第52話 なりたいもの
高橋葵の家は代々続く農家だった。
葵が物心ついた頃には、もう畑が生活の中心にあった。朝起きると祖父はすでに畑に出ていて、祖母は台所で漬物を仕込んでいた。両親も日が昇る前から働いていた。家族みんなが、土と一緒に生きていた。
葵はこの暮らしが好きだった。
小さい頃から葵は畑の手伝いをした。最初は種をまくだけだったが、だんだんと任される仕事が増えていった。苗を植える、雑草を抜く、水をやる、収穫する。手を動かすことが、葵にはまったく苦にならなかった。むしろ、何も考えずに手を動かしている時間が、いちばん落ち着いた。
祖母から編み物を教わったのも、その頃だった。
冬になると畑仕事が減る。雪が積もると、外には出られない。そういう時、祖母は囲炉裏のそばで編み物をした。葵はその隣に座って、見様見真似で棒針を動かした。最初はぐちゃぐちゃだったが、何度もやるうちに、だんだん形になっていった。
「葵は手が器用だね」と祖母は言った。「うちの血だ」
その言葉が、葵は嬉しかった。
葵が作ったマフラーを祖母は喜んで使ってくれた。不格好で編み目も揃っていなかったのに、祖母は「あったかい」と言って、毎日それを巻いて畑に出た。葵は自分が作ったものを誰かが使ってくれることの嬉しさを、その時初めて知った。
高校に入って、葵は少しだけ悩むようになった。
進路のことだった。
周りの友達はなりたいものがあった。看護師になりたい子、デザイナーになりたい子、大学に行って何かを学びたい子。みんな、それぞれの目標を持っていた。
葵にはそれがなかった。
農家を継ぐという選択肢はあった。でも、それが「なりたいもの」なのかと聞かれると、葵には分からなかった。畑は好きだ。編み物も好きだ。でも、それを「将来の夢」として言葉にするのは、なんだか違う気がした。好きな事となりたいものは、違うのかもしれなかった。
担任との進路面談で、葵は言葉に詰まった。
「高橋さんは、将来どうしたい?」
「……まだ、分かりません」
「何か好きなことはある?」
「畑仕事や編み物が好きですけど」
「それを仕事にしたいとは思わない?」
葵は答えられなかった。仕事にしたいかどうかではなかった。好きだからやっている。ただそれだけだった。
バスが転移した日、葵は芽依と一緒だった。
鈴木芽依とは高校で仲良くなった、数少ない友達だった。転移した瞬間、葵は芽依と手を強く握り合った。怖かった。何が起きたのか分からなかった。
でも、芽依は武田を選び、葵は麗華選び、2人は別れることになった。葵は麗華たちの穏やかな空気に惹かれたし、芽依は武田の強さに惹かれた。同じ恐怖の中で、選んだ道が違った。それきり、芽依とは離れ離れになった。
麗華たちとの生活は、最初こそ大変だったが、葵には合っていた。
葵は、いちばん年下だった。15歳。周りには高校2年生や大人たちがいた。最初は遠慮していたが、すぐに気づいた。
この星で生き延びるには、食べ物を確保しなければならない。植物を見分けて、食べられるものを探す。それは農家育ちの葵が得意とすることだった。葵はどの植物が食べられそうか、どれが危なそうか、なんとなく分かった。長年、土と植物のそばで育ってきた経験が体に染み込んでいた。
「葵ちゃん、すごいね」と朽名さんが言った。「なんで分かるの?」
「なんとなく」と葵は答えた。「ずっと畑にいたので」
その「なんとなく」が、ここでは役に立った。
葵は少しずつ、自分の価値を感じられるようになっていった。
ポヨンヌたちとの出会いは、葵の中の何かを決定的に変えた。
ポヨンヌは穏やかだった。争わず、急がず、ただそこにいるだけでその場の空気をやわらかくした。葵はポヨンヌたちと一緒にいると不思議と心が落ち着いた。
ポヨンヌたちも葵を気に入ったようだった。特にユウという黄緑色の小さなポヨンヌは、葵によく懐いた。葵が何か作業をしていると、いつの間にか隣に座ってじっと手元を見ていた。
ある日、葵はルウにマフラーを贈った。
きっかけは、ポヨンヌが特別な日に帽子やマフラーなどの装身具を身につける、という文化を知ったことだった。葵はそれを聞いた瞬間に、作りたいと思った。理由はうまく言葉にできなかった。ただ、ルウに自分の手で作ったものを渡したかった。
マフラーを編んでいる間、葵は幸せだった。
手が動いている。糸が形になっていく。これを受け取ってくれる相手がいる。それだけで、葵の心は満たされていた。
ルウはマフラーを受け取って、ハラシロを温かく光らせた。
『この星では、身につけるものを贈ることは特別なことだ』とルウは言った。『あなたはそれを知って、贈ってくれた。それが、温かい』
葵はその言葉を聞いて、泣きそうになった。
誰かに何かを渡して、喜んでもらえる。その瞬間が葵はいちばん好きだった。祖母がマフラーを「あったかい」と言って巻いてくれた、あの時の嬉しさがよみがえった。
マフラーのことが村じゅうに広まった。
次々とポヨンヌたちが葵のところに来るようになった。みんな、自分の首を指さして、期待するようにハラシロを光らせた。
それから葵は毎日編んだ。手が疲れてもやめなかった。喜んでくれる顔が、目の前にあった。それが葵を動かした。
ある時、桃矢が葵に聞いた。
「作るの、好きなんですね」
「好きです」と葵は答えた。「作ることより、渡す時が一番好きかも」
その言葉は葵の本心だった。
地球にいた頃、葵は「なりたいもの」を見つけられなかった。でも、この星に来て葵は気づいた。自分は、何かに「なる」ことより、誰かのために何かを「する」ことが好きなのだ。
手を動かして、何かを作って、それを誰かに渡す。喜んでもらう。その繰り返しの中に、葵の幸せがあった。それは「なりたいもの」という形には収まらなかった。でも、それでよかったのだ。
好きなことを、無理に夢の形に変えなくてもいい。好きなことを、好きなままやり続けること。それが自分の生き方なのだ。
マジ暗が近づいていた。
葵は編みかけのマフラーを膝に置いて、森の方を眺めていた。
木々の間にボルンの光がいくつも揺れていた。暗闇の中で、それらの光は星のようにも見えた。
葵の肩にもボルンがいた。葵が編み物をしていると、ボルンはいつも肩か、糸のそばに来てじっと見ていた。まるで、葵の手が作り出すものを、見届けようとしているように。
葵はボルンに向かって、小さく微笑んだ。
地球にいた頃の自分を思い出した。進路に悩んで、「なりたいもの」がない自分を、欠けていると思っていた。あの頃の自分に、今の自分の姿を見せてあげたかった。
大丈夫だよ、と言ってあげたかった。
なりたいものがなくても、好きなことを続けていれば、いつか、それが必要とされる場所に出会える。
葵は編みかけのマフラーをまた手に取った。
手が動き始めた。考えなくても、指が動く。祖母から教わった動き。何百回も繰り返してきた動き。
葵はボルンの小さな光のそばで、しばらく手を動かし続けた。




