれていった。




