第75話 気球
「……また、声」と麗華が掠れた声で言った。みんながこわばった顔を見合わせた。
桃矢の背筋を冷たいものが走った。あの遺跡の声がこんな場所まで追ってきたのか。今度はみんなにまで。桃矢はとっさに、みんなをかばうように1歩前へ出た。
「おい」と桃矢は声に出さずに強く念じた。「またおまえか。この前、遺跡で俺のやさしさを笑ったやつだな。何が目的だ」
声はすぐには答えなかった。少し間があり、《あの時の声とは違う。だが、それを証明するものは無い。あなたが警戒するのは当然だ》
声にはやさしさがあった。遺跡の時の見下すような感じも、圧迫感もなかった。
「信じられるか」と桃矢は言った。「頭の中に勝手に入ってきて、正体も言わない。何もかも、あいつと同じだ。みんなを巻き込むな」
《信じられ無いのは無理もない。ただ1つだけ、伝えたいことがある。あなたたちは、遠い場所を目指しているが、このまま歩いて行くだけでは間に合わない。この街には、空を飛ぶ道具がある。それを使えば追いつける》
「空を飛ぶ……」と山田さんが思わず声に出した。
《それだけだ。信じるかどうかは、あなたたちが決めればいい。私は、あなたたちの邪魔はしない》
声はそう言うと、そっと引いていった。頭の中から気配が静かに遠ざかる。あの遺跡の声とは引き方も違った。電話を切るように、急に気配が無くなるのではなく、少しずつ、ゆっくりと気配が去って行く、そんな感じだった。
けれど、桃矢の心には、まだ警戒心が根強く残っていた。
「桃矢くん」と麗華が青ざめた顔で言った。「今の、信じて大丈夫なの?……あの声は、私たちに何かさせようとしてるんじゃないの?」
「分からない」と桃矢は正直に言った。「俺も信じてない。遺跡の声と同じ手口だ。勝手に頭の中に入ってきて、都合のいいことだけ言う。武田もこうやって、少しずつ変えられたんだ」
山崎が拳を握った。武田があの声に何を吹き込まれ、どう変わっていったか。誰よりも近くで見てきた男だった。「桃矢の言う通りだ」と山崎は言った。「甘い言葉には、裏がある」
みんなもが深く頷いた。声が言っていた「空を飛ぶ道具」も、今はうかつに飛びつけるものではなかった。
声の余韻が収まらないまま、桃矢たちは丘の上のトアの家に向かった。
そこはこじんまりとした家だった。ピンク色のドアを叩くと、ドアが開いてルウのような橙色の顔をしたエボンヌが出てきた。
「初めまして。桃矢と言います。私たちはネイの友人です。ネイからここに力になってくれる人がいると聞いてきました」
『トアだ。ネイとは古くからの友人だ』そう言うと、家の裏手へ桃矢たちを招いた。
裏手の広い空き地に、それはあった。
地面には赤、黄、青、緑、色とりどりの四角い布を市松模様に継ぎ合わせた、大きな布状の者が横たわっていた。その布には太い縄が何本の取り付けてあり、縄は隣に置かれた大きな籠とつながっている。籠は木のつるのようなもので編み込まれ、高さは大人の胸の上ほどもある。幅は2m程あり、10人ほどが乗り込んでも、まだ余裕がありそうだった。傍らには、複合光を受けてじわじわと熱を溜める石、ネイが見せてくれた火起こしの石を何倍にも大きくしたものが置かれていた。
「気球だ」と大沢さんが目を見張った。「まさか、この星で見るなんて。これで、空に」
トアのハラシロが誇らしげに淡く光った。
『複合光を溜めた石で、暖かい風を作って袋に溜める。暖かい風は、上へ昇ろうとする。だから、これも昇る』
トアは籠の縁を軽く叩いた。『風を読んで流れに乗れば、山を越えて遠い街へも行ける』
トアは、籠の側面に付けられたドアを開けて中に入り、大きな火起こし石を籠の中央に据えた。トアは籠の外にでると布を籠に被せていった。再び籠の中に入ったトアは火起こし石の上で手を動かした。やがて、少しずつ、布が膨らみ始めた。熱を溜めた石から出る暖かい空気が、布をゆっくりと押し上げていく。やがて布は膨れ上がり球型になった。籠も地面を離れて浮き上がった。桃矢の背丈ほどの高さまで、ふわりと浮き上がるとそこで止まった。籠から地面に伸びた綱が気球をつなぎ止めている。誰もがが、思わず息を呑んだ。
