第53話 肉は嫌いなの
地球にいた頃、小林萌の朝はいつも同じだった。
6時半に起きて、母が作った朝食を食べる。卵焼きとご飯と味噌汁。萌は肉が苦手だったから、母は朝食に肉を出さなかった。「あんたは昔から肉がダメね」と母は言いながら、いつも魚か卵を用意してくれた。父は単身赴任で家にいないことが多く、萌は母と2つ下の弟の3人暮らしだった。
弟は萌と違って、肉が大好きだった。唐揚げでもハンバーグでも、出せば飛びつくように食べた。「姉ちゃんは損してる」と弟はよく言った。萌は「別に」と返したが、内心では、肉をおいしそうに食べられる弟が少しだけ羨ましかった。自分の体が肉を受けつけないことを、なんとなく欠陥のように感じていた頃だった。
学校には、武田がいた。
同じクラスの生徒会長。成績優秀で、運動もでき、誰に対しても堂々としていた。武田が廊下を歩くと、自然と視線が集まった。萌もその1人だった。
武田は強い人だった。
萌が惹かれたのは、その強さだった。武田はいつも迷わない。物事をはっきりと決めた。誰かが優柔不断にしていると、「結論を出せ」と短く言った。クラスで意見が割れた時も、武田が一言いえば、それで決まった。
萌は自分が優柔不断な人間だと思っていた。何かを決めるのが苦手だった。みんなの顔色をうかがって、結局自分の意見を言えないことが多かった。だから、迷わず決断できる武田が眩しく見えた。
武田にはは少し冷たいところもあった。できない人間に対して、容赦がなかった。「足を引っ張るな」と平気で言った。その言葉に傷つく人もいた。でも萌はそれすらも、武田の強さの一部だと思っていた。優しいだけでは、リーダーは務まらない。弱さを切り捨てる強さこそが、本物のリーダーの証なのだ。当時の萌は、本気でそう思っていた。
今思えばそれは憧れというより、自分にないものへの渇望だった。決められない自分。流される自分。そういう自分が嫌で、その正反対にいる武田になりたい自分を重ねていたのかもしれなかった。
バスが転移した日のことを、萌は今もはっきり覚えている。
この日も武田と同じバスだったことに、萌は密かに喜んでいた。窓の外を眺めていた武田の横顔を、何度か盗み見た。
そして、光が来た。
気がつくと、知らない星にいた。
最初の頃、萌は武田と共に行動することを、当然だと思っていた。武田についていけば、間違いない。この異常な状況でも、武田なら何とかしてくれる。そう信じていた。
実際、武田は強かった。混乱する人々の中で、武田は冷静だった。役割を決め、ルールを作り、みんなをまとめた。萌はその姿を見て、やっぱり武田はすごい、と思った。
でも、少しずつ、何かがずれ始めた。
最初の違和感は、肉のことだった。
武田は、肉を食べることにした。この星で生き延びるために、獣を狩る必要がある、というのが武田の判断だった。それは間違っていないのかもしれなかった。でも萌は肉が食べられなかった。体が受けつけなかった。
石原たちが獣を解体する様子を見ると、気分が悪くなった。血の匂いがダメだった。萌は肉を食べないことを、申し訳なく思った。みんなが生き延びるために狩っているのに、自分はそれを食べられない。役立たずだと思われているんじゃないか、と不安になった。
ある時、武田に言われた。
「お前は肉を食わないのか」
「すみません、体が受けつけなくて」
「無理に食えとは言わない」と武田は言った。「だが、食えないからといって、弱音は吐くな」
その言葉は、優しさのようにも、突き放しのようにも聞こえた。当時の萌は、優しさの方だと受け取った。武田は自分を見捨てなかった。励ましてくれた。そう思った。
でも、後から振り返ると、あの言葉には温かさがなかった。役に立つか、立たないか。武田が人を見る基準は、いつもそれだった。
光が、萌の肩にとまったのは、エボンヌのマナが現れた時のことだった。
マナの手から放たれた光が選んだのは萌だった。なぜ自分が選ばれたのか、萌には分からなかった。
