第4話 目覚めた先
最初に戻ってきたのは音だった。
誰かの呻き声。
桃矢はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたバスの床だった。
頭がずきずきと痛む。身体を起こそうとして、座席の背もたれに肩をぶつけていることに気づいた。
バスは止まっているようだった。
窓の外には見たこともない巨木が何本も生えていて、その隙間から橙色と青白色の混じり合った、奇妙な色の光が差し込んでいた。
しばらく、目の前の状況をぼんやりと見ていた。
これは夢だ、という考えが真っ先に浮かぶ。
けれど手が触れている座席の固い感触、肩に残る鈍い痛み、そのどれもがあまりにも生々しく、これは現実だと告げていた。
桃矢は身体を起こして改めて車内を見渡した。
誰もが自分と似たような状態だった。困惑した表情で周りを見回す者、まだ座席に倒れ込んだまま動かない者。
窓の外を見て言葉を失っている者。
今の状況を理解するより先に、車内のあちこちから悲鳴と怒号が上がり始めた。
「じ、事故? 事故だよな、これ」
「運転手さん! 何が起こったの!」
「やだ、やだやだ、何これ。ねえ、嘘でしょ!」
パニックが伝染するように車内に広がっていく。
女性の甲高い悲鳴。
誰かの必死になだめる声。
座席にしがみついたまま動けない者、窓に張り付いて外を覗き込む者、隣の人間に縋りつく者、23人の乗客はそれぞれの方法で、理解の及ばない現実に抵抗していた。
朽名が陽翔の腕にしがみつき震えている。陽翔はその背中をさすりながら、それでも視線だけは油断なく周りの様子を窺っていた。
鈴木芽依と高橋葵は、互いの手を強く握り合ったまま、声も出せずに固まっていた。
その時、「皆さん、落ち着いてください!」運転席から声が響いた。
長年のキャリアが染み付いたその声には、乗客たちの動揺を抑え込もうとする意志の強さがあった。
「とりあえず、怪我をしている方はいませんか。いたら手を挙げてください」
その声に車内のざわめきが少しだけ収まる。だが、それも長くは続かなかった。
「ここ、どこなんですか!」
誰かが悲鳴に近い声で叫んだ。
その声に引きずられるように、車内のあちこちで再び声が上がり始める。
「外、変じゃないですか? 木も変!」
「俺たち、死んだんじゃないよな?なあ、生きてるよな?」
車椅子の奥様が椅子の上で身を縮めながら、ひっきりなしに「帰りたい、帰りたい」と繰り返している。
付き添いの人がその背をさすっているが、彼女の顔からも血の気が引いていた。
桃矢は座席に座ったまま窓の外を観察していた。
地球では見たことのない形の植物があった。
巨大な葉と奇妙な形の花。花弁が螺旋状に重なり合った、見たこともない形の花が枝先で静かに揺れている。
木の幹には青白く光る苔のようなものが点々とついていて、薄暗い木陰の中でぼんやりと発光しているように見えた。
そして空には、赤みがかった橙色の太陽と青白い色の太陽が、2つ並んで浮かんでいた。
橙色の太陽は地球の太陽の2倍ほどの大きさだった。
逆に青白い色の太陽は地球の太陽より小さかった。
2つの太陽が放つ光は、地球の太陽の光とは明らかに質が違っていた。
赤みがかった橙の光と青白い光が混ざり合い、あたり一帯をなんとも形容しがたい柔らかな色合いで染め上げている。
恐怖を感じるはずの光景なのに、桃矢はどこかでその美しさに見惚れている自分に気づいて、違和感を感じながらも目を離せずにいた。
ここは、地球じゃない。
頭ではそう理解していたが、理性がまだ追いついていなかった。
しかし、桃矢の頭の中ではいつもの冷静さを取り戻し始めていた。
状況を整理しよう。
桃矢は車内をぐるりと見渡した。