「浮いた……」と山田さんが、掠れた声で言った。朽名が「わあ」と声を上げ、陽翔が慌てて、その肩を引き戻した。トアが火起こし石に手をかざして調節すると、籠はゆっくりと地面に戻ってきた。
「熱気球だ。地球ではバーナーを使うがここでは暖かい風を出す石を使う。こちらの方が安全だな」感心したように中嶋さんがつぶやいた。
桃矢は言葉を失った。徒歩では、どうやっても間に合わない途方もない道のり。それを、これなら。
と、そこまで考えて、桃矢ははっとした。
あの声が言った通りだった。この街には、空を飛ぶ道具がある。声の言葉は、正しかった。
だからといって、あの声を信じたわけではない。最初は正しいことを教えて、少しずつ警戒心を解かせ、信じ込ませていく。詐欺者の常套手段だ。
簡単に信じてはいけない。
トアに事情を話すと、力を貸すと言ってくれた。
『ネイの頼みなら、協力する。それに』とトアは言った。『あんたたちの目指す先は、簡単に歩いて行ける場所では無い。私も、行けとは勧めない。……だが、行くと決めた者を全力で応援したい』
桃矢は気になっていたことをトアに尋ねた。自分たちのほかに、この街を通った人間はいなかったか。自分たちの様な姿をした者たち。武田たちが、もしここを通っていれば、足取りが掴める。
トアはゆっくりと首を横に振った。『いや。あんたたちのような者を見たのは今日が初めてだ。他にこの街を通った者はいない』
桃矢はその意味を噛みしめた。武田たちはこの街のことを知らない。おそらく気球の事も知らない。ただ、ひたすら歩いているのだろう。だったら、気球を使えば彼らに追いつけるかもしれない。徒歩の武田と気球で行く自分たち。いつまでも縮まらなかった距離が、初めて、縮められそうだった。
山崎も同じことを思ったらしい。「間に合うかもしれない」と掠れた声で言った。「あいつが、あの遺跡に着く前に」
マナを失ったネイが、桃矢たちをこの街へ送り出した。そのネイの友が今、桃矢たちを気球で空へ送り出そうとしている。桃矢はエボンヌたちのやさしさが、嬉しかった。このやさしさを無駄にはしない。そう心に強く誓った桃矢だった。
麗華がトアと出発の段取りを詰めていった。何人乗れるのか。どれほどの荷を積めるのか。いつ出発できるのか。桃矢はその傍らで必要なことを補っていた。
空を仰ぐと、アカが低く傾き、シロが高く昇っていた。街の石壁が、青白い薄明かりに照らされている。
桃矢は丘の上から、来た道のほうを振り返った。あの遺跡で聞いた冷たい声。そして、この街で聞いた、もう1つの声。2つの声は同じように頭に入ってきて、同じように得体が知れなかった。桃矢はその2つを共に警戒のしていた。
しかし、心の底では、腑に落ちない事もあった。遺跡の声は行くなと、俺を止めようとした。この街の声は行く手助けをした。それぞれが向いている方向は、まるで逆だった。
その違いが何を意味するのか。
桃矢にはまだ分からなかった。今はただ、警戒するしかなかった。
「桃矢くん」と隣に来た麗華が言った。「気球を使えば、武田くんに追いつけるかもしれないね」
「はい」と桃矢は頷いた。「あの声のことは、まだ信じられません。でも、気球があった。トアさんが力を貸してくれるなら、賭けてみる価値はあります」
麗華が静かに微笑んだ。行き詰まっていた道に、一筋の光明が差し込んだ。ただ、その解決策を示したのが、警戒すべき声だったという事実だけが、桃矢の胸に小さな棘のように残っていた。
肩の上で、ボルンが穏やかに光っている。ボルンは、あの2つの声の事を何かを知っているのだろうか。
聞いても、ボルンはただ穏やかに光るだけだった。




