第65話 目的の場所
あの夜、いずれ話すと告げたきり、声が届かなくなった。1人で草原の外れに立って、頭の中で何度問いかけても、何も返ってこなかった。
武田は、ただ待つしかなかった。
その間にも、拠点は少しずつ形を変えていた。
石原と田崎は毎日、狩りに出ていた。干し肉の蓄えは、既に十分すぎるほどあった。それでも2人は狩りをやめなかった。狩ることそのものを楽しんでいた。獲物の取り分を巡って言い争うことも増えた。以前は、こんなことでいがみ合う2人ではなかった。
太田と斉藤は、そんな2人を遠巻きに見ていた。武田を信じてさえいれば大丈夫だと、口では言っていたが、2人の顔には怯えが混じっていた。
声が戻ったのは、シロだけが照らす、薄明かりの時間だった。
武田はいつものように、拠点の外れに1人で立っていた。草原には、青白い光が差し込んでいた。
《待たせたな》
急に頭の中に、声が聞こえた。待ち焦がれていたものがようやく来た。
「こちらの準備はできている」と武田は頭の中で答えた。「干し肉も蓄えた。簡単な武器も作った。石原と田崎はいつでも戦える」
《結構。では話そう。どこへ導くのかを》
《この大地を大きな川が横切っている。その川を越え、幾つかの山脈を越えたその先》
「川を越えて…」と武田は繰り返した。
突然、武田の頭の中に、鮮やかな映像が流れ込んできた。
はじめは、見たこともない森。そこを抜けた所に拡がる草原。そして大きな川。さらに、その先に続く長い道のり。山を越え、谷を渡り、また山を越える。映像は、武田の知らない土地を、空の上から見下ろす形で流れていった。
これが道のりだ、と武田は直感した。声が行くべき道を武田の記憶として、いや知識としてが正しいかもしれない、刻みつけている。狩りの手順を教えられたときと同じだった。いつの間にか、武田はその行程を「知って」いた。
そして、長い道のりの終着点には、1つの建造物が立っていた。
遺跡だった。
だが、武田たちがマナに連れられて訪れた、あの遺跡より遙かに大きく、荘厳な遺物だった。
「距離は……どれくらいある、その遺跡まで」
《歩いて、この星の巡りで50日。あるいは、それ以上》
武田は、ため息をつき考えた。
50日。片道で。
本来の武田なら、この一言で立ち止まったはずだった。
日数だけではない。途中には大きな川があり、渡れるかどうかも分からない。何が潜んでいるかも分からない草原や森。更にはいくつもの山を越えなければならない。それを、たった9人で、いや、実際に動けるのはもっと少ない。年寄りはいないが、戦力になるのは、せいぜい自分と山崎、それに石原と田崎くらいのものだ。
地球にいた頃の武田なら、真っ先に損得を計算したはずだった。50日の行程で、どれだけの食料が要るか。たどり着いたとして、何が得られるのか。割に合うのか。
だが、その計算は、武田の中に立ち上がってこなかった。
いつからか、冷静で正確な思考回路が、武田の中で錆びついていた。損か得か。勝てるか勝てないか。かつての武田を、誰よりも武田らしくしていた、判断力。それが今はどこにもなかった。武田の中にあったのは、ただ、声の期待に応えたいという説明のつかない衝動だけだった。
武田は、自分自身の変化に気づかなかった。気づけなかった。石原と田崎が自分の変化に気づかぬまま、日に日に攻撃的になっていったのと同じだった。
「その遺跡には何があるんだ」
《手段だ。地の底の、あの者たちを討つための》
「手段?」
《あの遺跡には、ある装置がある。あなたたちの言葉で言うなら……移送装置、とでも呼ぶべきものが。それを使えば、地の底へあなたたちを送り込むことができる》
「おれたちを送り込む」と武田は繰り返した。
《そうだ。地の底は深い。あなたたちが、自分の足で掘り進んでたどり着ける場所ではない。だが、その装置を使えば、遠く隔たった場所へ、瞬く間に送り出すことができる。物も、人も》
武田の頭の中で、新たな映像が流れた。石組みの部屋。中央に据えられた、輪のようなもの。武田にはそれが何なのか分からなかった。ただ、声の言葉だけが、武田の心を揺らした。
遠く隔たった場所へ、瞬く間に送り出す。
武田は聞かずにはいられなかった。
「それはどこまで送り出せる?」
武田の胸の奥がざわついていた。自分が何を期待しているのか分かっていた。
地球。あの、夜空のどこかにあるはずの、帰るべき場所。
もし、想像もつかないほど遠くへ送り出せる装置なら。みんなを連れ帰れるのではないか。
声は、すぐには答えなかった。
《……それは、また別の話だ》
「別の話、というのは」と武田は食い下がった。「できる、ということか。できない、ということか」
《今は、その時ではない》
まただ、と武田は思った。
地の底の敵の「力」を聞いたときも、声は急に曖昧になった。桁違いだ、としか言わなかった。そして今度は、帰還のことになると、また口をつぐむ。
