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いつもの市バスは、異世界行き  作者: チーム エボンヌ
第三章 対立編

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第76話 風に乗って

 良い風になった、とトアが言ったのは、街で支度を整えてから、数日が経ったころだった。

 トアは空を仰ぎ、雲の流れと、頬に受ける風の向きを、長いあいだ確かめていた。『この風なら、あの遺跡のほうへまっすぐ運んでくれる』とトアは言った。『行くなら、今だ』

 空き地には、2つの気球が置いてあった。トアの気球とトアの弟子のフウの気球。8人とその荷物の量を見てトアが手配してくれた。麗華はトアと相談して、乗る組を分けた。トアの気球には、桃矢、麗華山崎と山田さん。もう1つには中嶋さん、大沢さん、陽翔と朽名。

 乗り込む前に、トアが手のひらほどの石を組み込んだ金具を持ってきた。エボンヌが使っている灯火具だった。『行く所は、光が届かない場所かもしれない。これを持っていきなさい。光を照らす道だ』そういって、全員に1つずつ渡してくれた。

「気分が悪くなったら、我慢せずに言うこと。無理はしないで」麗華の言葉に桃矢もうなずいた。初めて乗る気球。誰もが少しずつ、表情をこわばらせていた。

 トアの操作で、暖かい空気が布の中に送り込まれていく。カラフルな端切れで作られた大きな布がゆっくりと張っていった。籠がかすかに揺れ、綱がぴんと張る。トアの指示で待機していたエボンヌが留めていた綱を解くと、次の瞬間、籠がふわりと地面を離れた。

「浮いた……!」と朽名が、隣の籠で声を上げた。

 地面が遠ざかっていく。街の家並みがみるみる小さくなる。桃矢は籠の縁を握って下を見た。一瞬、目眩のようなものを感じたが、気を取り直して遠くを見るようにした。


 2つの気球は、つかず離れず、同じ風に乗って上昇していった。籠と籠の間は、声が届くほどの近さだ。「陽翔、落ちるなよ!」と山崎が笑いまじりに叫ぶと、「落ちるかよ!」と陽翔が叫び返す。強がってはいるが、縁を掴む手には力が入っていた。慣れない浮遊感でみんな落ち着きをなくしていた。それでも、徐々になれてくると、周りの風景に目を奪われ始めていた。

 ある程度上昇したところで、気球は風に乗って水平に移動し始めた。

 眼下には、広大な大地が拡がっていた。渡るのにあれほど苦労した大きな川。それが今は、草原を横切る細い川にしか見えない。抜けてきた森も、越えてきた丘も、どれも手のひらに載りそうなほど小さい。桃矢は、自分たちがどれほど長い道を歩いてきたのかを、思い知らされた。

「あ!」と山田さんが身を乗り出して、地上のある1点を指した。「あそこ。灰色の4角い影。……遺跡だ」

 草原のところどころに、小さな灰色の点が散らばっていた。桃矢たちが訪ねてきた遺跡だった。空から見ると、その配置がはっきり見えた。

「地図の印と同じ配置だ」と中嶋さんが写しの地図を広げて、地上と見比べた。「空から見ると、それがよく分かるな」

 桃矢眼下に広がる草原の中の遺跡を目で追った。点在する遺跡は、方角も距離もばらばらだった。近い場所から出た自分たちと武田たちが、まるで違う方角の遺跡にたどり着いたのも頷ける。空から見える遺跡は、大きさも形も、どれもよく似ていた。

「地図で、数も場所も分かっていたつもりだった」と中嶋さんがつぶやいた。「でも、こうして空から見るのとは全然違うな」中地のさん声はむ感動で震えていた。

「川原さんにも見せたかったな」と山田さんが、ぽつりと言った。「地図とにらめっこして、何日も悩んでたことが、上から見たら、あっさり解決したりして。あの人、悔しがるだろうな」。そう言って、山田さんは少しだけ笑った。トルコの遺跡を熱っぽく語っていた川原さんの顔を思い浮かべた。長田さんたちはバスのそばで、無事を祈ってくれている。桃矢は、既に遠くにかすんでしまっている拠点の方を見た。みんなのところへ必ず帰る。そのためにも、今は前へと進む。


 隣の籠から、朽名の歓声が風に乗って届いた。

「わあ、すごい! ハナたちに見せてあげたい!」と朽名が身を乗り出す。すぐに陽翔が「危ないって。乗り出すなよ」と、その肩を引き戻した。それでも朽名は、目を輝かせて、流れていく雲を追っていた。高いところが怖いはずなのに、その怖さより、初めて見る空の景色のほうが、勝っているらしい。

 陽翔はそんな朽名の横顔をちらりと見た。危うい旅の空だ。本当なら、こんなところへ連れてきたくはなかった。武田に誘われたあの日、この現実的な男は、生き残る確率だけを考えて、1度は迷った。それでも、桃矢のそばを選んだ。朽名を守れる場所を選んだ。その選択は、間違っていなかった。今、隣で笑う朽名を見れば、それが分かる。陽翔は何も言わず、朽名が転げ落ちないよう、その背にそっと手を添えていた。

 同じ籠で、大沢さんはみんなの顔色を1人ずつ確かめていた。「気分が悪くなったら、すぐ言ってください」と大沢さんは言った。高いところで目を回す者はいないか。息の浅くなる者はいないか。中嶋さんが「さすが大沢くんだな。もう既に医者だ」と笑うと、大沢さんは少し照れて、「まだ、なりかけですけど」と返した。


 トアの気球では、山崎がずっと前方を見つめていた。

 気球の行く先。そのどこかに、武田がいる。山崎は、武田の背中を探して目を細め続けていた。「あいつは、まだ、あの遺跡に着いてないはずだ」と山崎は低く言った。「徒歩なんだ。俺たちは、空を行ってる。……間にうはずだ」

 桃矢はその横顔を見た。武田を誰より知る男。あいつを止められなかったと、ずっと自分を責めてきた男。その山崎が今、今度こそ止めようと必死になっている。

 桃矢は、静かに頷いた。


 空の上では、2つの太陽の動きが、地上よりもずっとよく見えた。

 アカがゆっくりと傾いていく。それを追うように、シロが空の高いところへ昇っていく。2つの光が、雲の海を橙と青白い色に染め分けていた。地上にいたときは、木々や丘に遮られて、その全体を見渡せなかった。空にいる今は、太陽の動きがよく分かる。2つの太陽が、それぞれの速さで、それぞれの方角から空を移動していく。その不思議な動きを、桃矢は、武田のことも忘れて見入っていた。

「きれいね」と隣で麗華が言った。

 籠は、時々風で揺れる。隣同士に立つむ桃矢と麗華の肩が、揺れる度に自然と触れそうになる。麗華も同じ空を見上げていた。その頬が、シロの薄明かりに淡く照らされている。

「はい」と桃矢は言った。「こんな景色、見られるとは思っていませんでした」

「桃矢くんが、追うって決めてくれたから、私はいま、こうして空を飛んでる。あのとき、間に合わないって、みんなが諦めかけてたのに。諦めなかったのは、桃矢くんだけだった」

 桃矢は、何と返せばいいのか、分からなかった。ただ、胸の奥がじんわりと温かくなった。麗華はそれ以上、何も言わず、桃矢の隣で同じ空を見ていた。風が2人の間を静かに吹き抜けていく。こんなふうに穏やかな時間が、ずっと続けばいい。そう思いかけて、桃矢は、前方に待つものを思い出して、静かに気を引き締めた。


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