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いつもの市バスは、異世界行き  作者: チーム エボンヌ
第三章 対立編

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第69話 桃矢の予感

 めずらしく湿った強い風が吹いていた。

 桃矢が目を覚ますと、空はまだ暗かった。マジ暗が明けきらぬうちから、大きな雲が空いっぱいに拡がって、アカとシロを隠している。いつもなら、どちらかの太陽の光が拠点のどこかを照らし始める頃合いだ。けれど今は、ただ灰色の薄暗い光があたり一面に広がっているだけだった。

 桃矢は寝床から起き出して、川のほうへ歩いた。

 川岸に立つと、桃矢はしばらく水面を見ていた。

 水の色が昨日と違う。澄んでいたはずの流れが、上流から運ばれてきたらしい土を含んで薄く濁っている。岸辺の、いつも巻貝が張り付いている石が、半分ほど水に沈んでいた。昨日より明らかに水嵩が増していた。

 この水の濁りと増えた水嵩は、遠くの雨が川を伝ってここまで届き始めている証だった。上流では、既に雨が降っているのは間違いない。

 頭の中で、桃矢はこの先どうなるかを順番に思い描いた。

 雨はまだ降っていない。でも、必ず降る。しかも、風の強さ、雲の厚さ、川の様子から大雨になりそうだ。上流で降り続ければ、水嵩は更に増して川が氾濫する。

 雨をしのぐだけなら、バスの中に皆で入れば済む話だ。

 けれど、バスがあるのは、川より少し低くなっている場所だった。バスはここに来てからなぜかエンジンがかからなくなっていた。もし川が氾濫して、バスの足元まで水が迫ってきてもバスは動かせない。増えていく水に囲まれれば、バスの中にも水は入ってくる。そうなるとバスから出られなくなる可能性もある。雨に濡れないことより、水が届かない高いところへ動くことのほうが安全だった。

 食料の蓄えも火種も、運びやすいようにとバスの周りの低い場所に置いてある。みんなの寝床も、地面の低いあたりだ。

 川が氾濫する。バスに浸水する。蓄えが流される。火が消える。逃げ場を失う者が出る。そのどれもが、まだ起きていない。けれど、起きてからでは遅い。

 桃矢は拠点へ駆け戻った。


「川嶋さん」

 桃矢が声をかけると、麗華は朝の支度を見て回っていた手を止めて、振り返った。

「桃矢くん。どうしたの、そんなに急いで」

「嫌な予感がして川を見てきたんです。そしたら水は濁ってて、水嵩も上がってます。上流ではもう雨が降ってて、たぶん、こっちも降ります。それも大雨が」

 麗華は空を見上げた。厚い雲が空を覆っていた。

「ひと雨で済まないってこと?」

「済まないと思います」と桃矢は答えた。「あくまで、俺の予想ですけど。……もし、ずっと降り続いたら、水嵩がもっと増えて、岸の低いところは水に浸かるかもしれない」

「雨をしのぐだけなら、バスの中に入ればいいよね」と麗華が言った。傍らで聞いていた山田さんも頷く。

「俺も最初はそう思ったんです」と桃矢は言った。「でも、バスがあるのは川のすぐそばの低い場所だから、もし水がバスの所まで来たら、バスの中にも浸水するかもしけない。バスが半分以上水につかったら、ドアが開かなくなって、出られなくなる。バスはもう動かせないし」

 その言葉に、近くで道具箱を確かめていた中嶋さんが顔を上げた。

「……桃矢くんの言う通りかもしれん」と中嶋さんは低く言った。

「このバスが水に浸かったことは、まだ1度もない。だが、この雲と風の様子は今までとは違う。動かせないバスの中で水に囲まれるのは、避けた方が良いな」

「蓄えも火種も、バスの周りの低い場所です」と桃矢は続けた。「もし本当に大雨が来るのなら、まだ降り出す前の今のうちに、人も大事な物も高いところへ移しておいたほうがいいんじゃないかと思って」

 麗華は桃矢の顔をまっすぐに見た。それから、ほんの数秒、空と川と拠点を順に見渡して、すぐに腹を決めた顔になった。

「分かった」と麗華は言った。「桃矢くんがそこまで言うなら、備える。降ってからじゃ遅いものね」

 迷いのない声だった。麗華は振り返って、皆に呼びかけた。

「みんな、ちょっと聞いて。これから雨が来る。たぶん、大雨。川が氾濫する前に、大事な物だけを高いところへ移すよ。みんな協力して」

 その一声で、ばらばらに動き始めていた拠点がひとつの方向を向いた。

 高いところというのは、拠点のすぐ近くにある、なだらかな斜面の上だった。上は平らに開けていて、川からも十分に離れている。岩がいくつか転がっていて、その陰なら、風や雨も少しはしのげそうだった。

