第73話 やさしさ=弱さ?
大きな川は、遠くから見てもそれと分かった。
草原を抜けてしばらく歩くと、目の前に大きな川が横たわっていた。ポヨンヌの村へ渡る、あの蔓と枝の橋のかかった川とは比べものにならない。
桃矢は川辺に立ってしばらく流れを見ていた。橋はない。
ここまで案内してくれたネイが、川辺で足を止めると振り返った。
『案内はここまでだ。私はポヨンヌの村に戻る』
桃矢はネイを見た。
「ここまで、ありがとうございます」と桃矢は頭を下げた。
『私たちがこの川を渡る方法を伝えておく』とネイは続けた。『もう少し上流に向かうと、見た目より浅いところがある。そこは、水面が白く波立っている筋のようになっている。その筋は石が浅く連なっていて、膝ほどの深さで渡れる。それを外れると、急に深くなる。気をつけて』
山崎が、川の上流に微かに見えるその白い筋を目で追った。「あそこか。少し遠いな」
ネイは対岸の向こう似見える山脈を指さした。『この方向に進むと小さな遺跡がある。その遺跡を越えて先へ進めば、私たちの街がある。街に着いたらヤナを探しなさい。私の名を言えば、きっと力になってくれる』。それからネイのハラシロが、ふわりと温かい色に光った。『無事を祈る』
ネイは踵を返し、来た道を戻っていった。その背を桃矢たちは黙って見送った。
川を渡るのは、思っていたよりも大変だった。
ネイの教えてくれた浅い筋は、確かに膝ほどの深さだった。けれど流れは速く、足を取られればたちまち流されてしまう。桃矢は先頭に立って、足で川底の石を1つずつ探りながら進んだ。ここは踏める。ここは滑る。振り返って、後ろの皆に、渡れる場所を声で伝えていく。
「川嶋さん、そこは深いです。もう半歩、右へ」
麗華が桃矢の示す先へ慎重に足を移した。長い髪が水に濡れて、頬に張りついている。それでもリーダーとして皆の真ん中にいて、遅れがちな者に手を差し伸べていた。
いちばん危なかったのは流れの真ん中だった。川底が深いためか、石の連なりの上にいても、水は腰の高さまできていた。山崎が「俺が一番深いところに立ってみんなをサポートする」と言って、1番深いところに立った。がっしりとした体で流れを受け止め、後ろの者が渡る間、手を取って前へ移動するのを助けた。
全員が対岸に渡りきったとき、皆、肩で息をしていた。しばらく濡れた体を対岸で休めていた。桃矢は空を見上げた。アカがだいぶ傾き、シロが半ばまで昇っている。渡るだけで、かなり時間を費やした。
武田たちもこの大河を渡ったはずだった。桃矢たちはカイが渡り方を教えてくれたから何とか渡れた。武田たちはどうやって渡ったのか、桃矢は不思議でならなかった。でも、ここまで武田たちの姿は見かけなかった。きっとこの先のどこかを進んでいるのだろう。
対岸の森を抜けると、それは唐突に現れた。
草に半ば埋もれた、灰色の石の塊。桃矢たちが訪れた遺跡と同じ感じのものだった。四角く組まれた石。表面に刻まれた、細かい線と絵。長い年月に角が削れ、蔦が這っている。地図に記された、点在する印の一つ。ここが、川を越えた先の遺跡だった。
近づくにつれ、肩のボルンが落ち着きをなくし始めた。桃矢が周りを見ると、みんなのボルンも同じように激しく瞬いていた。これまで、こんなに強く明滅したことはなかった。前に村の近くの遺跡を訪れたときも、ここまでではなかった。
「みんなのボルンが、揃って光ってる」と山田さんが、緊張した声で言った。
「危ないってことだな」と中嶋さんが肩のボルンを見て言った。それでも中嶋さんは前へ出た。「少しだけだ。文字と絵を確かめさせてくれ」
中嶋さんは壁面に顔を近づけて、刻まれた線を目でたどっていった。けれど進みは遅かった。素人が見たこともない文字を前にして、そう易々と何かが分かるはずもない。
その時、山崎が地面を見て足を止めた。
「これ……」と山崎がしゃがみ込んだ。草を踏みしだいた跡。消えかけてはいるが、確かに複数の足が通った痕だ。近くには、黒く焦げた石が、いくつか並んでいた。火を焚いた跡だった。
「誰かが、ここで火を使った」と山崎は言った。その顔がこわばっていく。「この足の運び方……荷を背負って、隊列を組んで歩く癖。俺は知ってる。武田たちだ。間違いない。ここを通った」
武田たちがこの遺跡を既に通り過ぎている。その事実に、桃矢は安堵と不安の入り交じった複雑な気持ちになった。武田たちもあの大河を無事渡れた。追っている背中が、確かにこの先にある。近づいている。
桃矢は焦げた石を見つめた。この石の様子からして、通ったのは、何日か前だ。やはり遅れている。
崩れた石の隙間から、暗い内部が覗いていた。みんなはまだ外壁の前で文字を解読しようとしている中嶋さんを見守っていた。桃矢はその内側に、何か引き寄せられるものを感じた。ボルンの明滅がいっそう激しくなる。それでも桃矢は、石の隙間へ体を半身入れた。
その瞬間だった。
頭の中に、声が響いた。
《ようやく来たか》
