第68話 もう、手は届かない
旅立ちの準備は、武田の指示のもと着々と進んでいた。だが、それは既に指示ではなかった。命令だった。誰の意見も聞かない。武田が決める。逆らう者はいない。
火を囲んでいる時、大沢が誰も言わない疑問を口にした。50日もの道のり。途中に渡れるかどうかも分からない大きな川がある。女子もいる。本当にみんなで行くのか。もっともな疑問だった。だが、武田は大沢を一目見て、こう言い捨てた。「心配いらない。導かれている」導かれている、その言葉の意味を武田は説明しなかった。誰も、それ以上は聞けなかった。
以前の武田なら、こんな言い方はしなかった。強引な所もあったが、理屈だけは通す男だった。なのに、今は理屈の代わりに、ただ「間違いない」「導かれている」と繰り返すだけ。
山崎は、この武田の変わり様が不安だった。目の前にいる武田は、山崎の知っているどの武田とも違っていた。石原や田崎の変わりようなら、まだ分かる。肉を食らうようになってから、あいつらは目に見えて短気になり、荒々しくなった。
だが、武田の変化はそれとは質が違った。荒々しさではない。導かれているという言葉は、誰かの言うままに操られているのかもしれない。武田が一人、草原の外れに立ち、誰もいない方を向いて、何かに聞き入るように黙り込んでいる姿を山崎は何度か見ていた。あのとき武田は、何をしていたのか。分からない。武田に聞いても何も答えない。武田が自分の手の届かないところへ、一歩ずつ遠ざかっていく。それが怖かった。
その日、山崎は遠征用の革袋を繕っていた時、石原と田崎が、また獲物を担いで戻ってきた。2人は山崎の近くに獲物を置いて解体を始めた。
「なあ」と田崎がナイフをいじりながら言った。「邪魔者の麗華たちをいつ襲うのかな」
山崎は、繕う手を止めた。
石原はにやりと笑うと「邪魔なら、さっさと潰しちまえばいいのにな。こっちには力がある。向こうは、年寄りと弱っちいのばかりだ。わけないさ」
山崎は黙っていられなかった。
「お前ら、本気で言ってんのか。相手は、同じ星に放り出された人間だぞ。元はと言えば、同じバスに乗ってた仲間じゃないか」
「だから何だ」と石原が遮った。「ここじゃ、強い奴が生き残る。それだけだ。山崎、お前、肉やめてから、なんか腑抜けたんじゃねえか」
田崎がげらげらと笑った。
山崎は言い返さなかった。言い返したところで、こいつらには届かない。それが分かっていた。
1つだけ確信していることがあった。このグループは、危ない。このまま進めば、いつか取り返しのつかない事をする。武田が「邪魔者」と口にしたあの夜から、その確信は日に日に強くなっていた。
その夜、山崎は、なかなか寝つけなかった。
このまま武田のそばにいれば、これから武田やろうとしていることに加担することになる。麗華たちへの敵意。石原や田崎の暴力的な言動。それらを止められないなら、自分がここにいる意味は無い。
ならば、出るしかない。
だが、出れば武田を置いていくことになる。
山崎は葛藤していた。武田を放っておけない。それは、小学生の頃から、ずっと変わらない山崎の気持ちだった。あいつの強がりの裏側を知っているのは、自分だけだ。自分が離れたら、武田を守れる者は1人もいなくなる。
山崎は、眠れない時間を過ごしていた。
次のマジ暗が近い頃。山崎は、大沢と小林を拠点の外れに呼んだ。
火からも、皆からも離れた場所だった。
「俺は」と山崎は、低い声で切り出した。「ここを出て、麗華たちの所に行こうと思う」
大沢が息を呑んだ。だが、その驚きは、すぐに別の表情に変わった。
「……僕も、同じことを考えてた。ずっと怖くて、言い出せなかったけど」
大沢は火のほうをちらりと見た。
「僕は人を治すために、医者を目指していた。なのに、このグループは、誰かを傷つける方向へ進もうとしている。これ以上、ここに居たくない」
山崎は頷いた。それから小林を見た。
「私も」と、小林は小さな声で言った。「ここには、もう、居たくない」
小林が口を開くのは久しぶりだった。マナが死んでから、小林はずっと口数が少なかった。