 麗華がてきぱきと役割を割り振っていく。

 陽翔と山田さんが、大きな蓄えの袋を斜面の上へ運び上げていく。斜面の上は雨ざらしになるから、蓄えの食料の半分はバスに残し、残りを斜面の上に避難させることにした。中嶋さんはこれまで付けてきた観測の記録を入れた鞄を小脇に抱え、「大事な物で鞄や袋に入る物と濡れても乾かせば使える物は運び出して。濡れたら困る物は、ひとまずバスの中に置いておけばいい」と皆に手早く指示を伝えた。中嶋さんの落ち着ついた声が、皆を急かしすぎずに動かしていく。

 川原さんと大葉さんが、斜面の上に運ばれた蓄えの食料が雨に耐えられるよう、ひとつずつ布や葉で包んでいった。それを高橋が水が染み込まないように更に布を重ねていった。

 山田さんと陽翔と桃矢の3人で、車椅子ごと長田さんを支えて、ゆっくりと斜面を運び上げた。長田さんは最初の頃の無愛想が嘘のように、「ごめんね、重いでしょう」と小さく言った。

「全然」と桃矢は息を切らしながら答えた。

 長田はふっと、ほんの少しだけ笑った。

 三浦さんは一橋さんを支えながらゆっくりと斜面を上っていく。この星に来てから体の調子が戻った三浦さんの足取りはしっかりしていた。

 荷物を移動しているとき、ルウがやってきた。ハラシロの光が今日は陰っていた。

『空が重い。川が溢れる』

 みんなにルウの言葉が届いた。ポヨンヌたちも、この空の異変を感じ取っていたのだ。ルウは川の対岸の、森の奥の高い場所を何度も指して、『あちらは安全だ』と伝えてくれた。

「ありがとう、ルウ」と桃矢は言った。「でも、俺たちはこっちの高いところに移るよ。橋を渡ってる途中で水が増えたら、危ないから」

 桃矢の頭の中の言葉が、肩の光を通してルウに伝わる。ルウは少し残念そうに全身の色を陰らせたが、すぐにまた、自分にできることを探すように、軽いものを運ぶ手伝いを始めた。

 雨は、拠点の移動があらかた終わった頃に降り出した。

 最初は、ぽつ、ぽつ、と。それが、あっという間に強い雨に変わった。空は一面、灰色になり、シロの薄明かりも、アカの橙色も、もうどこにもない。風も強くなり、雨も横殴りに降り込んできていた。まさに嵐だった。

 斜面の上の岩陰に、皆は身を寄せ合った。

 川を見下ろすと、その変わりように、誰もが息をのんだ。さっきまで、岸辺の石を半分沈めていただけの水が、今は岸そのものを呑み込もうとしていた。濁った水が見る間に溢れ出し、低い草地を飲み込んでいく。そして、ついにバスの車輪のが隠れる高さまで、濁流が押し寄せてきた。

 あのまま全員でバスの中にいたら、誰もが、同じ光景を思い描いて背筋を冷たくした。

「……間に合った」と、誰かが震える声で言った。

 桃矢が降り出す前に気づかなければ、蓄えも火種も皆の身も、今ごろは、あの濁流に追い詰められていた。

 けれど、安心するにはまだ早かった。

「一橋さんは?」

 麗華の声が、雨音の中で鋭く上がった。

 皆が、はっと顔を見合わせた。三浦が青ざめた顔で叫んだ。

「そいういえば、だいぶ前に布をもう一枚取ってくると言って、下へいってからまだ戻ってきてない!」

 下は既に水が来ている。

 桃矢は考えるよりも先に走り出していた。

「桃矢くん!」と麗華の声が背を追う。「1人で行かないで!」

「川嶋さん、ロープになるもの! あと、明かり!」と桃矢は振り返らずに叫んだ。「陽翔、山田さん、来てくれ! 川嶋さんは上で、皆を!」

 とっさに、誰が何をするかが口をついて出た。桃矢は滑る斜面を半ば転がるように駆け下りた。陽翔と山田さんが、葵の編んだ丈夫なひもの束を掴んで後を追う。

 窪みのそばで一橋さんが座り込んでいた。

 足を取られたらしい。逃げようとして、ぬかるみに膝をつき、立ち上がれずにいた。すぐそこまで濁った水が迫っている。高齢の一橋さんの体では、この泥と水の中を1人で這い上がるのは、もう無理だった。