桃矢のからだが固まった。あたりには誰もいない。石と闇があるだけだ。けれど確かに、頭の中に声が聞こえた。山崎が言っていた、武田を変えた「何か」。誰もいない方を向いて、聞き入る姿。これが、それだ。桃矢はそう直感した。
「……あんたか」と桃矢は、声に出さず、頭の中で問うた。「武田に、囁いていたのは」
《さて。何のことだろうか》
声は間を置いてから、そう返した。落ち着いた、どこか冷ややかな響き。はぐらかしていることが、桃矢にはよく分かった。
「とぼけないでくれ」と桃矢は続けた。「あんたが、武田を変えた。武田を遠くの遺跡へと向かわせた。武田を返してほしい。……それに、争わずに済む道があるはずだ。教えてくれ」
声はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。
《争わずに済む道。あなたは、そういうものを本気で探しているのか》
「探してる」
《争いがきらいか? ずいぶんと、甘い》
「潰し合いたくないんだ。俺たちは同じ星から来た仲間だ。敵じゃない」
声の響きに、かすかな、嘲るような色が混じった。
《やさしさ、か》
声はその言葉を、確かめるように繰り返した。
《それは、弱さの別の名だ。守りたいものがあるなら、それを脅かす者を退けねばならない。手を汚さず、誰も傷つけず、すべてを守る。そんな道はどこにもない。あなたのやさしさは、いずれ、あなたの大切なものを、守りきれずに終わる》
桃矢は唇を噛んだ。その言葉は、桃矢がずっと心の中で恐れてきたことだった。誰も失いたくない。だけど、本当に出来るのか。この星に来てから、既に2人失った。守れなかったという悔しさは、今も忘れられない
声は、桃矢の心を見透かすかのように言った。
《現に、あなたは、守れなかった。違うか。次に失うのは、誰だろうな。すぐ後ろにいる者たちの、1人かもしれない。あなたのやさしさは、その者を救えるかな》
その言葉は、氷のように冷たかった。声は桃矢のいちばん弱いところを、正確に突いてくる。
それでも、桃矢は引かなかった。
「……あんたの言う通り、そんな道は簡単には見つからないかもしれない。確かに、俺は守れなかった。それは事実だ。でも、だけかを傷つけるだけだ。だから、俺はどんなに難しくても、争わずにみんなを救う道をこれからも探し続ける。探すのをやめたら、そこで終わりだ。あんたは、俺のやさしさを弱さだと言うけど、武田を変えたあんたのやり方で、あいつは、幸せになったのか。誰かを邪魔者と呼んで、切り捨てて、それで武田は」
声が桃矢の言葉を途中に割り込んだ。
《1つだけ言っておこう。あなたが向かっている先には、あなたの知らないものがある。やさしさなど、何の役にも立たない。引き返すなら、今のうちだ。悪いことは、言わない》
「引き返さない」と桃矢は即座に言った。「あんたが、そうやって俺を止めようとするなら、なおさらだ。その先に、あんたの隠してるものが、あるんだろう。答えないってことが、もう、答えになってる」
頭の中の気配が、一瞬、揺れた。けれど声は、それきり何も答えなかった。
桃矢が我に返ると、みんながこちらを見ていた。
その顔は、一様に青ざめていた。
「桃矢くん」と麗華が駆け寄ってきた。「今、何か……。頭の中に声のようなものが」
陽翔もこわばった顔で頷いた。「全ては分からなかった。ただ、途切れ途切れに言葉が聞こえた。弱さとか、引き返せとか。途中で頭が痛くなった」
声はどうやら桃矢だけにはっきりと届いていたようだった。ほかの人には、頭への圧力と言葉の断片だけが伝わってきたらしい。みんな、今の経験に身をすくめていた。
ボルンたちがもう限界だと告げるように、明滅の激しさが増していた。
「ここを離れましょう。これ以上ここにいたくない」
桃矢の言葉に誰も異を唱えなかった。急いで、逃げるように遺跡から離れた。開けた草原まで戻って、ようやくみんな緊張感から解放された。
シロの薄明かりの下で、桃矢たちは腰を下ろして息を整えた。
「あの声が」と桃矢は、皆に向かってゆっくりと話し始めた。「たぶん、武田が聞いていたのはあれだ。それが、この遺跡にいた。やさしさは弱さだと言われた。でも、あいつは、肝心なことを何も言わなかった。自分が何者なのか。何が目的なのか。武田何をさせようとしてるのか。ただ、引き返せ、とだけ言った」
「引き返せ?」と山田さんが聞き返した。
「俺たちがこの先へ進むのを、しきりに止めたがってた。だから、なおさら行かなきゃいけない。あそこには答えがある。武田を元に戻す手がかりも、きっと」
麗華が静かに口を開いた。
「桃矢くんの、その勘」と麗華は言った。「私、信じる。大葉さんが倒れてた場所も、桃矢くんが読んだ通りだった。追いたいと言い出したのも、桃矢くんだった。あの声が隠してるものを突き止めよう。私たちが行かなきゃ、誰も、武田くんを止められない」
麗華の言葉に、みんながうなずいた。山崎は「あいつを絶対連れ戻す」と拳を握った。
桃矢は、草原の遙か先の方を見た。ネイが言っていた、エボンヌの街。そこへ行けば、武田たちに追いつく方法が見つかるかもしれない。