「この子は」と小林は、肩の光をそっと見た。「怒っている人や誰かを傷つけたい人のそばには、近づこうとしないんです。だから、石原くんや田崎くんの近くには行きたがらない。……武田くんにも」
小林の声は震えていた。
「この子が行きたくない場所は、きっと、人がいるべき場所じゃない。私は、誰かを傷つけることばかり考える人がいる場所には、居たくない。みんなが、穏やかに笑える場所に行きたいです」
決まりだ、と山崎は思った。出よう。3人で。麗華たちの所へは、来た道をたどっていけば、バスを置いてきたあたりにたどり着けるはずだった。具体的な道筋は、これから慎重に考えればいい。今はまだ、出発の時ではない。だが、心は決まった。
ただし、慎重に運ばねばならなかった。
今のグループには、抜けようとする者を許さない空気がある。石原や田崎に気づかれれば、ただでは済まないかもしれない。3人が同時に消えれば、すぐにバレる。慎重に行動する必要があった。
「焦るずに行こう」と山崎は2人に言った。「ここを出るチャンスを待つ。それまでは、誰も気づかれないように、いつもどおりにしていよう」
大沢と小林が頷いた。
この2人を必ず守りきる。それが、今の自分にできる、たった一つのことだった。
だが、全員を連れていけるわけではなかった。
山崎は火を囲む輪を思い浮かべた。
斉藤と太田。あの二人は武田を信じきっている。武田が黒を白だと言えば、白だと信じる。あの二人に「武田のもとを離れよう」などと言えば、即座に武田へ告げるだろう。
残りは、鈴木。
山崎は以前、迷った末に鈴木にだけは、それとなく声をかけていた。水を汲みに行く鈴木にさりげなく並んで。
「鈴木。お前、向こうのグループに、仲のいい友達がいるんだろ。高橋だったか。……会いたくはないか」
鈴木の手が、止まった。
その横顔には葛藤の色が浮かんでいた。会いたい。その気持ちは、隠しようもなかった。鈴木は時々、草原の彼方の高橋たちのいる方角を見ていた。
だが、鈴木はゆっくりと首を振った。
「……会いたいです、すごく。葵に、会いたい。……でも、今は、行けません」
山崎は黙って続きを待った。
「みんなを置いていけません。武田くんも、斉藤さんも、太田さんも。……それにもし、私が抜けようとしたなんて知られたら、みんなに、何をされるか」
山崎はそれ以上、誘えなかった。鈴木の中にあるのは、葵への想いだけではない。残る者への情と、そして、恐れもあった。今のグループには、抜けようとする者を許さない空気が、できあがりつつあった。
山崎は唇を噛んだ。高橋の友達を置いていく。それが山崎の心に重くのしかかった。
その夜、山崎はもう一度だけ、武田に話しかけてみることにした。火の番をしていた武田の隣に座った。
「なあ、武田。覚えてるか。ガキの頃、河川敷で2人でよく組手やったよな。種目なんか関係ねえって、本気でぶつかってさ。お前が初めて俺から1本取った日。お前、すげえ得意げな顔してたよな」
武田は答えなかった。火を見つめたままだった。
「あの頃のお前は」と山崎は続けた。「強がってたけど、まっすぐだった。なあ。今のお前、どこへ向かってるんだ。俺には見えないんだよ」
長い沈黙があった。
やがて、武田はぽつりと言った。
「……俺は、為すべきことを為すだけだ」
それだけだった。武田は、山崎の方を1度も見なかった。
山崎は確信した。もう、届かない。今の武田を動かしていのは、山崎の知らない別の何かだ。俺たち3人は間もなくここを去る。でも、武田はそれを何とも思わないだろう。
今の武田には、山崎の知らない何かがある。それが、武田の心を掴んでいる。だから武田は、孤独を孤独とも思わない。
それが、たまらなく哀しかった。
もう、手は届かない。それでも、と山崎は心の中でつぶやいた。いつか。いつか、お前がその「何か」から解放される日が来たら。その時はもう一度、お前の隣に立ってやる。本当のお前を知っている、ただ1人の友として。
それまでは、お別れだ。
山崎は静かに立ち上がった。その目は、もう迷っていなかった。