それ以降、萌はマナとの通訳を任されるようになった。武田に命じられて、マナの言葉を伝えた。最初は役に立てることが嬉しかった。やっと、自分にもできることができた。そう思った。
でも、マナと言葉を交わすうちに、萌の中で何かが変わっていった。
マナは穏やかだった。商売の話をする時も、決して相手を急かさなかった。萌が言葉に詰まると待ってくれた。武田のように「結論を出せ」とは言わなかった。ゆっくりでいい、という空気がマナにはあった。
その穏やかさに触れるうちに、萌は気づき始めた。
強いことと、正しいことは、違うのかもしれない。
迷わないことが、必ずしも良いことではないのかもしれない。
武田は迷わなかった。でも、迷わないということは、立ち止まって考えないということでもあった。誰かの痛みに立ち止まらない。弱さに立ち止まらない。武田の強さは、そういう強さだった。
萌は、自分が武田に憧れていた理由をもう1度考えるようになった。
決定的だったのは、マナの死だった。
遺跡でマナが死んだ。私たちを案内し、奥の部屋まで連れて行って、そこで倒れて死んだ。
最後の言葉を萌は覚えている。
「よかった。ここまで連れてこれた」。「あなたに会えてよかった」。
前の言葉は、マナらしくない平坦な声だった。でも、最後の一言だけは、違った。あれは、萌の知っているマナさんの声だった。そして、その目はまっすぐに、萌を見ていた。あなたに。あの言葉は、萌ひとりに向けられていた。
その言葉を言って、マナは死んだ。萌のすぐ目の前で。
萌は泣いた。
でも、周りを見て萌は愕然とした。
誰も、泣いていなかった。武田も、石原も、田崎も。
マナは自分たちを助けてくれた。命を落としてまで、案内してくれた。それなのに、誰も悲しんでいなかった。武田はマナの亡骸を一瞥して、「外に運ぶ」とだけ言った。事務的な口調だった。
その時、萌の中で何かが完全に切れた。
ああ、この人たちは、こういう人たちなんだ。
強くて、迷わなくて、決断できる。でも、誰かの死にも立ち止まらない。
萌が憧れていたものは、これだったのか。
拠点に戻ってからも、萌は武田たちの輪に入れなかった。
武田は遺跡で何かを得たらしかった。日に日に、できることが増えていった。狩りも、道具作りも、武田が指示すれば上手くいった。グループは活気づいた。みんなが武田を讃えた。
でも萌はその輪の中で、一人ぼっちだった。
肩の光の玉だけが、萌のそばにいてくれた。でも、マナが死んでから元気がなかった。光も弱い。萌が話しかけても、反応が薄い。
「ねえ」と萌は光の玉に話しかけた。「私、間違ってたのかな」
光の玉は、ふわりと1度だけ光った。
「ずっと、武田くんに憧れてた。強くて、かっこよくて。でも、今は……」
光の玉が萌の頬に近づいた。小さな光が、頬に触れるか触れないかのところで、ふわりと揺れた。
萌は、その光を見て少しだけ泣いた。
地球にいた頃の自分を思い出した。決められない自分。流される自分。そういう自分が嫌で、武田に憧れた。でも、本当に嫌だったのは、決められないことではなかったのかもしれない。
立ち止まることを、弱さだと思い込んでいた。誰かの痛みに立ち止まる自分を、優柔不断だと否定していた。
でも、立ち止まることは弱さではなかった。
マナは、いつも立ち止まってくれた。萌が言葉に詰まると、待ってくれた。あれは、弱さではなかった。優しさだった。
萌は空を見上げた。あの空の彼方に地球がある。母と弟がいる。きっと心配している。早く帰りたい、と萌は思った。武田は協力すれば地球に帰れると言った。それは本当なのかもしれない。
でも、もし帰る道が、誰かの死や誰かの痛みの上にあるなら。
萌にはそれを受け入れられる自信がなかった。
肩の上で光の玉がゆっくりと光った。さっきより、少しだけ強い光だった。
萌はその光を見て、微笑んだ。
1人ではない。少なくとも、この光の玉が自分のそばにいてくれる。
それだけで、今は十分だった。
帰る日のことは、まだ分からない。でも、自分が何を大切にしたいかは、少しずつ分かってきた気がした。