「一橋さん!」

 桃矢は水に足を踏み入れた。冷たい水が、たちまち膝まで来る。流れは思ったより速く、足を持っていかれそうになる。桃矢は踏ん張りながら、頭の中で安全に引き上げる手順を組み立て直した。

 まっすぐ抱えて戻るのは危ない。流れに2人とも呑まれる。

 桃矢は陽翔から渡されたひもの端を陽翔と山田さんにしっかり握ってもらい、もう一方を自分の腰に巻いた。紐を命綱にして、流されないよう踏ん張りながら、一橋さんのもとへと近づいていった。

「一橋さん、俺の首につかまって」

 一橋さんは震える手で、桃矢の首にしがみついた。桃矢は一橋さんをおんぶしたまま、1歩ずつ、陽翔たちの方へ戻っていく。流れに逆らわず、斜めに。陽翔たち2人で体重を後ろにかけて自分たちが前に持って行かれないよう踏ん張っていた。

 マジ暗が来たわけでもないのに、嵐の中、あたりは夜のように暗かった。雨が目に入って、足元がよく見えない。

 そのとき、桃矢の肩から離れたひとつの光が大きく揺れた。

 ボルンだ。豪雨の闇の中で、ボルンが足元のぬかるみと岩の縁をぼんやりとだが照らし出してくれた。桃矢はその光を頼りに踏み出す場所を確かめた。光の届く先には安全な足場があった。

 1歩。また1歩。ついに、陽翔の手が桃矢の腕を掴んだ。

「もも!」

 山田さんが一橋さんの体を引き受けて、みんなで力を合わせて斜面の上へと登っていく。

 一橋さんは無事だった。

 冷えと恐怖でしばらく震えていたが、大葉さんと川原さんが乾いた布で体を包み、火種から起こした小さな火のそばへ移動すると、少しずつ顔に血の気が戻ってきた。

「ごめんなさいね。私みたいな年寄りが……足手まといになって」と一橋さんは消え入りそうな声で言った。

「そんなこと、言わないでください」と桃矢は、自分も全身ずぶ濡れのまま言った。「もう誰1人失いたくない。それだけです」

 雨は未だに降り続いていた。皆は岩陰に身を寄せ合い、ひとつの火を囲んで、雨が弱まるのを待った。それぞれの肩や頭で、ボルン精の光が雨に滲みながら、優しく揺れている。

「桃矢くんが朝のうちに気づいてなかったら」と川原さんが、火を見つめながらぽつりと言った。「私たち、今ごろ、何もかも流されてたわね。一橋さんのことだって……」

「ほんと、ぞっとするよな」と山田さんが頷いた。

 桃矢は濡れた前髪を払いながら、いつもの、たいしたことではないという顔をした。

「川を見たら、なんとなく嫌な感じがしただけです」

 その言葉に、麗華が火の向こうから桃矢を見た。

 桃矢くんはいつもそうだ、と麗華は思った。自分の活躍を自慢しない。皆のおかげだと言って、すっとまた後ろに戻ろうとする。

 けれど、今日、みんなを救ったのは、間違いなく、桃矢くんのおかげだった。誰よりも早く空と川の異変に気づいて動いていた。お陰で、何も失わずに済んだ。先のことを見ていてくれる人が、このグループにはいる。

 麗華の胸が、また静かに揺れた。

 頼りにしている、その想いが心の中にあった。けれど、心の更に奥には、もうひとつの想いが生まれかけていることに、麗華は気づいていた。でも、今はそれをそっとしまっておくことにした。

 雨が小ぶりになり、雲の切れ間からシロの青白い光が弱々しく差し込み始めた頃。

 桃矢は斜面の上から、ようやく水の引き始めた川を見下ろしていた。濁った流れは、まだ岸の高いところまで来ていたが、水嵩は少しずつ下がりつつあった。

 隣に麗華が並んだ。

「桃矢くん、お疲れさま。今日は、本当に……助かった」

「川嶋さんこそ。誰も慌てずに動けたのは、川嶋さんのおかげです」

 二人はしばらく、黙って川を見ていた。

「でも」と桃矢が少し声を落とした。「蓄えのいくつかは、布で包んでいても濡れてしまったようで、たぶん、すぐに痛んでしまう。火種は守れたけど……食べ物は、思ったより減るかもしれない」

 麗華は桃矢の横顔を見た。危機を凌いだその先のことを、桃矢はもう考え始めている。

「そっか」と麗華は言った。「じゃあ、雨が上がったら、また食べ物を探さないとね」

「ですね」と桃矢は頷いた。

 川の上には、まだ重い雲が残っていた。けれど、その向こうに、二つの太陽の気配が薄く戻り始めていた。


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