流血している者もいないようだ。窓ガラスも割れていない。
少なくとも、転移の衝撃で大怪我をした人はいないようだった。
不思議なことに、あれだけ揺れていたのに荷物が散乱することもなく、ほとんど元のままだった。
誰かの鞄が通路に転がっている程度で、激しい衝突や落下があったような形跡はない。
その違和感を頭の片隅に留めながら、桃矢はさらに観察を続けた。
その時「みんな、聞いてくれ!」声を上げたのは、武田だった。
いつの間にか立ち上がり、車内全体を見渡せる位置に立っている。
涼やかな表情はそのままに、しかしその目には明らかな緊張が滲んでいた。
「パニック起こしても何も解決しません。まずは怪我人を確認します。誰か、怪我をした人はいますか」
武田の声には不思議な落ち着きがあった。
剣道部主将として、生徒会長として、人前に立つことに慣れている人間特有の自信と説得力。
それまで悲鳴を上げていた何人かが、口をつぐんで武田を見た。
「私、足首ひねったかも」
手を挙げたのは、1年生の女子生徒だった。
武田はすぐにそちらへ向かう。
「立てるか。立てないなら無理に動くなよ」
「あ、はい、立てます、大丈夫です」
「分かった。他には」
ぽつぽつと、軽い擦り傷や打撲を訴える声が上がる。
男性の高齢者が「腰が痛むが、まあいつものことだ」と苦笑し、隣の人がそれを気遣うように声をかけていた。
幸い、たいした怪我をした人はいないようだった。
武田が次々と声をかけていく様子を、桃矢は座席から眺めていた。
決して大きな声を張り上げているわけではない。
けれど、その言葉に迷いがなく、聞いている側に「この人に任せれば大丈夫だ」と思わせる雰囲気があった。
住む世界が違う人間。改めて、そう思う。
石原と田崎がいつの間にか武田の少し後ろに控えるように立っていた。手伝うわけでもなく、それはただ武田の傍にいることで、自分たちの存在を示そうとしているように見えた。
「とりあえず、外の状況を確認しましょう」
運転手さんがそう提案すると、武田が頷いた。
「そうですね。俺と」
武田が車内を見回し、山崎翔太のところで止まる。
「山崎、一緒に来てくれ」
「おう」
空手部の山崎が軽く頷いて立ち上がった。
2人が運転席の横のドアに向かうのを桃矢は座席から見送る。
「気をつけてね」
誰かがそう声をかけた。
武田は小さく頷き返したが、その横顔には緊張の色が浮かんでいた。
落ち着いているように見えても、武田だって人間だ。何が待っているか分からない場所に足を踏み出すのは、怖いはずだった。
ドアが開く音がして外気が車内に流れ込んでくる。
湿った土と青臭い植物の匂い。
そのほか、地球では嗅いだことのない香りも混じっていた。
「うわ、あったかい。というか、暑いくらいだ」
最初にバスを降りた武田が、小さく声を漏らした。
じっとりとした熱気が肌にまとわりつき、数歩歩いただけで、額にうっすらと汗が滲んでくる。
まるで真夏の温室に放り込まれたような蒸し暑さだった。
車内に残っていた桃矢たちにも、開いたドアから流れ込んでくる空気の質の違いが伝わってきた。
今朝、家を出たときは肌寒さに身をすくめていたはずなのに、ここでは真夏のような暑さだ。
湿度も明らかに高く、呼吸をするたびに肺の中まで湿った空気で満たされていく。
武田と山崎が、慎重な足取りでバスの周囲を確認していく。
1歩進むごとに足元を確かめ、周囲を見渡し、また1歩進む。
その様子を車内の全員が固唾を呑んで見守っていた。
桃矢も、立ち上がってドアに近づく。
バスのすぐ外、降り立った武田と山崎の向こうに、見渡す限りの密林が広がっていた。
空を覆うほどの高さの木々。
その隙間から差し込む、橙と青白い色の混じった光。
地面には見たこともない色の苔らしきものと巨大な葉を持つ植物が密生している。