武田は引っかかりを覚えたが、今回もそれを奥へと押しやった。
今はその時ではないと声は言った。それは、いずれは話すということでもある。武田はそう都合良く解釈することにした。希望を捨てたくなかった。帰れるかもしれないという、初めて掴みかけた可能性を。
しかし、もう1つ、武田の中で押しやれずに残った疑問があった。
「1つ、聞かせてくれ」と武田は言った。「お前はこの星を管理しているんだろう。だったら、なぜ」
武田は言葉を選んだ。
「なぜ、お前自身がそれを使わない。なぜ、わざわざ地球から俺たちを呼んで、50日もかけて、その遺跡まで行かせる。お前なら、お前ほどの存在なら、自分でその装置を使えばいいのではないか」
長い沈黙があった。
武田は声の答えを待ち続けた。
《できぬ理由が、ある》
ようやく、声は言った。
「理由?」
《装置なら、動かせる。だが、それだけのことだ。あの輪は、送り出すための手段にすぎない。地の底で為すべきことは、送り込まれた者の手でしか、為せない。そして、私には、あの者たちに直に手を下すことができない。それには……訳がある。だが、今それを話しても、あなたには分からぬだろう》
「分かるかどうかは、俺が決める」と武田は言った。「話してくれ」
《いずれ、話す》
また、それだった。
《だが、これだけは言える。争いを知り、正しい決断ができる、あなただけが出来ること。私には出来ないことを、あなたなら出来る。だからこそ、私はあなたを選んだ》
あなただけが出来る。
その甘い言葉が、また武田の心に浸透してきた。何度聞いても、その言葉は、武田の心をくすぐる。地球で築いた実績がこの星では何の意味も持たず、並び立つと認められた麗華にさえ背を向けられた、その武田を、お前は特別だ、お前にしかできない、と言ってくれる、ただ一つの声。
武田は、それ以上聞くのをやめた。
聞いても、答えはまた「いずれ」だ。それなら、これ以上聞いても同じことだった。
「……分かった。準備ができ次第、その遺跡に行く」
《よい返事だ。あなたなら、必ず為し遂げられる》
声は満足げにそう言うと、静かになった。
武田は1人、暗くなっていく草原に立ち尽くしていた。頭の中には、声が刻みつけた長い道のりの映像が残っていた。川を越え、山を越え、谷を渡り、また山を越えた、その果ての遠い遺跡。
50日。武田は、もう一度その距離を噛みしめた。途方もなく遠かった。けれど、行くしかなかった。
拠点に戻ると、火のそばに山崎がいた。
「また一人で、外にいたな。何してたんだ、こんな暗くなるまで」
「考え事だ」と武田は言った。山崎のそばに腰を下ろす。
「考え事、ねえ」それっきり、しばらく黙って火を見ていた。
その沈黙を破ったのは、山崎だった。
「なあ、武田。お前、何か大きな事を決めただろう」
武田は山崎を見た。
「なんで、そう思う」
「分かるさ。小学校からの付き合いだぞ。お前が何かでかいことを決めたときの顔だ。昔から変わらない」
武田は答えなかった。山崎のそういう勘の鋭さは、昔から変わらなかった。武田が唯一、ごまかしきれない相手だった。
「何を決めたのか、お前は言わないんだろうな。今までも、ずっとそうだった。1人で抱え込んで」
武田は黙って火の爆ぜる音を聞いていた。
「無理には聞かない。でも、これだけは言わせてくれ」
山崎は、武田の顔をまっすぐに見た。
「お前が、どんどん遠くに行ってしまってる気がするんだ。場所の話じゃなくて……分かるか、この感じ」
武田は何も言えなかった。
そのとき、闇の向こうからもう1人近づいてきた。大沢だった。手には水を入れた器を持っている。
「武田。あの……」と大沢が遠慮がちに言った。「石原と田崎のことだけど。さっきも、また揉めてた。最近、揉めることが多くなってる。あの二人……このままでいいのかな」
「僕、思うんだが」と大沢は続けた。「みんな、どこかで止まった方がいいんじゃないかって。これ以上、強くなろう、強くなろうって進み続けたら……何か、取り返しのつかないことになる気がして」
止まった方がいい。
その言葉は、武田がたった今、声に告げてきたことと、正反対だった。
武田はこれから、50日かけてあの遺跡へと進もうとしている。止まるのではなく、進むことを選んだ。
「……心配するな」と武田は言った。いつだったか、山崎が、皆が変わっていくのが怖いと打ち明けたときにも、武田はそう答えた。「俺が、ちゃんと見ている」
山崎がため息をついた。
「お前、いつもそれだな。俺が見てる、心配するな。……でも武田。お前を見てるやつもいるんだぞ。それを忘れるなよ」
武田はその言葉に、胸の奥がわずかに疼いた。だが、それを表には出さなかった。
2人はそれ以上は何も言わず、それぞれの寝床へと戻っていった。
1人になった武田は、火のそばに座り続けていた。