ふと、武田と山崎の足元に目をやって、桃矢は息を呑んだ。
影が、2つあった。
橙の光が作る影と青白い色の光が作る影。
それぞれ角度の異なる2つの影が地面の上で重なり合うように伸びている。
1人の人間から2つの濃淡の違う影が落ちている光景は、あまりにも異質だった。まるで、その場にもう1人、見えない誰かが立っているかのような奇妙な錯覚を覚える。
地球では絶対にあり得ない光景だった。
木々の枝には見たことのない鳥のような生き物が止まっていて、こちらをじっと見下ろしている。
怯えている様子はなく、むしろ純粋な好奇心だけでこちらを観察しているようだった。
地球の野生動物なら、見知らぬ人間の群れにこれほど無警戒でいることは、まずないだろう。
桃矢はその違和感を、頭の片隅に留めた。
「ここ、本当にどこなんだ」
誰かが、ぽつりと呟いた。その声には恐怖が滲んでいた。
車内に再びざわめきが広がる。
けれど今度は悲鳴ではなく、不安や恐れから出た声だった。
誰かが小さくすすり泣く声が聞こえる。
「とりあえず周りに危険なものはないようだ」
武田がバスに戻ってきて話し出した。
声は努めて平静を装っていたが、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ここがどこなのかは分からない。太陽が2つある。気候も夏のようだ。でも、パニックになっていても仕方ない。まずは全員、落ち着いて状況を整理しましょう」
その言葉に桃矢は静かに頷いた。
言っていることは間違っていない。むしろ、今この瞬間に必要なのは、まさにそれだった。
山崎も武田に続いてバスに戻ってくると、無言のまま安心させるように何度か周囲の生徒たちに頷いてみせた。
空手部らしいがっしりとした体格のおかげか、それだけで車内の空気が少しだけ和らいだ気がした。
前方の席で麗華は両手を強く握りしめながら、武田の様子を見つめていた。
隣の女子生徒が隣で泣きそうな顔をしているのに気づくと、麗華は自分の不安を押し殺すようにその手をそっと握った。
「大丈夫だよ。きっと、なんとかなる」
自分に言い聞かせるような声だった。
それでも、その一言で隣の子の表情が少しだけ和らぐ。
麗華は昔からそうやって誰かのために自分の不安を後回しにする性格だった。
周りの女子生徒たちが不安に押し潰されそうな顔をしている中、麗華だけは恐怖を表に出すまいと、背筋を伸ばしたまま座っていた。
こういう極限状態でこそ滲み出る芯の強さこそが、麗華という人間を他の誰とも違う特別な存在にしているのかもしれない。
桃矢は座席の隅からその様子を見ながら、漠然とそんなことを思った。
武田はさらに続けた。
「外には危険な動物がいるかもしれない。今は誰もバスの外に出ない方がいい。水はあるか。食料はあるか。夜になったらどうするか。この密林に、危険な生き物はいないか。まだ、何も分かっていない」
最初の判断を間違えれば、この先の展開は大きく変わる。
分かっていることが少なすぎる今、焦って動くのは悪手だ。
まずは観察。それから、最低限の安全を確保する。
窓の外では2つの太陽が奇妙なほど美しい光を地上に降り注いでいた。
その光景を眺めながら、桃矢はぼんやりと思った。
これ、あのゲームの世界と同じパターンだ。
場違いなことに、頭の片隅で昨夜陽翔とプレイしたサバイバルゲームのことを思い出していた。
武器も装備もない状態で、見知らぬ星に放り出される主人公。けれどあのゲームでは、生き延びるための知恵さえあればなんとかなった。
けれど現実はゲームのようにはいかないだろう。それでも、何もできないわけじゃない。
これからどうするか。桃矢は深呼吸をして、車内を改めて見渡した。




